表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

67/174

閑話 広信の葛藤

閑話 広信の葛藤

秋の終わり、木々の葉が色づき始めた頃。

神崎広信は、一人、屋敷の庭を歩いていた。

十八歳の広信にとって、この秋は、特別な意味を持っていた。

田邊紘一が神崎家に来てから、半年が経った。その半年で、領地は大きく変わった。そして、広信自身も、変わろうとしていた。

だが、その変化は、容易ではなかった。

広信は、池のほとりに座った。

水面を見つめる。紅葉した木々が、水面に映っている。美しい光景だった。だが、広信の心は、穏やかではなかった。

「俺は、本当に領主になれるのだろうか」

広信は、自問していた。

神崎家の跡取りとして生まれた。幼い頃から、いつか領主になると言われ続けてきた。だが、それが何を意味するのか、本当には理解していなかった。

領主とは、何をする者なのか。

単に、家臣たちに命令を下す者なのか。領民たちから年貢を集める者なのか。

違う。広信は、最近、それが違うと理解し始めていた。

田邊紘一を見て、学んだ。

領主とは、人々を導く者だ。人々の生活を良くする者だ。人々に希望を与える者だ。

だが、自分にそれができるだろうか。

広信は、不安だった。

「広信様」

後ろから声がした。振り返ると、田邊紘一が立っていた。

「田邊さん……」

「探しましたよ」紘一は、微笑んで、広信の隣に座った。「どうかしましたか」

「いえ……少し、考え事をしていました」

「何を考えていたのですか」

広信は、少し躊躇した。だが、紘一には、話せる気がした。

「俺……本当に領主になれるのでしょうか」広信の声は、小さかった。

紘一は、広信を見た。その目には、優しさがあった。

「どうして、そう思うのですか」

「田邊さんを見ていると、思うんです」広信は、続けた。「田邊さんは、すべてを知っています。農業のこと、戦術のこと、外交のこと」広信の声が、震えた。「それに比べて、俺は何も知らない」

広信は、池を見つめた。

「松永との戦いの時も、田邊さんが戦術を考えました。小山領との交渉も、田邊さんが成功させました」広信は、拳を握りしめた。「俺は、何もできませんでした」

紘一は、しばらく黙っていた。

やがて、紘一が口を開いた。

「広信様」

「はい」

「私も、最初は何も知りませんでした」

広信は、驚いて紘一を見た。

「本当ですか」

「本当です」紘一は、微笑んだ。「記憶を失って、この地に来た時、私は何も知りませんでした」

紘一は、空を見上げた。

「農業のことも、戦いのことも、外交のことも。すべて、ここに来てから学びました」

「でも、田邊さんは、すぐに色々なことができるようになりました」

「いいえ」紘一は、首を横に振った。「私も、失敗をたくさんしました」

紘一は、続けた。

「最初、間断灌漑を太郎さんに説明した時、うまく伝えられませんでした」紘一の声が、少し笑っていた。「太郎さんは、困った顔をしていました」

「そうだったんですか」

「ええ。何度も説明を繰り返して、やっと理解してもらえました」紘一は、続けた。「松永との戦いの時も、最初の作戦は、完璧ではありませんでした。伊藤殿に指摘されて、修正しました」

広信は、初めて聞く話だった。

「つまり、田邊さんも、失敗しながら学んだんですか」

「その通りです」紘一は、頷いた。「失敗は、恥ずかしいことではありません」紘一の声が、真剣になった。「失敗から学ぶことが、大切なのです」

広信は、紘一の言葉を噛みしめた。

「広信様」紘一が、続けた。「あなたは、まだ十八歳です」

「はい」

「私が、あなたの年齢の時、何をしていたか」紘一は、遠くを見た。「おそらく、遊んでいました。真剣に、将来のことなど考えていませんでした」

紘一は、広信を見た。

「ですが、あなたは違います」紘一の声には、賞賛があった。「あなたは、真剣に領主になることを考えています。領民のことを考えています」

「でも、それだけでは……」

「それが、最も重要なことです」紘一は、断言した。「知識や技術は、後から学べます」紘一は、続けた。「ですが、人々を思いやる心は、教えられて身につくものではありません」

紘一は、広信の肩を叩いた。

「広信様には、その心があります」紘一の声は、確信に満ちていた。「だから、必ず立派な領主になれます」

広信の目に、涙が滲んだ。

「本当に……そう思いますか」

「本当です」

広信は、涙を拭った。「ありがとうございます、田邊さん」

二人は、しばらく黙って池を見ていた。

やがて、広信が口を開いた。

「田邊さん、俺に、色々教えてください」

「もちろんです」

「農業のこと、政治のこと、外交のこと」広信の目には、決意が宿っていた。「すべて、学びたいです」

「はい。一緒に学びましょう」紘一は、微笑んだ。

「そして……」広信は、続けた。「俺も、田邊さんのように、人々を助けられる領主になりたいです」

紘一は、感動していた。この若者の純粋な思い。それが、心に響いた。

「必ず、なれます」紘一は、約束した。「私が、全力で支えます」

広信は、深く頭を下げた。「よろしくお願いします」

その日から、広信の学びが本格的に始まった。

毎日、朝早くから、紘一と広信は一緒に過ごした。

朝は、村を回った。領民たちの様子を見る。田んぼを見る。何が問題で、何が必要か。それを、観察する。

「広信様、あの田んぼを見てください」紘一が、指差した。

「あれは……太郎さんの田んぼですね」

「はい。間断灌漑を始めて、一ヶ月が経ちました」紘一は、説明した。「稲の様子を見てください。他の田んぼと、何が違いますか」

広信は、じっと観察した。

「葉の色が、濃いです」

「その通りです」紘一は、頷いた。「葉の色が濃いということは、栄養が十分に行き渡っているということです」

「なるほど」

「そして、茎を見てください」

広信は、茎を見た。

「太いです」

「はい。茎が太いということは、根がしっかりしているということです」紘一は、説明した。「これが、間断灌漑の効果です」

広信は、感心したように頷いた。

昼は、屋敷で、様々な書物を読んだ。

紘一が持っている知識を、広信に伝える。だが、すべてを言葉で伝えることはできない。だから、紘一は、広信に考えさせた。

「広信様、もし隣の領主が、我が領地を攻めてきたら、どうしますか」

広信は、考え込んだ。

「戦います」

「どうやって」

「兵を集めて、迎え撃ちます」

「それだけですか」紘一は、問いかけた。「他に、方法はありませんか」

広信は、さらに考えた。

「外交……ですか」

「そうです」紘一は、微笑んだ。「戦う前に、交渉する。それも、一つの方法です」

「なるほど」

「そして、もし交渉が失敗したら」紘一は、続けた。「その時、初めて戦う」

広信は、新しい視点を学んだ。

戦いは、最後の手段だ。その前に、できることがある。

夕方は、寺子屋で、子供たちに字を教えた。

最初、広信は緊張していた。人に教えるなど、したことがなかった。

だが、紘一が隣で支えてくれた。

「では、広信様、『一』という字を、教えてください」

広信は、大きな紙に、『一』という字を書いた。

「これは、『一』という字です」広信の声は、少し震えていた。「一本の線です」

子供たちは、真剣に見ていた。

「では、皆さんも、書いてみてください」

子供たちは、筆を持って、紙に字を書き始めた。

広信は、一人一人を見て回った。

「良いですね。もう少し、この線を真っ直ぐに」

「そうです。上手です」

子供たちは、嬉しそうに笑った。

授業が終わった後、紘一が言った。

「広信様、素晴らしかったです」

「本当ですか」広信は、不安そうだった。

「本当です。子供たちも、喜んでいました」

広信は、嬉しそうに微笑んだ。

「教えるということが、こんなに楽しいとは思いませんでした」

「そうでしょう」紘一は、頷いた。「人が成長する姿を見るのは、何より嬉しいことです」

こうして、広信は、毎日、学び続けた。

そして、一ヶ月が経った頃、変化が表れた。

ある日、領民の一人が、屋敷を訪ねてきた。

名を三郎という、四十代の農民だった。

「広信様に、お話があります」

家臣が、広信を呼んだ。

広信は、三郎に会った。

「三郎、どうした」

「広信様、実は……」三郎は、困った顔をしていた。「隣の田んぼの持ち主と、水の使い方で揉めています」

「水の使い方……」

「はい。我々、間断灌漑を始めました」三郎は、説明した。「ですが、隣の持ち主が、『水を抜くなんて、もったいない』と言って、怒っています」

広信は、考えた。これは、領主として、判断しなければならない問題だ。

「分かった。両方の話を聞こう」広信は、決めた。

広信は、三郎と、隣の田んぼの持ち主、名を五郎という男を呼んだ。

「五郎、三郎、それぞれの話を聞かせてくれ」

三郎が、先に話した。

「俺、間断灌漑を始めました。田邊様に教わった通りに、やっています」三郎は、続けた。「ですが、五郎が、『水を抜くのは、もったいない。俺の田んぼにも影響が出る』と言います」

次に、五郎が話した。

「広信様、水は貴重です」五郎の声は、強かった。「それを抜くなんて、もったいない」五郎は、続けた。「そして、三郎が水を抜くと、水路の水量が変わります。俺の田んぼにも、影響が出ます」

広信は、二人の話を聞いた。

そして、考えた。

田邊さんなら、どうするだろうか。

広信は、田邊紘一から学んだことを思い出した。

「まず、事実を確認する」

広信は、尋ねた。

「五郎、三郎が水を抜いたことで、お前の田んぼに、具体的にどんな影響が出たのか」

五郎は、少し考えてから、答えた。

「まだ、影響は出ていません。ですが、これから出るかもしれません」

「つまり、まだ実害はないのだな」

「はい……」

広信は、頷いた。

「分かった。では、こうしよう」広信は、提案した。「三郎は、間断灌漑を続ける。ただし、水を抜く時は、五郎に事前に知らせる」

広信は、続けた。

「そして、五郎は、もし実際に影響が出たら、すぐに三郎に伝える。その時、二人で話し合って、解決策を考える」

二人は、顔を見合わせた。

「それなら……」三郎が、言った。

「分かりました」五郎も、頷いた。

「そして、もし二人で解決できなかったら、また俺に相談してくれ」広信は、続けた。「一緒に、考えよう」

二人は、深く頭を下げた。

「ありがとうございます、広信様」

二人が去った後、紘一が現れた。

「広信様、素晴らしい判断でした」

広信は、驚いた。「聞いていたんですか」

「はい。隣の部屋で」紘一は、微笑んだ。「両方の話を聞き、事実を確認し、双方が納得できる解決策を提示する」紘一は、賞賛した。「完璧でした」

広信の顔が、明るくなった。

「本当ですか」

「本当です」紘一は、続けた。「これが、領主の役目です。人々の間の問題を、公平に解決する」

広信は、嬉しかった。初めて、自分一人で、問題を解決できた。

「田邊さんから、学んだことが、役に立ちました」

「いいえ、それは広信様の力です」紘一は、首を横に振った。「私が教えたのは、方法だけです。それを実践したのは、広信様です」

その夜、広信は一人、部屋で考えていた。

今日、初めて、領主としての役割を果たせた気がした。

小さなことかもしれない。だが、確かに、人々の役に立った。

「これが、領主の仕事なんだ」広信は、呟いた。

そして、広信は決意した。

もっと学ぼう。もっと成長しよう。

いつか、父のように、立派な領主になろう。

そして、田邊さんのように、人々を助けられる領主になろう。

窓の外を見ると、月が出ていた。半月。その光が、部屋を照らしている。

「頑張ろう」広信は、自分に言い聞かせた。

冬が、近づいていた。

だが、広信の心は、温かかった。

学ぶ喜び。成長する喜び。人々を助ける喜び。

それらが、広信の心を満たしていた。

(閑話 完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ