閑話 広信の葛藤
閑話 広信の葛藤
秋の終わり、木々の葉が色づき始めた頃。
神崎広信は、一人、屋敷の庭を歩いていた。
十八歳の広信にとって、この秋は、特別な意味を持っていた。
田邊紘一が神崎家に来てから、半年が経った。その半年で、領地は大きく変わった。そして、広信自身も、変わろうとしていた。
だが、その変化は、容易ではなかった。
広信は、池のほとりに座った。
水面を見つめる。紅葉した木々が、水面に映っている。美しい光景だった。だが、広信の心は、穏やかではなかった。
「俺は、本当に領主になれるのだろうか」
広信は、自問していた。
神崎家の跡取りとして生まれた。幼い頃から、いつか領主になると言われ続けてきた。だが、それが何を意味するのか、本当には理解していなかった。
領主とは、何をする者なのか。
単に、家臣たちに命令を下す者なのか。領民たちから年貢を集める者なのか。
違う。広信は、最近、それが違うと理解し始めていた。
田邊紘一を見て、学んだ。
領主とは、人々を導く者だ。人々の生活を良くする者だ。人々に希望を与える者だ。
だが、自分にそれができるだろうか。
広信は、不安だった。
「広信様」
後ろから声がした。振り返ると、田邊紘一が立っていた。
「田邊さん……」
「探しましたよ」紘一は、微笑んで、広信の隣に座った。「どうかしましたか」
「いえ……少し、考え事をしていました」
「何を考えていたのですか」
広信は、少し躊躇した。だが、紘一には、話せる気がした。
「俺……本当に領主になれるのでしょうか」広信の声は、小さかった。
紘一は、広信を見た。その目には、優しさがあった。
「どうして、そう思うのですか」
「田邊さんを見ていると、思うんです」広信は、続けた。「田邊さんは、すべてを知っています。農業のこと、戦術のこと、外交のこと」広信の声が、震えた。「それに比べて、俺は何も知らない」
広信は、池を見つめた。
「松永との戦いの時も、田邊さんが戦術を考えました。小山領との交渉も、田邊さんが成功させました」広信は、拳を握りしめた。「俺は、何もできませんでした」
紘一は、しばらく黙っていた。
やがて、紘一が口を開いた。
「広信様」
「はい」
「私も、最初は何も知りませんでした」
広信は、驚いて紘一を見た。
「本当ですか」
「本当です」紘一は、微笑んだ。「記憶を失って、この地に来た時、私は何も知りませんでした」
紘一は、空を見上げた。
「農業のことも、戦いのことも、外交のことも。すべて、ここに来てから学びました」
「でも、田邊さんは、すぐに色々なことができるようになりました」
「いいえ」紘一は、首を横に振った。「私も、失敗をたくさんしました」
紘一は、続けた。
「最初、間断灌漑を太郎さんに説明した時、うまく伝えられませんでした」紘一の声が、少し笑っていた。「太郎さんは、困った顔をしていました」
「そうだったんですか」
「ええ。何度も説明を繰り返して、やっと理解してもらえました」紘一は、続けた。「松永との戦いの時も、最初の作戦は、完璧ではありませんでした。伊藤殿に指摘されて、修正しました」
広信は、初めて聞く話だった。
「つまり、田邊さんも、失敗しながら学んだんですか」
「その通りです」紘一は、頷いた。「失敗は、恥ずかしいことではありません」紘一の声が、真剣になった。「失敗から学ぶことが、大切なのです」
広信は、紘一の言葉を噛みしめた。
「広信様」紘一が、続けた。「あなたは、まだ十八歳です」
「はい」
「私が、あなたの年齢の時、何をしていたか」紘一は、遠くを見た。「おそらく、遊んでいました。真剣に、将来のことなど考えていませんでした」
紘一は、広信を見た。
「ですが、あなたは違います」紘一の声には、賞賛があった。「あなたは、真剣に領主になることを考えています。領民のことを考えています」
「でも、それだけでは……」
「それが、最も重要なことです」紘一は、断言した。「知識や技術は、後から学べます」紘一は、続けた。「ですが、人々を思いやる心は、教えられて身につくものではありません」
紘一は、広信の肩を叩いた。
「広信様には、その心があります」紘一の声は、確信に満ちていた。「だから、必ず立派な領主になれます」
広信の目に、涙が滲んだ。
「本当に……そう思いますか」
「本当です」
広信は、涙を拭った。「ありがとうございます、田邊さん」
二人は、しばらく黙って池を見ていた。
やがて、広信が口を開いた。
「田邊さん、俺に、色々教えてください」
「もちろんです」
「農業のこと、政治のこと、外交のこと」広信の目には、決意が宿っていた。「すべて、学びたいです」
「はい。一緒に学びましょう」紘一は、微笑んだ。
「そして……」広信は、続けた。「俺も、田邊さんのように、人々を助けられる領主になりたいです」
紘一は、感動していた。この若者の純粋な思い。それが、心に響いた。
「必ず、なれます」紘一は、約束した。「私が、全力で支えます」
広信は、深く頭を下げた。「よろしくお願いします」
その日から、広信の学びが本格的に始まった。
毎日、朝早くから、紘一と広信は一緒に過ごした。
朝は、村を回った。領民たちの様子を見る。田んぼを見る。何が問題で、何が必要か。それを、観察する。
「広信様、あの田んぼを見てください」紘一が、指差した。
「あれは……太郎さんの田んぼですね」
「はい。間断灌漑を始めて、一ヶ月が経ちました」紘一は、説明した。「稲の様子を見てください。他の田んぼと、何が違いますか」
広信は、じっと観察した。
「葉の色が、濃いです」
「その通りです」紘一は、頷いた。「葉の色が濃いということは、栄養が十分に行き渡っているということです」
「なるほど」
「そして、茎を見てください」
広信は、茎を見た。
「太いです」
「はい。茎が太いということは、根がしっかりしているということです」紘一は、説明した。「これが、間断灌漑の効果です」
広信は、感心したように頷いた。
昼は、屋敷で、様々な書物を読んだ。
紘一が持っている知識を、広信に伝える。だが、すべてを言葉で伝えることはできない。だから、紘一は、広信に考えさせた。
「広信様、もし隣の領主が、我が領地を攻めてきたら、どうしますか」
広信は、考え込んだ。
「戦います」
「どうやって」
「兵を集めて、迎え撃ちます」
「それだけですか」紘一は、問いかけた。「他に、方法はありませんか」
広信は、さらに考えた。
「外交……ですか」
「そうです」紘一は、微笑んだ。「戦う前に、交渉する。それも、一つの方法です」
「なるほど」
「そして、もし交渉が失敗したら」紘一は、続けた。「その時、初めて戦う」
広信は、新しい視点を学んだ。
戦いは、最後の手段だ。その前に、できることがある。
夕方は、寺子屋で、子供たちに字を教えた。
最初、広信は緊張していた。人に教えるなど、したことがなかった。
だが、紘一が隣で支えてくれた。
「では、広信様、『一』という字を、教えてください」
広信は、大きな紙に、『一』という字を書いた。
「これは、『一』という字です」広信の声は、少し震えていた。「一本の線です」
子供たちは、真剣に見ていた。
「では、皆さんも、書いてみてください」
子供たちは、筆を持って、紙に字を書き始めた。
広信は、一人一人を見て回った。
「良いですね。もう少し、この線を真っ直ぐに」
「そうです。上手です」
子供たちは、嬉しそうに笑った。
授業が終わった後、紘一が言った。
「広信様、素晴らしかったです」
「本当ですか」広信は、不安そうだった。
「本当です。子供たちも、喜んでいました」
広信は、嬉しそうに微笑んだ。
「教えるということが、こんなに楽しいとは思いませんでした」
「そうでしょう」紘一は、頷いた。「人が成長する姿を見るのは、何より嬉しいことです」
こうして、広信は、毎日、学び続けた。
そして、一ヶ月が経った頃、変化が表れた。
ある日、領民の一人が、屋敷を訪ねてきた。
名を三郎という、四十代の農民だった。
「広信様に、お話があります」
家臣が、広信を呼んだ。
広信は、三郎に会った。
「三郎、どうした」
「広信様、実は……」三郎は、困った顔をしていた。「隣の田んぼの持ち主と、水の使い方で揉めています」
「水の使い方……」
「はい。我々、間断灌漑を始めました」三郎は、説明した。「ですが、隣の持ち主が、『水を抜くなんて、もったいない』と言って、怒っています」
広信は、考えた。これは、領主として、判断しなければならない問題だ。
「分かった。両方の話を聞こう」広信は、決めた。
広信は、三郎と、隣の田んぼの持ち主、名を五郎という男を呼んだ。
「五郎、三郎、それぞれの話を聞かせてくれ」
三郎が、先に話した。
「俺、間断灌漑を始めました。田邊様に教わった通りに、やっています」三郎は、続けた。「ですが、五郎が、『水を抜くのは、もったいない。俺の田んぼにも影響が出る』と言います」
次に、五郎が話した。
「広信様、水は貴重です」五郎の声は、強かった。「それを抜くなんて、もったいない」五郎は、続けた。「そして、三郎が水を抜くと、水路の水量が変わります。俺の田んぼにも、影響が出ます」
広信は、二人の話を聞いた。
そして、考えた。
田邊さんなら、どうするだろうか。
広信は、田邊紘一から学んだことを思い出した。
「まず、事実を確認する」
広信は、尋ねた。
「五郎、三郎が水を抜いたことで、お前の田んぼに、具体的にどんな影響が出たのか」
五郎は、少し考えてから、答えた。
「まだ、影響は出ていません。ですが、これから出るかもしれません」
「つまり、まだ実害はないのだな」
「はい……」
広信は、頷いた。
「分かった。では、こうしよう」広信は、提案した。「三郎は、間断灌漑を続ける。ただし、水を抜く時は、五郎に事前に知らせる」
広信は、続けた。
「そして、五郎は、もし実際に影響が出たら、すぐに三郎に伝える。その時、二人で話し合って、解決策を考える」
二人は、顔を見合わせた。
「それなら……」三郎が、言った。
「分かりました」五郎も、頷いた。
「そして、もし二人で解決できなかったら、また俺に相談してくれ」広信は、続けた。「一緒に、考えよう」
二人は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、広信様」
二人が去った後、紘一が現れた。
「広信様、素晴らしい判断でした」
広信は、驚いた。「聞いていたんですか」
「はい。隣の部屋で」紘一は、微笑んだ。「両方の話を聞き、事実を確認し、双方が納得できる解決策を提示する」紘一は、賞賛した。「完璧でした」
広信の顔が、明るくなった。
「本当ですか」
「本当です」紘一は、続けた。「これが、領主の役目です。人々の間の問題を、公平に解決する」
広信は、嬉しかった。初めて、自分一人で、問題を解決できた。
「田邊さんから、学んだことが、役に立ちました」
「いいえ、それは広信様の力です」紘一は、首を横に振った。「私が教えたのは、方法だけです。それを実践したのは、広信様です」
その夜、広信は一人、部屋で考えていた。
今日、初めて、領主としての役割を果たせた気がした。
小さなことかもしれない。だが、確かに、人々の役に立った。
「これが、領主の仕事なんだ」広信は、呟いた。
そして、広信は決意した。
もっと学ぼう。もっと成長しよう。
いつか、父のように、立派な領主になろう。
そして、田邊さんのように、人々を助けられる領主になろう。
窓の外を見ると、月が出ていた。半月。その光が、部屋を照らしている。
「頑張ろう」広信は、自分に言い聞かせた。
冬が、近づいていた。
だが、広信の心は、温かかった。
学ぶ喜び。成長する喜び。人々を助ける喜び。
それらが、広信の心を満たしていた。
(閑話 完)




