二十五、神崎領帰還—広綱への報告
翌日、紘一は小山領を後にした。
伊藤、平吉と共に、神崎領への帰路についた。
小山貞親と家臣たちが、門まで見送りに来た。
「田邊殿、本当にありがとうございました」
貞親は、深く頭を下げた。
その目には、涙が滲んでいた。
「我が領地を、救ってくださいました」
「いえ、私は……」
紘一は、複雑な思いで答えた。
救ったのか、それとも……
その答えは、まだ分からない。
「ただ、戦いを避けたかっただけです」
「それでも、感謝しています」
吉田も、頭を下げた。
「田邊殿のおかげで、領民たちは救われました」
山本は、少し離れたところに立っていた。
紘一と目が合った。
山本の目には、まだ複雑な感情が渦巻いていた。
怒り、悲しみ、そして諦め。
だが、山本は小さく頭を下げた。
それが、山本なりの感謝の表現だった。
紘一も、頭を下げた。
貞信は、来ていなかった。
おそらく、まだ納得していないのだろう。
「では、行ってきます」
紘一は、馬に乗った。
「斎藤道三様との交渉、必ず成功させます」
「お願いします」
一行は、小山領を後にした。
馬を走らせながら、紘一は考えていた。
小山領主の説得は、成功した。
一ヶ月の期限内に、臣従を受け入れさせた。
これで、戦いは避けられる。
多くの命が救われる。
だが、紘一の心は、晴れなかった。
貞親の涙が、脳裏に焼き付いている。
山本の苦しみが、胸に重くのしかかっている。
貞信の悔しさが、心に突き刺さっている。
「俺は、正しいことをしたのか……」
紘一は、自問した。
確かに、戦いは避けられた。
領民たちは、救われた。
だが、同時に、多くの人々の誇りを傷つけた。
特に、武士たちの。
彼らにとって、誇りは命よりも大切なものだった。
それを、奪った。
「これが、外交なのか……」
紘一は、苦い思いを噛みしめた。
外交とは、妥協だ。
すべての人が満足する解決など、ない。
誰かが得をすれば、誰かが損をする。
誰かが笑えば、誰かが泣く。
それが、現実だった。
「田邊殿」
伊藤が、馬を並べてきた。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
「見事な交渉でした」
伊藤は、賞賛した。
「小山領主を説得し、家臣たちも納得させた。素晴らしい働きです」
「いえ……」
紘一は、首を横に振った。
「私は、ただ現実を突きつけただけです」
「それが、難しいのです」
伊藤は、真剣な顔で言った。
「現実を見せることは、時に残酷です」
「ですが、それが必要なこともあります」
伊藤の言葉に、紘一は少し救われた気がした。
数時間後、一行は神崎領に戻った。
広信と家臣たちが、出迎えてくれた。
「田邊さん、お帰りなさい!」
広信の顔は、喜びで輝いていた。
「交渉は?」
「成功しました」
紘一は、報告した。
「小山領主は、斎藤家への臣従を受け入れました」
「本当ですか!」
広信の顔が、一気に明るくなった。
「それは素晴らしい」
家臣たちからも、歓声が上がった。
「さすが、田邊殿だ」
「見事な働きだ」
紘一は、皆に頭を下げた。
そして、すぐに広綱に報告することになった。
広綱は、自室で紘一を待っていた。
体調は、さらに良くなっているようだった。
杖なしで、立っている。
顔色も良く、声にも力がある。
「田邊、よく戻った」
広綱は、微笑んだ。
「無事で何よりだ」
「ありがとうございます」
紘一は、深く頭を下げた。
「小山領主の説得に成功しました」
「聞いた。見事だ」
広綱は、頷いた。
「だが……」
広綱の目が、鋭くなった。
「お前、辛かったな」
紘一は、驚いた。
広綱は、紘一の心の内を見抜いていた。
「……はい」
紘一は、正直に答えた。
「小山領主を説得しましたが、多くの人を傷つけました」
「そうだろうな」
広綱は、窓の外を見た。
「外交とは、そういうものだ」
広綱の声には、経験からくる重みがあった。
「誰もが笑顔になる解決など、ない」
「必ず、誰かが泣く。誰かが、怒る。誰かが、諦める」
広綱は、紘一を見た。
「だが、それでも、決断しなければならない」
「そして、その決断の重さを、背負わなければならない」
広綱の言葉が、紘一の胸に響いた。
「お前は、その重さを感じている。それでいい」
広綱は、続けた。
「もし、何も感じなくなったら、お前は終わりだ」
「人の痛みを感じられなくなったら、お前は只の策士になってしまう」
紘一は、深く頷いた。
広綱の言葉が、心に染み入った。
「田邊」
「はい」
「お前は、よくやった」
広綱は、微笑んだ。
「戦いを避け、多くの命を救った。それは、誇っていい」
「だが、同時に、傷ついた人々のことも忘れるな」
広綱は、続けた。
「彼らの痛みを、心に刻め」
「そして、いつか、その痛みを癒す方法を考えろ」
「……はい」
紘一は、深く感動した。
広綱の言葉が、紘一の心を癒した。
傷ついた人々のことを忘れるな。
その痛みを、心に刻め。
そして、いつか、その痛みを癒す方法を考えろ。
その言葉が、紘一の使命になった。




