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二十二、安田との接触—現実主義者の計算

その日の夕方、紘一は吉田の紹介で、安田という男に会った。

場所は、屋敷の隅にある小さな部屋だった。

帳簿や算盤が並んでいる。

財政を管理する部屋だろう。

壁には、収支を記録した紙が貼られている。

だが、その数字を見ると、紘一は眉をひそめた。

赤字だ。

明らかな、赤字だ。

収入より支出が多い。

このままでは、いずれ破綻する。

おそらく、あと数年だろう。

「田邊様、こちらが安田です」

吉田が、紹介した。

安田は、四十代前半の、痩せた男だった。

顔には知性が浮かんでいるが、どこか陰があった。

目は鋭く、計算高そうだ。

だが、同時に、疲れも見える。

目の下には隈があり、頬もこけている。

おそらく、この領地の財政を何とかしようと、必死に働いているのだろう。

武士の着物を着ているが、その仕草は商人のようだった。

動きが機敏で、無駄がない。

常に何かを計算しているような、そんな雰囲気だった。

指先が、細かく動いている。

無意識に、算盤を弾くような動きをしている。

「初めまして、田邊殿」

安田は、丁寧に頭を下げた。

その礼は、完璧だった。

角度、タイミング、すべてが計算されている。

商人としての訓練が、染み付いているのだろう。

「噂は聞いております」

安田の声は、落ち着いていた。

感情を表に出さない、ビジネスライクな声だ。

「こちらこそ」

紘一も、頭を下げた。

「今日は、お時間をいただき、ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ」

安田は、座るように勧めた。

三人は、座った。

安田は、すぐに茶を用意した。

その動きは、素早く、効率的だった。

無駄な動きが一切ない。

商人としての訓練が、ここにも表れている。

「安田殿」

紘一は、単刀直入に切り出した。

時間がない。

遠回しに話す余裕はなかった。

「小山領の財政について、お聞かせ願えますか」

「財政、ですか」

安田の目が、鋭くなった。

計算している。

紘一が何を求めているのか。

この情報を出すべきかどうか。

すべてを、瞬時に判断している。

「なぜ、そのようなことを」

安田の声は、慎重だった。

財政は、領地の機密情報だ。

簡単に教えるわけにはいかない。

「臣従の条件を、斎藤家と交渉するためです」

紘一は、正直に答えた。

嘘をついても、すぐに見抜かれるだろう。

安田のような計算高い男には。

「小山領の現状を知らなければ、適切な条件を引き出せません」

紘一の説明は、論理的だった。

安田のような現実主義者には、論理が効く。

安田は、しばらく考えていたが、やがて頷いた。

「分かりました。お話しします」

安田は、帳簿を開いた。

その動きは、慣れている。

毎日、この帳簿と向き合っているのだろう。

「小山領の年貢収入は、米換算で約五百石です」

安田の声は、淡々としていた。

感情を排し、事実だけを述べている。

「五百石……」

紘一は、その数字を頭に入れた。

小さい。

かなり小さい。

神崎家でさえ、松永領を吸収する前で八百石だった。

小山領は、それよりさらに小さい。

「はい」

安田は、続けた。

「ですが、そこから兵の給料、城の維持費、殿の生活費などを引くと、ほとんど残りません」

安田は、帳簿を指差した。

その指先が、数字を追っている。

「兵の給料が、年間百八十石」

「城の維持費が、五十石」

「殿と家臣の生活費が、百二十石」

「その他諸経費が、百石」

安田は、計算した。

「合計で、四百五十石」

「収入が五百石で、支出が四百五十石」

「差し引き、五十石の黒字……と思われるでしょうが」

安田の声が、暗くなった。

「実際には、赤字です」

「赤字、ですか」

紘一は、驚いた。

計算では、黒字のはずだ。

「はい」

安田は、説明した。

「天候不順で、年貢が予定通り入らない年があります」

「災害で、田畑が被害を受けることもあります」

「病気が流行れば、医療費がかかります」

安田の説明は、現実的だった。

理論と現実は、違う。

「そういった不測の事態で、毎年赤字になります」

安田の声には、疲労が滲んでいた。

「実際、毎年赤字です」

安田は、別の帳簿を開いた。

「蓄えを切り崩して、なんとか持たせている状態です」

安田の指が、数字を指した。

その数字は、年々減っている。

蓄えが、確実に減っている。

「このままでは、あと三年で破綻します」

安田の言葉は、冷徹だった。

だが、それが現実だった。

「三年……」

紘一は、驚いた。

思っていたより、状況は深刻だった。

「はい」

安田は、頷いた。

その顔には、諦めが浮かんでいた。

長年、この問題と向き合ってきた。

だが、解決策は見つからなかった。

だから、諦めている。

「戦争など、できる状況ではありません」

安田は、断言した。

「兵を養う金もない。武器を買う金もない」

安田の声は、厳しかった。

現実を直視している。

「もし斎藤家と戦えば、一日で負けます」

「そして、領地は奪われます」

「領民は、さらに苦しむことになります」

「なるほど……」

紘一は、頷いた。

安田の分析は、的確だった。

感情を排し、数字で現実を見ている。

「ですから、私は臣従に賛成です」

安田は、真剣な顔で言った。

その目には、計算があった。

だが、同時に、希望もあった。

「斎藤家に臣従すれば、経済的な支援を受けられるかもしれません」

安田の言葉には、期待が込められていた。

「年貢の負担が減るかもしれません」

「あるいは、交易の許可が得られるかもしれません」

安田は、様々な可能性を計算している。

「そうすれば、財政が安定します」

「領民の生活も、良くなります」

安田の声には、初めて感情が込められた。

希望。

長年、財政難に苦しんできた男の、わずかな希望。

「安田殿」

紘一は、尋ねた。

「もし、斎藤家から経済的な支援を引き出せるなら、どれくらい必要ですか」

「そうですね……」

安田は、即座に計算した。

その速さは、驚異的だった。

まるで、すでに何度も計算していたかのように。

「年間、百石分の支援があれば、財政は安定します」

安田は、答えた。

「それがあれば、赤字を解消できます」

「そして、余剰分を、領地の発展に使えます」

安田の目が、輝いた。

数字が、希望を生み出している。

「田畑の改良、道路の整備、灌漑設備の建設」

「そういったことに、投資できます」

安田は、続けた。

「そうすれば、収穫が増えます」

「年貢収入も増えます」

「好循環が生まれます」

安田の声は、興奮していた。

数字が見えている。

未来が見えている。

「分かりました」

紘一は、その数字を頭に入れた。

年間百石。

斎藤道三との交渉で、使える情報だ。

「できるだけ、良い条件を引き出すようにします」

「お願いします」

安田は、深く頭を下げた。

その頭を下げる角度も、完璧だった。

商人としての訓練が、ここにも表れている。

「田邊殿、私は商人の出です」

安田は、自嘲的に笑った。

その笑いには、苦味があった。

「ですから、他の家臣たちからは、軽蔑されています」

安田の声には、長年の苦しみが滲んでいた。

「武士ではない、と」

「商人の出だ、と」

「そう言って、私の意見を聞いてくれません」

安田の目に、涙が滲んだ。

「ですが、私は現実を見ています」

安田は、拳を握りしめた。

「誇りだけでは、領地は守れません」

「金がなければ、何もできません」

安田の声は、真剣だった。

「それを、誰も理解してくれなかった」

「でも、田邊殿は違う」

安田は、紘一を見た。

その目には、感謝が浮かんでいた。

「田邊殿は、私の意見を聞いてくれました」

「数字を、理解してくれました」

安田の声が、震えた。

「ありがとうございます」

「いえ、当然のことです」

紘一は、首を横に振った。

「現実を見ることは、決して恥ずかしいことではありません」

紘一は、続けた。

「むしろ、それこそが真の知恵です」

「感情に流されず、数字で現実を見る」

「それができる安田殿は、立派な方です」

紘一の言葉に、安田の目から涙がこぼれた。

四十代の男が、泣いている。

長年、軽蔑されてきた男が、初めて認められて、泣いている。

「ありがとうございます」

安田は、何度も頭を下げた。

「田邊殿、必ず良い条件を引き出してください」

「この領地のために」

「領民のために」

「はい。必ず」

紘一は、約束した。



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