二十、吉田との密談—現実主義者の苦悩
吉田は、紘一と伊藤を、小さな部屋に案内した。
平吉と護衛の兵たちは、別室で待機することになった。
部屋は、質素だが清潔だった。
畳が敷かれ、床の間には掛け軸が飾られている。
掛け軸には、「誠」という文字が書かれていた。
質素な書だが、筆使いは丁寧だった。
おそらく、吉田自身が書いたものだろう。
「誠」
その文字が、吉田という人物を表しているようだった。
誠実で、真面目で、嘘をつかない。
そういう人物なのだろう。
「どうぞ、お座りください」
吉田が、勧めた。
その態度は、丁寧で、礼儀正しい。
紘一と伊藤は、座った。
吉田も、向かい側に座った。
「まず、お茶をどうぞ」
吉田は、自ら茶を淹れた。
家老自らが茶を淹れる。
それは、客を大切にする姿勢の表れだった。
質素な茶だが、丁寧に淹れられている。
茶碗も、古いが、よく手入れされている。
紘一は、一口飲んだ。
温かく、優しい味だった。
高級な茶ではないが、心がこもっている。
「吉田殿」
紘一は、口を開いた。
「単刀直入に申し上げます」
「はい」
吉田の目が、真剣になった。
覚悟している。
何を言われるか、予測している。
「斎藤家が、この領地を狙っています」
「……存じております」
吉田の顔が、曇った。
その目には、苦悩が浮かんでいた。
「我らも、斥候からの報告で知りました」
吉田の声は、重かった。
まるで、大きな荷物を背負っているような。
「三百以上の兵を集めていると」
「ならば、話は早い」
紘一は、続けた。
「斎藤家は、三百以上の兵を集めています」
「もし攻めてくれば……」
「勝ち目はありません」
吉田は、正直に言った。
その声には、諦めが滲んでいた。
「我らの兵は、五十にも満たぬ」
「しかも、訓練も不十分です」
吉田は、深いため息をついた。
その肩が、重そうに下がった。
長年、この領地を支えてきた男の、疲れが見えた。
「戦えば、一日で落ちるでしょう」
吉田の言葉は、冷静だった。
感情を排し、現実を直視している。
それが、吉田という男の強さだった。
感情に流されず、現実を見る。
だが、同時に、その現実の重さに苦しんでもいる。
「その通りです」
紘一は、頷いた。
「だからこそ、私は提案があります」
「提案、ですか」
吉田の目が、わずかに輝いた。
希望を見出したような。
「斎藤家に、臣従してはいかがでしょうか」
紘一の言葉に、吉田は驚いた顔をした。
目を見開き、息を呑んだ。
だが、すぐに理解したようだった。
その表情が、複雑なものに変わった。
納得と、抵抗と、苦悩が、入り混じっている。
「臣従……ですか」
吉田の声は、震えていた。
その言葉を口にすることすら、辛そうだった。
「はい」
紘一は、冷静に説明した。
だが、その声には、温かみがあった。
ただ冷酷に現実を突きつけるのではない。
相手の苦しみを理解しながら、それでも現実を伝える。
「戦えば、確実に負けます」
「領民も、多くの犠牲が出るでしょう」
紘一は、続けた。
「家が焼かれ、田畑が荒らされ、多くの方が命を落とします」
「ですが、臣従すれば、戦いを避けられます」
「領地も、領民も守れます」
紘一の言葉は、論理的だった。
だが、同時に、感情にも訴えていた。
領民の命。
それを守ることが、領主の務めだと。
吉田は、黙り込んだ。
その顔には、葛藤が浮かんでいた。
拳を握りしめ、唇を噛んでいる。
長い沈黙が、部屋を支配した。
紘一は、じっと待った。
焦ってはいけない。
相手が考える時間を、与える。
それが、交渉のテクニックだった。
やがて、吉田が口を開いた。
「田邊殿」
その声は、苦しそうだった。
「……分かっています」
吉田は、窓の外を見た。
その目には、涙が滲んでいた。
「私も、それは理解しています」
吉田の声が、震えた。
「戦えば、負ける」
「領民が、苦しむ」
「それは、分かっています」
吉田は、拳を握りしめた。
その手が、震えている。
「この領地は、貧しい」
吉田は、語り始めた。
その声は、痛みに満ちていた。
「人々は、毎日、必死に生きています」
「朝から晩まで、田んぼで働いて」
「それでも、食べるのがやっと」
吉田の目から、涙がこぼれた。
「子供たちが、お腹を空かせている」
「老人たちが、満足に食べられない」
「それを見るのが、辛い」
吉田は、顔を覆った。
五十代の男が、泣いている。
長年、この領地を支えてきた男が、泣いている。
「私は、家老として、この領地を守ってきました」
吉田の声は、震えていた。
「二十年以上、この役目を務めてきました」
「領民のために、働いてきました」
「ですが、貧しさは、変わらない」
吉田は、顔を上げた。
その顔は、涙で濡れていた。
「どんなに頑張っても、領地は豊かにならない」
「年貢を減らせば、兵を養えない」
「兵を減らせば、守れない」
「どうすることもできない」
吉田の声は、絶望に満ちていた。
長年の苦悩が、溢れ出ている。
「その人々を、戦いで失いたくない」
吉田は、紘一を見た。
その目は、真剣だった。
「ですから、田邊殿」
吉田は、深く頭を下げた。
「私は、臣従に賛成します」
「本当ですか」
紘一は、安堵した。
吉田を味方につけた。
これは、大きな一歩だった。
「はい」
吉田は、頷いた。
「ですが、問題があります」
吉田の表情が、再び曇った。
「殿が、決断できるかどうかです」
「小山領主が、ですか」
「はい」
吉田は、頷いた。
その目には、心配が浮かんでいた。
「殿は、誠実で優しい方です」
「ですが……」
吉田は、言葉を選んだ。
「優柔不断なのです」
吉田の声には、申し訳なさが滲んでいた。
主君のことを悪く言うのは、忍びない。
だが、事実を伝えなければならない。
「重要な決断を、なかなかできません」
吉田は、続けた。
「あれこれ考えて、迷って、結局決められない」
「そして、最後は家臣に判断を委ねる」
吉田のため息は、深かった。
「臣従という大きな決断を、殿ができるかどうか」
「それを、説得するのが私の役目です」
紘一は、言った。
その声には、決意が込められていた。
「吉田殿、力を貸していただけますか」
「……」
吉田は、しばらく考えていた。
その目は、何かを見定めようとしているようだった。
紘一という男が、信頼できるかどうか。
この決断が、正しいかどうか。
すべてを、見極めようとしている。
やがて、吉田が口を開いた。
「田邊殿」
「はい」
「一つ、聞かせてください」
「何でしょう」
「あなたは、なぜここまでしてくださるのですか」
吉田の質問は、核心を突いていた。
その目は、真剣だった。
答え次第で、信頼するかどうかを決める。
そういう目だった。
「神崎家にとって、小山領は直接の利害関係はありません」
吉田は、続けた。
「なのに、なぜ」
「わざわざ危険を冒して、ここまで来てくださる」
「その理由を、教えてください」
紘一は、少し考えた。
そして、正直に答えることにした。
嘘は、すぐに見抜かれる。
特に、吉田のような誠実な人物には。
「私は、戦いが嫌いなんです」
紘一は、静かに言った。
その声は、真剣だった。
「戦いは、多くの命を奪います」
「勝者も、敗者も、苦しみます」
紘一は、松永との戦いを思い出した。
あの時、自分が殺した若者の顔。
「母ちゃん」と言った、最後の言葉。
それが、今も心に突き刺さっている。
「私は、この目で見ました」
紘一の声が、震えた。
「戦場で、若者が死んでいくのを」
「最後の言葉が、『母ちゃん』だった若者を」
紘一の目に、涙が滲んだ。
「その光景が、忘れられない」
「できることなら、二度とあんな光景は見たくない」
紘一は、吉田を見た。
「だから、戦いを避けたい」
「平和に、問題を解決したい」
紘一の言葉は、心からのものだった。
嘘偽りのない、本心だった。
吉田は、深く頷いた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「分かりました」
吉田の声は、震えていた。
「田邊殿、あなたは信頼できる方です」
吉田は、立ち上がった。
そして、深く頭を下げた。
「私は、臣従に賛成します」
「殿を説得するのを、手伝います」
「ありがとうございます」
紘一は、深く頭を下げた。
吉田を味方につけた。
これで、一歩前進した。
だが、まだ問題がある。
「ですが、問題があります」
吉田は、続けた。
その表情が、再び曇った。
「山本です」
「山本……」
紘一は、その名前を思い出した。
強硬派の武士。
独立を重んじる男。
「彼は、強硬派です」
吉田の声には、心配が滲んでいた。
「斎藤家への臣従など、絶対に認めないでしょう」
吉田は、窓の外を見た。
「そして、山本は殿の長男、貞信様に影響力があります」
「もし山本が反対すれば、貞信様も反対するでしょう」
「そうなれば、殿も決断できません」
紘一は、考えた。
山本を説得するか、無力化するか。
どちらかしかない。
「吉田殿、山本殿に会えますか」
「会うことはできます」
吉田は、頷いた。
「ですが……」
吉田は、心配そうに言った。
「彼は、頑固です」
「説得は、難しいかもしれません」
「それでも、試してみます」
紘一は、決意した。
「まず、話をしてみなければ、分かりません」
「分かりました」
吉田は、頷いた。
「では、明日、山本を呼びましょう」
「ありがとうございます」
紘一は、深く頭を下げた。




