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九、斎藤道三—最初の対峙と心理戦

大広間は、驚くほど広かった。

五十畳はあるだろうか。

いや、もっと広いかもしれない。

床には上質な畳が敷かれ、天井は高く、立派な梁が組まれている。

壁には、武具や美術品が飾られている。

刀、槍、鎧。

そして、掛け軸、壺、香炉。

武と文が、調和している空間だった。

そして、その奥に、一人の男が座っていた。

斎藤道三。

紘一は、その男を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。

五十代半ばくらいだろうか。

痩せた体に、鋭い目。

質素な着物を身に纏っているが、その存在感は圧倒的だった。

顔は、皺が深く刻まれている。

だが、それは老いの皺ではない。

苦労の皺だ。

下剋上で成り上がった男の、生々しい証だ。

目が、紘一を捉えた。

その瞬間、紘一は全身が硬直するのを感じた。

道三の目は、すべてを見透かすようだった。

まるで、紘一の心の中まで読んでいるかのような。

黒い瞳の奥に、計り知れない深さがある。

そして、何より恐ろしいのは、その目に感情が見えないことだった。

喜怒哀楽が、まったく表に出ていない。

ただ、冷静に、紘一を観察している。

分析している。

値踏みしている。

紘一の体格、姿勢、表情、呼吸のリズム。

すべてを、観察している。

そして、そこから情報を引き出している。

紘一の緊張度、誠実さ、知性、隠している秘密。

すべてを、読み取ろうとしている。

「神崎家の使者、田邊紘一と申します」

紘一は、深く頭を下げた。

畳に手をつき、額が畳につくほど深く。

この時代の最上級の礼だ。

だが、頭を下げながらも、紘一は道三を観察していた。

道三の反応、表情の変化、体の動き。

すべてを、注意深く見ている。

「ほう」

道三の声は、低く落ち着いていた。

だが、その声には、不思議な力があった。

聞く者を引き込む、何か。

まるで、催眠術のような。

「顔を上げよ」

紘一は、顔を上げた。

道三と目が合った。

その瞬間、紘一は再び戦慄した。

道三の目が、紘一の目を見つめている。

ただ見つめているのではない。

読んでいる。

紘一の目の動き、瞳孔の大きさ、まばたきの頻度。

すべてから、情報を読み取っている。

紘一は、努めて冷静を保った。

視線を逸らさない。

表情を変えない。

呼吸を乱さない。

これも、心理戦だ。

ここで動揺を見せれば、道三に付け込まれる。

「田邊紘一……噂は聞いておる」

道三は、ゆっくりと口を開いた。

その声は、穏やかだが、底知れぬ力があった。

「松永を破り、神崎家を救った知恵者と」

「過分なお言葉です」

紘一は、謙虚に答えた。

だが、心の中では警戒していた。

道三は、すでに紘一のことを調べている。

松永との戦いの詳細まで、知っているかもしれない。

「謙遜するな」

道三は、笑った。

だが、その笑いには温かみがなかった。

計算された笑い。

相手を油断させるための、道具としての笑い。

「お前の策は、見事だった」

道三は、続けた。

「谷での待ち伏せ。挟撃。古典的だが、確実な方法だ」

道三は、すべて知っていた。

戦いの詳細まで。

紘一は、内心で驚いた。

だが、表情には出さなかった。

「そして、お前は記憶を失っているそうだな」

道三の目が、さらに鋭くなった。

「はい」

紘一は、いつもの説明をした。

「頭を打って、過去の記憶が曖昧になりました」

「だが、字が読めて、兵法に詳しい」

道三は、少し間を置いてから続けた。

「不思議な男だ」

道三の目が、紘一を射抜くように見つめた。

「田邊紘一、お前は本当は何者だ」

核心を突く質問だった。

道三は、紘一の正体を疑っている。

記憶喪失という設定を、信じていない。

紘一は、慎重に答えた。

「私も、分かりません」

嘘ではない。

紘一自身、自分が何者なのか、本当に分からない。

なぜこの時代に来たのか。

なぜこれほどの能力が与えられているのか。

すべてが、謎だ。

「頭を打って、記憶が曖昧になりました」

紘一は、いつもの説明をした。

「ですが、なぜか知識だけは残っています」

「ふむ……」

道三は、しばらく紘一を見つめていた。

その視線は、まるでレントゲンのように、紘一の内面を透視しようとしているようだった。

紘一は、じっと耐えた。

目を逸らさず、呼吸を乱さず、表情を変えず。

心理戦だ。

ここで動揺を見せれば、道三に付け込まれる。

時間が、ゆっくりと流れた。

部屋には、重い沈黙が満ちていた。

だが、その沈黙は、圧迫感に満ちていた。

まるで、空気そのものが重くなったようだった。

やがて、道三が口を開いた。

「まあ良い」

道三は、手を振った。

「お前の正体は、いずれ分かるだろう」

道三は、話題を変えた。

「さて、用件は何だ。神崎家が、わざわざ使者をよこすとは」

紘一は、本題に入る前に、まず周辺から攻めることにした。

いきなり核心を言えば、警戒される。

まず、相手をリラックスさせる。

そして、徐々に本題に近づく。

「はい」

紘一は、口を開いた。

「まず、斎藤様の領地を拝見させていただきました」

「ほう」

道三の目が、わずかに細くなった。

興味を示している。

「素晴らしい発展ぶりです」

紘一は、続けた。

「田畑は豊かで、町は栄えている。人々の顔にも、活気があります」

紘一の言葉に、道三はわずかに表情を緩めた。

褒められて、悪い気はしないようだ。

だが、すぐに警戒の表情に戻った。

「お世辞か」

道三の声は、冷たかった。

「いえ、本心です」

紘一は、真剣な顔で言った。

「美濃の安定と発展は、この地域全体の利益になります」

「ほう」

道三は、興味深そうに紘一を見た。

「では、神崎家は美濃の安定を望んでいるのか」

「はい」

紘一は、頷いた。

「乱世は、すべての者を苦しめます。戦いが続けば、領民が苦しみます」

「もっともだ」

道三は、頷いた。

だが、その目は、まだ警戒している。

「では、神崎家は戦いを避けたいと」

「できることなら」

紘一は、答えた。

「だが、そのためには、何かを差し出さねばならぬ」

道三の目が、再び鋭くなった。

「お前たちは、何を差し出すつもりだ」

核心に迫る質問だった。

道三は、すでに分かっている。

紘一たちが何を提案しに来たのか。

だが、それを言わせようとしている。

相手に言わせることで、主導権を握る。

紘一は、深く息をついた。

そして、言った。

「小山領のことです」

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