六、出発の準備—平吉との約束
翌日、紘一は斎藤家への使者として出発する準備を始めた。
護衛として、平吉と数名の兵が同行することになった。
少人数だが、これ以上増やすと、斎藤家に警戒される。
使者は、あくまで平和的な訪問でなければならない。
武装した大軍を連れて行けば、挑発と受け取られかねない。
紘一は、自分の部屋で、この時代の礼儀作法を復習していた。
不思議なことに、その知識も自然に頭に入ってきた。
使者としての振る舞い、言葉遣い、贈り物の渡し方。
座り方、お辞儀の角度、視線の送り方。
すべてが、まるで以前から知っていたかのように理解できる。
これも、能力のおかげだろう。
紘一に与えられた、この時代で生き延びるための力。
言語、文字、戦術、そして今度は外交術。
必要な能力が、次々と開花している。
まるで、誰かが意図的に、紘一をこの時代に適応させようとしているかのように。
(一体、誰が。何のために)
紘一は、考えた。
だが、答えは出ない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
この能力がなければ、紘一はとっくに死んでいた。
だから、感謝するしかない。
そして、この能力を、人々のために使う。
それが、紘一の決意だった。
「田邊さん、準備はどうですか」
部屋の外から、平吉の声がした。
「ああ、ほぼ終わった」
紘一は、答えた。
「入ってくれ」
平吉が部屋に入ってきた。
その手には、包みがあった。
「これ、旅の食料です」
平吉は、包みを置いた。
「握り飯と、干し魚と、漬物です」
「ありがとう」
紘一は、包みを受け取った。
質素な食事だが、この時代では貴重だ。
「田邊さん」
平吉が、真剣な顔で言った。
「本当に大丈夫ですか」
平吉の声には、心配が滲んでいた。
「斎藤道三は、危険な男だと聞きます」
「ああ、分かっている」
紘一は、答えた。
「だが、これが神崎家のためになる」
「でも……」
平吉は、言葉を続けた。
「使者として行って、殺されることもあるんですよね」
平吉の声が、震えていた。
「そうならないように、気をつける」
紘一は、平吉の肩を叩いた。
「大丈夫だ。俺は、簡単には死なない」
「どうして、そう言い切れるんですか」
「分からない」
紘一は、笑った。
「ただ、そんな気がするんだ」
実際、紘一には不思議な確信があった。
この旅で、死ぬことはない。
なぜそう思うのか、理屈では説明できない。
だが、直感が、そう告げていた。
もしかしたら、これも能力の一部なのかもしれない。
危険を察知する能力。
あるいは、運命を感じ取る能力。
「田邊さん……」
平吉は、複雑な表情をした。
そして、意を決したように口を開いた。
「俺、田邊さんのことが好きです」
「え?」
紘一は、驚いた。
「友達として、です」
平吉は、慌てて付け加えた。
その顔が、少し赤くなっている。
「田邊さんは、俺の師匠でもあり、友達でもあり、兄のような存在です」
平吉は、続けた。
「田邊さんが来てから、俺の人生は変わりました」
文字を教えてもらって、戦い方を教えてもらって、生き方を教えてもらって」
平吉の目に、涙が滲んだ。
「田邊さんは、俺にとって、一番大切な人です」
「平吉……」
紘一は、胸が熱くなった。
この時代に来て、初めて「友達」と呼んでくれる人ができた。
それが、どれほど嬉しいか。
どれほど心強いか。
「だから、死なないでください」
平吉は、涙を拭いた。
「絶対に、帰ってきてください」
「ああ、約束する」
紘一は、平吉の手を握った。
「必ず、帰ってくる」
二人は、しばらく手を握り合っていた。
言葉は要らなかった。
ただ、互いの温もりを感じていた。
友情の温もり。
それは、この過酷な時代で、何よりも貴重なものだった。
やがて、平吉が手を離した。
「では、俺は失礼します」
「ああ」
平吉が部屋を出ていった後、紘一は一人、窓の外を見た。
夜空には、星が輝いていた。
満天の星。
現代では見られない、美しい星空。
「必ず、帰る」
紘一は、自分に誓った。
平吉のため、広信のため、広綱のため。
そして、この領地の人々のため。
その夜、広信が紘一の部屋を訪れた。
「田邊さん、少しよろしいですか」
「はい」
広信は、部屋に入ってきた。
その手には、小さな包みがあった。
「これを、持っていってください」
包みを開けると、中には立派な短刀が入っていた。
鞘には美しい蒔絵が施され、柄には金の装飾がある。
刃は、鋭く研がれていて、月明かりを反射して輝いている。
「これは……」
「父上の大切な短刀です」
広信は、真剣な顔で言った。
「代々、神崎家に伝わるものです」
広信は、短刀を紘一に差し出した。
「それを、田邊さんにお守りとして」
「こんな貴重なものを……」
「斎藤道三は、危険な男です」
広信の声は、震えていた。
「もし何かあったら、これで身を守ってください」
紘一は、短刀を手に取った。
ずっしりとした重さ。
これが、戦国時代の現実だ。
使者として行くのに、武器が必要な時代。
いつ殺されるか分からない時代。
「ありがとうございます」
紘一は、深く頭を下げた。
「必ず、無事に戻ってきます」
「はい。待っています」
広信は、少し間を置いてから、続けた。
「田邊さん、私、怖いんです」
「怖い?」
「はい」
広信の目に、涙が滲んだ。
「田邊さんがいなくなったら、私はどうすればいいのか」
「父上が倒れて、私は田邊さんに頼りっぱなしでした」
広信は、自分の無力さを嘆いた。
「戦いの時も、外交の時も、すべて田邊さんが解決してくれました」
「私は、何もできなかった」
「広信様」
紘一は、広信の肩を掴んだ。
「広信様は、十分に成長されています」
「本当ですか」
「はい」
紘一は、真剣な顔で言った。
「最初にお会いした時、広信様はまだ少年でした」
「字も読めず、領地経営のことも知らなかった」
「ですが、今は違う」
紘一は、微笑んだ。
「字が読めるようになり、領地のことも理解し始めている」
「そして、何より、責任感が芽生えている」
「それが、最も重要なことです」
紘一は、続けた。
「領主に必要なのは、知識ではありません」
「責任感です。領民を守ろうという意志です」
「広信様には、それがあります」
「だから、大丈夫です」
広信は、涙を拭いた。
「ありがとうございます、田邊さん」
「そして、私が帰ってきたら、もっと多くのことを教えます」
紘一は、約束した。
「一緒に、神崎家を発展させましょう」
「はい!」
広信は、力強く頷いた。
その目には、決意が宿っていた。
二人は、しばらく話をした。
領地のこと、将来のこと、様々なことについて。
紘一は、自分の知識と経験を、惜しみなく広信に伝えた。
もし、自分が斎藤家で何かあったとしても。
広信が、一人で神崎家を治められるように。
そんな思いで、紘一は教えた。
やがて、広信は部屋を出ていった。
紘一は、一人残された。
窓の外を見ると、月が出ていた。
半月。
その光が、部屋を照らしている。
「明日、出発だ」
紘一は、呟いた。
そして、ゆっくりと眠りについた。
明日からの旅に備えて。
斎藤道三との対峙に備えて。




