五、緊急会議—広綱の洞察と決断
その日の夕方、緊急の会議が開かれた。
場所は、広綱の部屋だった。
広綱は、まだ完全には回復していなかったが、杖をつきながら会議に出席した。
病で倒れてから一ヶ月以上が経ち、少しずつ体力が戻ってきている。
顔色も良くなり、声にも力が戻ってきた。
だが、まだ長時間座っているのは辛そうだった。
部屋には、広信、紘一、伊藤、佐々木、そして新たに加わった松永の元家臣たちが集まっていた。
総勢十名ほど。
神崎家の主要な意思決定者たちだ。
皆、緊張した面持ちで座っていた。
「斎藤が、動いているのか」
広綱の声は、まだ弱々しかったが、目には鋭さがあった。
病で倒れる前の、領主としての威厳が戻ってきている。
「はい」
佐々木が、報告した。
「北の小領主、具体的には小山領を狙っているようです」
「小山か……」
広綱は、地図を見た。
その目が、じっと地図の一点を見つめている。
何かを考えている。
計算している。
戦略を練っている。
「あの領地は、小さいが、要衝だ」
広綱は、地図の上で指を動かした。
「あそこを取られると、我らは包囲される」
広綱の指が、神崎領の周囲をなぞった。
南は、元松永領。今は神崎領の一部だが、まだ統治が安定していない。
東は、山岳地帯。天然の要塞だが、同時に孤立の危険もある。
西は、他の小領主たち。友好的だが、力はない。
そして、北。
もし小山領が斎藤家の手に落ちれば、神崎領は北から圧迫される。
「その通りです」
紘一が、口を開いた。
「斎藤道三は、我らを直接攻めるのではなく、周辺を固めて圧力をかけようとしています」
紘一は、地図を指差しながら説明した。
「これは、包囲網の一部です」
「包囲網……」
広信が、不安そうに呟いた。
若き当主の顔には、緊張が浮かんでいた。
斎藤道三という名前だけで、重圧を感じているようだった。
「ならば、どうする」
広綱が、尋ねた。
その目は、紘一を見ていた。
広綱は、紘一の意見を求めている。
筆頭家臣として、軍師として、紘一の判断を聞きたいのだ。
「小山を助けるべきでしょうか」
広信が、尋ねた。
その声には、迷いがあった。
助けたい気持ちと、危険を避けたい気持ちが、葛藤している。
「それも一つの手です」
紘一は、冷静に答えた。
「ですが、リスクもあります」
「リスク?」
「はい。小山を助けるために兵を出せば、我が領地が手薄になります」
紘一は、説明した。
「そこを、別の敵に突かれる可能性があります」
紘一の指摘に、家臣たちは顔を見合わせた。
確かに、その通りだ。
神崎家の兵力は、百五十名。
そのうち半分を小山救援に出せば、神崎領には七十五名しか残らない。
もし、その隙を別の敵が突けば、神崎領は危機に陥る。
「では、見捨てるのか」
伊藤が、厳しい声で言った。
その顔には、怒りが浮かんでいた。
「小山は、長年の友好国だ。先代の頃から、互いに助け合ってきた」
伊藤の声は、感情的になっていた。
「それを、今更見捨てるというのか」
「見捨てるとは言っていません」
紘一は、落ち着いた声で答えた。
だが、伊藤の怒りは、理解できた。
武士には、義理がある。
友好国を見捨てることは、武士の恥だ。
「別の方法を考えるべきだと言っているのです」
「別の方法とは?」
広信が、身を乗り出した。
紘一は、少し間を置いてから、答えた。
「外交です」
部屋が、静まり返った。
外交。
戦いではなく、交渉。
それは、意外な提案だった。
「斎藤家と、直接交渉します」
紘一は、地図を指差した。
「我らの立場を明確にし、不必要な争いを避ける」
「交渉?」
広信が、驚いた顔をした。
「斎藤道三と、ですか」
「はい」
紘一は、頷いた。
「道三は、策略家です。無駄な戦いは避けるはずです」
「だが……」
伊藤が、口を開いた。
「道三が、交渉に応じるでしょうか」
「分かりません」
紘一は、正直に答えた。
「ですが、試す価値はあります」
紘一は、続けた。
「もし交渉が失敗すれば、その時は戦えばいい」
「ですが、最初から戦うよりも、まず交渉を試みるべきです」
紘一の提案に、家臣たちは顔を見合わせた。
誰も、すぐには賛成しなかった。
だが、反対もしなかった。
皆、考えている。
交渉の可能性を、探っている。
その時、広綱が口を開いた。
「面白い」
広綱の声には、興味が滲んでいた。
「田邊の案を聞こう」
「ありがとうございます」
紘一は、深く頭を下げた。
そして、説明を始めた。
「我らは、斎藤家に使者を送ります」
紘一は、ゆっくりと、明確に話した。
「そして、こう伝えるのです」
「『神崎家は、斎藤家と敵対する意思はない。美濃の安定のため、斎藤家の力が必要だと理解している』と」
「斎藤家に、媚びるのか」
伊藤が、不快そうに言った。
その声には、武士のプライドが滲んでいた。
「媚びるのではありません」
紘一は、首を横に振った。
「現実を認めるのです」
紘一は、真剣な顔で続けた。
「斎藤家は、我らより強大です。それは、事実です」
「数でも、質でも、経済力でも、すべてにおいて上です」
「その現実を、無視することはできません」
紘一の言葉に、部屋は静まり返った。
誰も、反論できなかった。
なぜなら、それは真実だからだ。
「だが……」
伊藤が、苦しそうに言った。
「それでは、我らのプライドが……」
「伊藤殿」
紘一は、伊藤を真っ直ぐ見た。
「プライドと実利、どちらが大切ですか」
伊藤は、黙った。
「我らがプライドのために斎藤家と戦えば、負けます」
紘一は、厳しく言った。
「領地は奪われ、領民は苦しみます」
「家臣たちも、多くが命を失います」
「それでも、プライドを守りますか」
紘一の問いに、伊藤は答えられなかった。
顔が、苦痛に歪んでいる。
武士としてのプライドと、現実的な判断。
その間で、引き裂かれている。
「ですが、現実を認めて斎藤家と協調すれば、戦いを避けられます」
紘一は、続けた。
「領地も守れます。領民も守れます」
「家臣たちの命も、守れます」
「どちらを選びますか」
長い沈黙が、部屋を支配した。
誰も、口を開かなかった。
皆、考えている。
紘一の言葉を、咀嚼している。
やがて、伊藤が口を開いた。
「……分かった」
その声は、小さく、苦しそうだった。
「田邊殿の言う通りだ」
伊藤は、顔を上げた。
その目には、涙が滲んでいた。
「武士として、悔しい。だが、領民のことを考えれば……」
伊藤は、渋々ながらも頷いた。
「交渉を試みることに、賛成する」
「ありがとうございます」
紘一は、深く頭を下げた。
伊藤のような古参の武士を説得できたことは、大きかった。
「では、具体的にどう交渉するのだ」
広綱が、尋ねた。
「まず、斎藤家に我らの誠意を示します」
紘一は、説明した。
「『小山領は我らの友好国だが、斎藤家の意向を無視するつもりはない。話し合いで解決したい』と伝えます」
「それで、道三が納得するか」
「分かりません」
紘一は、正直に答えた。
「ですが、交渉の余地は生まれます」
「そして?」
「そこで、提案します」
紘一は、地図の別の場所を指差した。
「小山領を斎藤家の勢力圏に入れる。その代わり、小山領主の地位は保証する」
「そして、神崎家も斎藤家と友好関係を保つ」
広綱の目が、鋭くなった。
「つまり、小山を斎藤家に差し出すということか」
「差し出す、というより、斎藤家の傘下に入れるということです」
紘一は、慎重に言葉を選んだ。
「小山領は独立を失いますが、領民は守られます」
「そして、我らも斎藤家との戦いを避けられます」
「巧妙だな」
広綱は、微笑んだ。
だが、その笑みには、複雑なものが含まれていた。
「だが、小山領主が、それを受け入れるかどうかだ」
「そこが、最大の問題です」
紘一は、頷いた。
「ですが、戦って滅びるより、臣従して生き延びる方が賢明だと、説得します」
広綱は、しばらく考えていた。
その目は、地図を見つめている。
様々な可能性を、計算している。
やがて、広綱が口を開いた。
「よし。田邊の案を採用する」
広綱は、宣言した。
そして、広綱は紘一を真っ直ぐ見た。
「田邊、お前が使者として行け」
「私が、ですか」
「そうだ」
広綱は、頷いた。
「お前が最もこの策を理解している。そして……」
広綱は、言葉を続けた。
「お前なら、道三とも渡り合えるだろう」
広綱の言葉には、期待と、同時に心配が込められていた。
斎藤道三—美濃の蝮。
戦国時代でも屈指の策略家と、直接対峙する。
それは、命がけのことだった。
使者として行って、そのまま殺されることもある。
交渉が決裂すれば、人質として捕らえられることもある。
危険な任務だった。
だが、紘一は断ることができない。
これは、筆頭家臣としての務めだ。
そして、自分が提案したことだ。
自分が行くべきだ。
「承知しました」
紘一は、深く頭を下げた。
会議が終わった後、広綱が紘一を呼び止めた。
「田邊、少し残ってくれ」
他の者が部屋を出ていった後、広綱と紘一、二人だけになった。
広綱は、窓際に立ち、外を見た。
夕日が沈みかけ、空が赤く染まっていた。
「田邊」
「はい」
「斎藤道三は、只者ではない」
広綱の声は、真剣だった。
「存じております」
「いや、お前が思っている以上に、危険な男だ」
広綱は、振り返った。
その目には、何か深いものが宿っていた。
「彼は、人の心を読む天才だ」
「……」
「昔、一度だけ会ったことがある」
広綱は、語り始めた。
「まだ、彼が美濃国主になる前のことだ」
「私は、若かった。二十代だった」
広綱の目が、遠くを見ている。
過去を見ている。
「ある会合で、道三と同席した」
「その時、道三は私の目を見ただけで、私の考えていることを全て見抜いた」
広綱の声が、わずかに震えた。
「恐ろしかった。まるで、心の中を覗かれているようだった」
「彼は、私が何を恐れているか、何を望んでいるか、すべて分かっていた」
「そして、それを利用した」
広綱は、紘一を見た。
「田邊、お前も気をつけろ」
「道三は、お前の一挙一動を観察し、分析する」
「少しでも隙を見せれば、そこを突かれる」
「肝に銘じます」
紘一は、頷いた。
「そして、もう一つ」
広綱は、声を低くした。
「道三は、お前に興味を持つだろう」
「興味、ですか」
「ああ」
広綱は、続けた。
「お前は、不思議な男だ。記憶を失っているのに、様々な知識がある」
「戦術も、外交も、すべてに長けている」
広綱は、紘一を見つめた。
「道三は、そういう特異な人物を好む。そして、利用しようとする」
「……気をつけます」
「もし、道三がお前を引き抜こうとしたら、どうする」
広綱の質問に、紘一は即答した。
「断ります」
「本当か」
「はい」
紘一は、真剣な顔で言った。
「私は、神崎家に恩義があります。その恩を、裏切るつもりはありません」
紘一の言葉に、広綱は満足そうに頷いた。
「良い答えだ。だが、道三は諦めない」
「様々な方法で、誘惑してくるだろう」
広綱は、警告した。
「金、地位、権力。すべてを使って、お前を誘うだろう」
「大丈夫です」
紘一は、自信を持って答えた。
「私の意志は、揺らぎません」
「ならば良い」
広綱は、立ち上がった。
「行け。そして、必ず無事に戻ってこい」
「はい」
紘一は、深く頭を下げて、部屋を出た。
廊下を歩きながら、紘一は広綱の言葉を反芻していた。
斎藤道三という男の恐ろしさ。
人の心を読む天才。
そんな男と、これから対峙する。
紘一の背筋に、冷たいものが走った。
だが、同時に、不思議な高揚感もあった。
知恵比べ。
心理戦。
それは、恐ろしいが、同時に挑戦でもあった。
「負けるわけにはいかない」
紘一は、決意を固めた。




