四、新たな脅威の予兆—斎藤家の影
太郎の田んぼを訪れてから三日後。
紘一は、佐々木から緊急の報告を受けた。
「田邊殿、斥候が戻りました。重要な情報があります」
佐々木の表情は、いつになく深刻だった。
眉間に深い皺が刻まれ、口元は固く結ばれている。
ただ事ではない。
紘一は、すぐに察した。
「何があった」
「ここでは何ですので」
佐々木は、周囲を見回した。
屋敷の中庭だったが、他の家臣や下男たちが行き交っている。
「人目につかない場所で話をしましょう」
二人は、屋敷の裏手にある小さな蔵に向かった。
この蔵は、普段はあまり使われていない。
古い武具や、使わなくなった道具が保管されている場所だった。
扉を開けると、埃っぽい匂いがした。
窓は小さく、薄暗い。
だが、誰にも聞かれる心配はない。
佐々木は、扉をしっかりと閉めた。
そして、紘一の方を向いた。
「斎藤家が、動き始めています」
その言葉を聞いた瞬間、紘一の背筋に冷たいものが走った。
「斎藤家……」
紘一は、眉をひそめた。
斎藤道三—美濃の蝮と呼ばれる梟雄だ。
戦国時代でも屈指の策略家として知られている。
元は油売りの商人、あるいは僧侶だったとも言われ、下剋上で美濃国主の地位を手に入れた男だ。
紘一は、歴史の授業で学んだ知識を思い出した。
斎藤道三は、1494年生まれ。
今は1530年頃だから、道三は三十代半ばのはずだ。
いや、待て。
この時代の記録は曖昧で、道三の生年も諸説ある。
もしかしたら、もっと年上かもしれない。
いずれにせよ、危険な男だ。
冷酷で、計算高く、そして容赦ない。
「何か、具体的な動きは」
紘一は、冷静を装って尋ねた。
だが、内心では緊張が高まっていた。
「はい。兵を集めているとのことです」
佐々木は、声を低くした。
「数は、三百以上」
「三百……」
紘一は、息を呑んだ。
それは、かなりの規模だ。
神崎家の兵力は、松永領を吸収して百五十名。
対して、斎藤家は三百以上。
数で言えば、倍だ。
しかも、斎藤家の兵は訓練が行き届いている。
質でも、大きな差がある。
もし戦いになれば、神崎家に勝ち目はない。
「そして、その兵の移動先が問題です」
佐々木は、懐から小さな紙を取り出した。
粗末な和紙に、簡単な地図が描かれている。
墨で描かれた、大まかな線。
川、山、領地の境界。
そして、小さな×印がいくつか。
「我が領地の北に向かっているようです」
佐々木は、地図の一点を指差した。
紘一は、その地図を見た。
神崎領の北には、小さな領主がいくつかある。
その一つに、赤い印がつけられていた。
「小山領……」
紘一は、その名前を読み上げた。
「はい。小山貞親の領地です」
佐々木は、説明を続けた。
「小山領は、我が領地の北に位置する小さな領地です」
「どれくらいの規模ですか」
「人口は約千二百人。石高は五百石程度です」
佐々木は、暗記していた情報を述べた。
「小山貞親は、四十代半ばの領主です」
「どんな人物だ」
「誠実で、領民思いの方だと聞いています」
佐々木の声には、尊敬の念が込められていた。
「ですが……」
「ですが?」
「優柔不断でもあると」
佐々木は、正直に言った。
「重要な決断を、なかなかできない方だそうです」
紘一は、頷いた。
領主にも、様々なタイプがいる。
誠実で優しいが、決断力に欠ける。
そういうタイプの領主も、確かに存在するだろう。
「軍事力は?」
「兵は五十名ほど。訓練は不十分で、実戦経験も乏しいとのことです」
「斎藤家が本気で攻めれば……」
「一日で落ちるでしょう」
佐々木の言葉は、冷徹だった。
だが、それが現実だった。
三百の訓練された兵が、五十の未熟な兵を攻める。
結果は、火を見るより明らかだ。
紘一は、地図を見つめながら考えた。
なぜ、斎藤道三は小山領を狙うのか。
小山領自体に、それほどの価値があるとは思えない。
人口は少なく、石高も低い。
経済的には、魅力的な標的ではない。
だが、戦略的には重要だ。
小山領を手に入れれば、斎藤家は神崎領を北から圧迫できる。
つまり、これは神崎家への牽制だ。
「道三は、我らを牽制しようとしているのか」
紘一は、呟いた。
「その可能性が高いです」
佐々木は、頷いた。
「我が家が松永領を吸収したことで、周辺の勢力図が変わりました」
佐々木の分析は、的確だった。
「道三は、我らが力をつけることを警戒しているのでしょう」
確かに、その通りだ。
神崎家は、わずか数ヶ月で領地を倍に拡大した。
松永領を吸収し、兵力も増えた。
それは、周辺の領主たちにとって、脅威と映るだろう。
特に、斎藤道三のような野心家にとっては。
「巧妙だな……」
紘一は、唸った。
道三の策略が、見えてきた。
小山領を攻めることで、神崎家の反応を見ている。
もし神崎家が小山を助けに行けば、斎藤家と戦うことになる。
その時、神崎家の実力が分かる。
もし助けに行かなければ、神崎家は友好国を見捨てる信用できない家だという評判が立つ。
どちらに転んでも、斎藤家に有利だ。
「完璧な策だ」
紘一は、感心すると同時に、恐怖も感じた。
斎藤道三という男の知性と冷酷さ。
それを、まざまざと見せつけられた。
「殿と若殿に、すぐに報告しよう」
紘一は、決断した。
「はい」
佐々木は、頷いた。
二人は、蔵を出た。
外は、まだ明るかった。
だが、紘一の心には、暗雲が立ち込めていた。
新たな戦いが、近づいている。
それも、今までとは比べ物にならないほど大きな戦いが。




