三、領民との絆—太郎という男
戦いから一週間が過ぎた頃、紘一は再び太郎の田んぼを訪れた。
間断灌漑を始めてから、二週間が経っていた。
効果が出ているか、確認する必要があった。
紘一は、平吉と共に村へ向かった。
秋の空は高く、雲一つない青空が広がっていた。
道の両側には、黄金色の稲穂が揺れている。
収穫の季節が、近づいていた。
「田邊さん、太郎さんの田んぼ、本当に良くなっているんでしょうか」
平吉が、尋ねた。
「ああ、きっと」
紘一は、自信を持って答えた。
間断灌漑は、現代の農業技術でも実証されている方法だ。
効果があるはずだった。
村に着くと、太郎が田んぼで作業をしていた。
稲の様子を観察しているようだった。
「太郎さん」
紘一が声をかけると、太郎は振り返った。
「田邊様!」
太郎の顔が、一気に明るくなった。
「ちょうど良かった。見てください!」
太郎は、興奮した様子で紘一を田んぼに案内した。
紘一は、田んぼを見て、驚いた。
稲の様子が、明らかに変わっていた。
以前訪れた時は、背が低く、葉の色も薄かった。
だが、今は違う。
茎がしっかりと立ち、太くなっている。
葉の色も、濃い緑になっている。
そして、稲穂が大きく育っていた。
他の田んぼの稲と比べても、明らかに元気だった。
「本当だ……」
紘一は、感動した。
間断灌漑の効果が、はっきりと現れていた。
「田邊様のおっしゃった通りにしたんです」
太郎が、説明し始めた。
その声は、興奮で震えていた。
「水を半分くらい抜いて、三日から五日置く。そして、土の表面が乾いてきたら、また水を入れる」
太郎は、田んぼを指差した。
「最初は本当に不安でした。水を抜いたら、稲が枯れてしまうんじゃないかって」
「でも、田邊様を信じました」
太郎の目には、涙が滲んでいた。
「そうしたら、本当に稲が元気になったんです」
太郎は、稲に触れた。
その手つきは、まるで愛おしい子供に触れるようだった。
「葉の色が濃くなって、茎も太くなって」
「そして、稲穂も大きくなりました」
太郎の声は、喜びで満ちていた。
三十代半ばの男が、子供のように喜んでいる。
それは、微笑ましい光景だった。
「良かった」
紘一は、心から安堵した。
現代の知識が、この時代でも通用した。
それが、何より嬉しかった。
「これなら、収穫も増えるでしょう」
「本当ですか!」
太郎の顔が、さらに輝いた。
「どれくらい増えるでしょうか」
「そうですね……」
紘一は、計算した。
間断灌漑の効果は、通常、収穫量を1.5倍から2倍にする。
この田んぼの状態を見ると、おそらく1.8倍くらいだろう。
「他の田んぼの、倍近く採れると思います」
「倍……」
太郎は、呆然とした。
そして、その場に跪いた。
「田邊様、本当にありがとうございます」
太郎の目から、涙が溢れた。
「俺、ずっと苦しんできました」
太郎は、震える声で語り始めた。
「毎年、収穫が少なくて、年貢を払うのがやっとで」
「家族に、満足に食べさせることもできなくて」
太郎の拳が、震えていた。
「子供たちが、いつもお腹を空かせていて」
「妻が、自分の分を減らして、子供たちに食べさせていて」
「それを見るのが、辛くて、辛くて」
太郎は、声を詰まらせた。
「でも、どうすることもできなくて」
「ただ、必死に働くしかなくて」
太郎は、顔を上げた。
その顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「でも、田邊様が来てくれた」
「そして、この方法を教えてくれた」
「これで、家族を養えます。子供たちに、お腹いっぱい食べさせられます」
太郎は、深く頭を下げた。
額が、地面につくほど深く。
「本当に、本当に、ありがとうございます」
紘一は、胸が熱くなった。
太郎の感謝の言葉が、心に染み入った。
これが、自分がこの時代でできることなのだ。
人々の生活を、少しでも良くすること。
苦しんでいる人々を、救うこと。
「太郎さん、顔を上げてください」
紘一は、優しく言った。
「私は、ただ知っていることを教えただけです」
「いえ、田邊様」
太郎は、顔を上げた。
「田邊様は、俺たちを人として扱ってくれました」
「人として……?」
「はい」
太郎は、続けた。
「殿や家臣の方々は、俺たちを年貢を納める道具としか見ていませんでした」
太郎の声には、長年の苦しみが滲んでいた。
「でも、田邊様は違った」
「俺たちの話を聞いてくれて、一緒に考えてくれて、教えてくれた」
太郎は、紘一を真っ直ぐ見た。
「田邊様は、俺たちの味方です」
その時、他の農民たちも集まってきた。
太郎の田んぼの様子を見に来たのだろう。
「本当だ、太郎の田んぼ、すごいことになってる」
「稲が、こんなに元気だ」
「どうやったんだ?」
農民たちは、口々に言った。
皆、驚きの表情を浮かべている。
太郎は、紘一の方を見た。
紘一は、頷いた。
「皆さん」
太郎が、農民たちに言った。
「田邊様が、教えてくださった方法です」
「田邊様が?」
農民たちの視線が、一斉に紘一に集まった。
その目には、期待と疑いが入り混じっていた。
紘一は、前に出た。
「間断灌漑という方法です」
そして、改めて詳しく説明した。
水を入れるタイミング、抜くタイミング、その期間。
土の状態の見方、稲の様子の観察の仕方。
なぜこの方法が効果的なのか、科学的な理由。
もちろん、「科学的」という言葉は使わなかったが、分かりやすく説明した。
「稲の根は、酸素が必要です」
紘一は、説明した。
「でも、水が多すぎると、根に酸素が届きません」
「だから、時々水を抜いて、根に空気を送るんです」
「そうすると、根が強くなります」
農民たちは、真剣に聞いていた。
字が読めない彼らは、頭の中で必死に覚えようとしていた。
「そして、病気にもかかりにくくなります」
紘一は、続けた。
「水が多すぎると、根が腐る病気になりやすいんです」
「でも、間断灌漑をすれば、そのリスクが減ります」
「さらに、水を節約できます」
紘一は、今年の状況を思い出した。
「今年は雨が少ない。だから、水を節約することは重要です」
農民たちは、頷いた。
確かに、今年は雨が少ない。
川の水量も減っている。
水不足は、深刻な問題だった。
「分かりにくいところはありますか」
紘一が尋ねると、一人の農民が手を挙げた。
五十代くらいの、痩せた男だった。
名を次郎という。
「田邊様、水を抜いた後、どれくらい待てばいいんでしょうか」
「良い質問です」
紘一は、説明した。
「三日から五日です。ですが、大切なのは、土の状態を見ることです」
紘一は、実際に田んぼに入った。
足が、泥に沈む。
冷たく、柔らかい泥の感触。
「土の表面が乾いてきて、少しひび割れが見えたら、水を入れる合図です」
紘一は、実際に土を触って見せた。
手で土をすくい、握る。
「こういう感じです。土が少し固まってきて、でもまだ湿り気がある」
「この状態になったら、水を入れます」
農民たちは、田んぼの周りに集まって、じっと見ていた。
皆、真剣な表情だ。
自分たちの生活がかかっている。
失敗すれば、家族が飢える。
だから、一言一句を聞き逃すまいとしている。
「でも、田邊様」
別の農民が、尋ねた。
名を三郎という、四十代の男だった。
「もし、水を入れるのが遅れたら、稲が枯れてしまうのでは」
「いい質問です」
紘一は、頷いた。
「確かに、入れるのが遅すぎると、稲が傷みます」
「ですから、毎日、田んぼを見てください」
紘一は、強調した。
「毎日、土の状態、稲の葉の色、すべてを観察してください」
「そうすれば、適切なタイミングが分かります」
紘一は、田んぼから上がった。
足についた泥を、水で洗う。
「最初は難しいかもしれません」
紘一は、正直に言った。
「でも、何度かやれば、感覚がつかめてきます」
「そして、太郎さんの田んぼを見てください」
紘一は、太郎の田んぼを指差した。
「この方法で、本当に稲が元気になります」
農民たちは、太郎の田んぼを見た。
そして、自分たちの田んぼと比べた。
明らかな差があった。
太郎の稲は、元気で、大きい。
自分たちの稲は、それに比べて弱々しい。
「俺も、やってみるか」
一人の農民が、言った。
「ああ、俺も」
「来年は、この方法を試そう」
次々と、賛同の声が上がった。
紘一は、手応えを感じた。
農民たちが、新しい方法を受け入れ始めている。
それは、大きな一歩だった。
「田邊様」
年配の農民が、前に出た。
名を源蔵という、この村の長老格の男だった。
七十歳を超えているだろうか。
白髪で、腰も曲がっている。
だが、目には力があった。
「俺たち、最初は半信半疑でした」
源蔵は、正直に言った。
その声は、しわがれているが、力強かった。
「よそ者の言うことなんて、信じられないって」
「俺たちは、先祖代々、同じ方法で農業をしてきました」
源蔵は、田んぼを見た。
「変えるなんて、考えたこともなかった」
「でも、太郎の田んぼを見て、分かりました」
源蔵の目に、涙が滲んだ。
「田邊様は、本当に俺たちのことを考えてくれてるんだって」
源蔵は、深く頭を下げた。
他の農民たちも、一斉に頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声は、心からのものだった。
紘一は、胸が熱くなった。
農民たちの感謝の言葉。
それは、どんな褒美よりも価値があった。
これが、広綱が言っていた「心」なのかもしれない。
相手を思いやり、相手の幸せを願う。
その結果として、人々がついてくる。
「皆さん」
紘一は、声を震わせながら言った。
「私は、ただ知っていることを伝えただけです」
「実際に、それを信じて実行してくださったのは、太郎さんです」
紘一は、太郎を見た。
「太郎さんの勇気が、この結果を生みました」
太郎は、照れたように頭を掻いた。
「いえ、俺は……」
「そして、皆さんも、これから同じことができます」
紘一は、農民たちを見回した。
「来年、皆さんの田んぼも、太郎さんの田んぼのようになります」
「そして、収穫が増えます」
「家族に、お腹いっぱい食べさせられます」
農民たちの顔が、希望で輝いた。
長年、貧しさに苦しんできた人々の顔に、初めて希望の光が宿った。
「田邊様」
太郎が、口を開いた。
「俺たち、田邊様のためなら、何でもします」
「そうだ」
他の農民たちも、口々に言った。
「田邊様が、俺たちの生活を変えてくれた」
「だから、俺たち、田邊様に恩返ししたい」
紘一は、その言葉に、責任の重さを感じた。
人々の期待。
人々の信頼。
それは、重い。
だが、同時に、やりがいでもあった。
「ありがとうございます」
紘一は、深く頭を下げた。
「これからも、一緒に頑張りましょう」
「はい!」
農民たちは、一斉に答えた。
その声は、力強く、希望に満ちていた。
紘一は、この瞬間を、一生忘れないだろうと思った。
人々の笑顔。
人々の感謝。
それが、自分がこの時代で生きる意味なのだと。




