第二章 【適応 】 一、戦後の震え
第二章から文章量が少し多くなります。
初陣から三日が過ぎた。
田邊紘一は、自分の部屋で一人、膝を抱えて座っていた。
深夜だった。
屋敷は静まり返り、虫の音だけが聞こえている。
だが、紘一の心は、静かではなかった。
目を閉じると、あの光景が蘇る。
谷での戦い。
矢が降り注ぐ音。
兵たちの悲鳴。
そして、自分が槍で突き刺した、あの若者の顔。
驚愕に見開かれた目。
「母ちゃん」という、最後の言葉。
口から流れた、鮮やかな赤い血。
光が消えていく瞳。
「うっ……」
紘一は、吐き気を覚えた。
だが、何も出てこない。
夕食は、ほとんど喉を通らなかった。
平吉が持ってきてくれた食事を見ると、あの血の匂いが鼻をついた。
この手で、人を殺した。
少なくとも二人。
五十三年間、紘一は人を殺したことなどなかった。
現代日本で、平和に生きてきた。
教師として、生徒たちに美術を教えてきた。
「暴力では何も解決しない」
そう、生徒たちに教えてきた。
それが、今は人殺しだ。
「俺は、変わってしまったのか……」
紘一は、自問した。
戦場で、紘一の体は驚くほど滑らかに動いた。
まるで、何年も戦ってきた兵士のように。
敵の攻撃を見切り、反撃し、次の敵に備える。
すべてが自動的だった。
だが、その時の感覚を思い出すと、紘一は戦慄した。
恐怖があった。
だが、同時に、興奮もあった。
生きている、という実感。
そして、敵を倒した時、一瞬、勝利の快感があった。
「俺は、戦いを楽しんでいたのか……?」
その感覚が、紘一を恐怖させた。
その時、外から足音が聞こえた。
「田邊さん、起きてますか」
平吉の声だった。
「ああ、起きてる」
平吉が部屋に入ってきた。
その顔にも、紘一と同じような疲労の色があった。
「田邊さん、顔色が悪いですよ」
「ああ、ちょっと疲れているだけだ」
「そうですか……」
平吉は、少し躊躇してから、口を開いた。
「あの、田邊さん。俺も、同じです」
「同じ?」
「夜、眠れないんです。目を閉じると、戦場が蘇って」
平吉の声は、震えていた。
「俺も、人を殺しました。三人。顔を、覚えています」
平吉の目から、涙がこぼれた。
「初めて人を殺した時、吐きました。その場で」
平吉は、苦笑した。
「でも、田邊さん。俺たち、生き延びるために戦った。仲間を守るために、敵を殺した。それだけです」
平吉の言葉が、心に染み入った。
生き延びるために戦った。
それだけだ。
二人は、しばらく黙っていた。
同じ苦しみを抱える者同士。
言葉は要らなかった。
ただ、そこにいるだけで、互いの痛みが分かった。




