二十九、待ち伏せ
夜明けとともに、谷は静けさに包まれていた。
鳥のさえずりが聞こえ、朝露が草木を濡らしている。
一見すると、平和な朝だった。
だが、この谷には、八十名の兵が息を潜めて隠れている。
田邊は、森の中の隠れ場所から、谷の入り口を見つめていた。
隣には、広信がいた。若き当主の顔には、緊張が浮かんでいた。
「田邊さん、本当に来るでしょうか」
広信が、小声で尋ねた。
「来ます」
田邊は、断言した。
「松永は、必ずこのルートを通ります。他のルートは、大軍を動かすには険しすぎる」
田邊の声には、自信があった。
だが、内心では、不安もあった。
もし外れたら。
もし松永が別のルートを選んだら。
その時は、神崎家は終わりだ。
そして、自分も命を失う。
「信じるしかない」
田邊は、心の中で呟いた。
時間が、ゆっくりと過ぎていく。
太陽が昇り、谷が明るくなってきた。
兵たちは、じっと待っていた。
誰も、声を出さない。
ただ、息を殺して、敵の到来を待っている。
そして、午前八時頃。
遠くから、音が聞こえてきた。
足音だ。
大勢の人間が歩く音。
そして、話し声。
「来た……」
田邊は、息を呑んだ。
やがて、谷の向こうから、軍勢が姿を現した。
松永軍だ。
先頭を行くのは、騎馬武者たち。十名ほどいる。
立派な鎧を着け、刀や槍を持っている。
その後に、足軽たちが続く。
二列に並んで、行進してくる。
そして、中央には、一際立派な鎧を着た男が馬に乗っていた。
黒い漆塗りの鎧。金色の装飾。
松永久秀本人だ。
田邊は、松永を観察した。
四十代前半くらいの、がっしりとした体格の男だった。
顔には、自信と野心が満ちていた。
そして、周囲を警戒する様子は、まったくなかった。
松永軍は、何の疑いもなく、谷に入ってきた。
「神崎の若造、どこで震えているかな」
松永の声が、谷に響いた。
「ははは、あの家はもう終わりだ」
兵たちも、笑いながら進んできた。
「領地を分けてもらえるぞ」
「女もいるかもしれんな」
下品な笑い声が、谷に響く。
田邊は、拳を握りしめた。
彼らは、まるで勝利を確信していた。
神崎家を、完全に侮っていた。
だが、その油断が、命取りになる。
松永軍は、どんどん谷に入ってくる。
先頭が、谷の中央を過ぎた。
だが、まだだ。
全軍が谷の中に入るまで、待たなければならない。
田邊は、じっと我慢した。
手に汗が滲む。
心臓が、激しく打っている。
呼吸を整える。
落ち着け。
タイミングを間違えるな。
松永軍は、さらに進んできた。
五十名、百名、百五十名。
ほぼ全軍が、谷の中に入った。
今だ。
田邊は、広信に目配せした。
広信は、深く息を吸い込んだ。
そして、立ち上がった。
「撃てっ!」
広信の声が、谷に響き渡った。




