二十五、広信との夜の語らい
食事を終えた後、田邊は広信の部屋に呼ばれた。
今夜は、字の稽古の日だった。
だが、広信は、いつもと様子が違った。
机の前に座っているが、筆を持つ手に力がない。
表情も、暗い。
「広信様、どうかされましたか」
「田邊さん……」
広信は、顔を上げた。
その目には、涙が滲んでいた。
「私、怖いのです」
「怖い、ですか」
「はい。父上が倒れて、私が家を継がねばならない。でも、私にできるのか……」
広信の声は、震えていた。
「家臣たちも、領民たちも、私を頼りにしている。でも、私はまだ十八です。戦のことも、領地の治め方も、何も知らない」
田邊は、広信の隣に座った。
「広信様、怖いのは当然です」
「でも……」
「怖くない人間などいません。特に、初めてのことに直面した時、誰もが怖い」
田邊は、自分の経験を思い出した。
初めて教壇に立った時。
初めて生徒の前で授業をした時。
あの時も、怖かった。
失敗したらどうしよう。生徒たちに笑われたらどうしよう。
そんな不安でいっぱいだった。
「でも、怖くても、やるしかないのです」
田邊は、広信を真っ直ぐ見た。
「広信様がやらなければ、誰がやるのですか。神崎家を守るのは、広信様しかいません」
「でも、失敗したら……」
「失敗してもいいのです」
田邊の言葉に、広信は驚いた顔をした。
「失敗してもいい、のですか?」
「ええ。失敗は、誰にでもあります。大切なのは、失敗から学ぶことです」
田邊は、微笑んだ。
「私も、これから失敗するかもしれません。戦の策を立てたが、もしかしたら失敗するかもしれない」
「田邊さん……」
「でも、失敗を恐れて何もしなければ、もっと悪いことになります。だから、私は挑戦します」
田邊の言葉に、広信の目に光が戻ってきた。
「そうだ……挑戦しなければ、何も始まらない」
「その通りです」
二人は、しばらく無言で座っていた。
やがて、広信が口を開いた。
「田邊さん、今日は字の稽古はやめにして、戦のことを教えてください」
「戦のこと、ですか」
「はい。私も、少しは理解しておきたいのです。田邊さんの策が、どういうものなのか」
田邊は、頷いた。
「分かりました。では、説明しましょう」
田邊は、紙に簡単な地図を描き始めた。
神崎領と周辺の地形。
松永領の位置。
そして、谷の位置。
「敵は、おそらくこのルートで攻めてきます」
田邊は、線を引いた。
「松永領から神崎領に来るには、この道が最も近い。そして、この道の途中に、谷があります」
「この谷で、待ち伏せするのですね」
「その通りです。谷は狭いので、敵は大軍を展開できません。一列、あるいは二列で進まざるを得ない」
田邊は、続けた。
「そこを、両側の崖から攻撃します。弓矢を射かけ、石を落とす。敵は、逃げ場がありません」
「なるほど……」
広信は、真剣に聞いていた。
「そして、谷の入り口と出口を塞ぎます。丸太や石で退路を断てば、敵は完全に閉じ込められます」
「挟み撃ち、というわけですね」
「はい。これを『袋の鼠』と言います」
田邊の説明を聞きながら、広信の顔が明るくなっていった。
「素晴らしい……この策なら、勝てるかもしれません」
「可能性は、あります」
田邊は、慎重に言った。
「ただし、敵が本当にこのルートを通るかどうか。そして、我らの準備が間に合うかどうか。不確定な要素は多いです」
「でも、何もしないよりは、ずっと良い」
広信は、力強く頷いた。
「田邊さん、私、頑張ります」
「はい。私も、全力で支えます」
二人は、固く手を握り合った。
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