二、目覚めと言葉の奇跡
意識が戻った時、最初に感じたのは土の匂いだった。
湿った、青臭い土の匂い。
美術室の、絵の具と石膏の匂いとはまるで違う。
森の中の、生命の匂い。
田邊はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、青い空だった。
雲一つない、抜けるような青空。都会では見られないような、深く澄んだ青。
そして、風に揺れる木々の梢。葉が擦れ合う音。鳥のさえずり。
「……ここは」
田邊は、自分の声に驚いた。
喉が渇いて、しゃがれている。
起き上がろうとして、田邊は自分の体に違和感を覚えた。
着ているものが、違う。
さっきまで着ていた白衣と紺色のカーディガン、白いシャツとスラックスではなく、粗末な麻の着物を着ている。それも、時代劇で見るような、粗末な庶民の衣服だ。
田邊は、慌てて体を確認した。
その時、紘一は、自分の手を見て、驚いた。
「これは......」
手が、若返っていた。
紘一は、確かに五十三歳だった。手には、年相応の皺があり、老斑もあった。
だが、今、目の前にある手は、違った。
皺が、ほとんどない。肌も、若々しい。
まるで、三十代か、それ以下の手のようだった。
紘一は、慌てて体を確認した。
腕も、若々しい。
体を触ってみると、筋肉の張りが、以前とは違う。
「若返っている......」紘一は呟いた。
紘一は、混乱した。
何が起こっているのか、分からない。
袖口から見える腕は、見慣れない粗い布に覆われている。麻の着物。肌触りが悪く、ごわごわしている。
足元を見ると、藁草履を履いていた。
「何だ、これは……」
田邊は立ち上がった。
体が、妙に軽い。五十代の体とは思えないほど、すんなりと立ち上がれた。
周囲を見回す。
そこは森の中だった。
高い木々が立ち並び、その間から木漏れ日が差し込んでいる。広葉樹の森だ。ブナやナラのような木が多い。足元には落ち葉が積もり、その下は柔らかい腐葉土だ。
鳥の声が、あちこちから聞こえる。ウグイスの声。ホトトギスの声。そして、知らない鳥の声。
どこかで水の流れる音がする。
風が吹いて、木々が揺れた。初夏の、爽やかな風だ。
田邊は辺りを歩き始めた。
森の中には、獣道のようなものがあった。おそらく、鹿や猪が通る道だろう。それに沿って進む。
しばらく歩くと、木々が開けた。
小さな川が現れた。
川幅は三メートルほど。水は透明で、川底の石が見える。清流だ。
田邊は川のほとりに座り込み、水面を覗き込んだ。
そこに映ったのは、若くなった自分の顔だった。
若くしわのない顔。ふさふさの髪。
田邊は水を手ですくって、口に含んだ。
冷たく、清らかな水だった。ミネラルが豊富なのか、少し甘みすら感じる。
喉の渇きを癒しながら、田邊は必死に考えた。
最後に覚えているのは、美術室での出来事。視界が歪み、浮遊感があって、そして気を失った。
その後、ここで目が覚めた。
タイムスリップ、という言葉が頭をよぎる。馬鹿な、そんなことが。しかし、この状況を説明する他の言葉が見つからない。
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