十六、平吉の恋—若き武士の心の揺れ
ある日、平吉が紘一のところに来た。
その顔は、いつもと違っていた。何か、悩んでいるようだった。
「田邊さん、少しお時間いいですか」
「もちろんだ。どうした」
平吉は座ったが、なかなか口を開かなかった。顔が、赤くなっている。
「平吉、どうしたんだ。顔が赤いぞ」
「あ、いえ……」平吉はさらに赤くなった。
紘一は気づいた。「もしかして、恋の話か」
平吉はびっくりした顔をした。「な、なぜ分かるんですか」
紘一は笑った。「顔に書いてある」
平吉は恥ずかしそうに俯いた。
「誰なんだ」紘一は優しく尋ねた。
平吉は小さな声で答えた。「寺子屋の生徒の姉です……」
「ほう」
「名を、お春といいます」平吉の声は、震えていた。「太郎さんの娘です」
紘一は思い出した。太郎には、息子の吉松と、娘のお春がいた。お春は、十六歳くらいだろうか。
「お春さんか。良い娘だな」
「はい」平吉は顔を上げた。「優しくて、働き者で、美しくて……」
紘一は微笑んだ。完全に恋をしている。
「それで、お春さんに、気持ちを伝えたのか」
「いえ、まだです」平吉は首を横に振った。「どうやって伝えればいいのか、分かりません」
「まず、太郎さんに話をするのが筋だな」紘一はアドバイスした。
「ですが、俺、太郎さんに何と言えば……」平吉は不安そうだった。
「正直に、お春さんのことが好きだと言えばいい」紘一は続けた。「そして、結婚を前提に、お付き合いをさせてほしいと」
平吉は緊張した顔をした。「結婚……」
「お前、お春さんと結婚したいんだろう」
「はい」平吉は頷いた。「でも、俺、まだ若いですし、収入も少ないです」
「お前は、神崎家の武士だ」紘一は励ました。「そして、寺子屋の教師でもある」紘一は続けた。「立派な仕事だ」
「本当でしょうか」
「ああ」紘一は平吉の肩を叩いた。「自信を持て」
平吉は少し勇気が出たようだった。
「田邊さん、一緒に来てくれませんか」平吉は頼んだ。「太郎さんに話をする時」
「もちろんだ」紘一は微笑んだ。
数日後、紘一と平吉は太郎の家を訪ねた。
太郎は驚いた顔で二人を迎えた。「田邊様、平吉殿、どうされました」
「太郎さん、少し話があります」紘一は言った。
太郎は二人を家に招き入れた。
質素な家だが、清潔に保たれている。床には、新しい筵が敷かれている。間断灌漑の成功で、少し余裕ができたのだろう。
三人は、座った。
紘一が口を開いた。「太郎さん、実は、平吉が話があるそうです」
太郎は平吉を見た。
平吉は深呼吸をした。そして、真剣な顔で言った。
「太郎さん、俺、お春さんのことが好きです」
太郎は目を丸くした。
「お春と、結婚を前提に、お付き合いをさせていただけないでしょうか」平吉は深く頭を下げた。
太郎はしばらく黙っていた。そして、笑い出した。
「そうか、平吉殿が、お春を」太郎は嬉しそうに言った。
「ダメでしょうか」平吉は不安そうに顔を上げた。
「いや、嬉しいですよ」太郎は微笑んだ。「平吉殿は、立派な方です」太郎は続けた。「お春も、平吉殿のことを慕っているようです」
平吉の顔が、明るくなった。「本当ですか」
「ああ」太郎は頷いた。「だが、決めるのは、お春です」太郎は立ち上がった。「お春を呼んできます」
太郎は奥の部屋に行った。
しばらくして、お春が出てきた。
お春は、美しい娘だった。黒い髪を後ろで結び、顔は少し赤くなっている。緊張しているようだった。
「お春」太郎が言った。「平吉殿が、お前に話があるそうだ」
お春は、平吉を見た。
平吉は立ち上がって、お春の前に進んだ。
「お春さん」平吉の声は、震えていた。「俺、お春さんのことが好きです」
お春の顔が、さらに赤くなった。
「俺と、結婚を前提に、お付き合いしていただけませんか」
お春は、俯いた。長い沈黙。
やがて、小さな声で答えた。
「はい……」
平吉の顔が、一気に明るくなった。「本当ですか」
お春は、顔を上げた。その目には、涙が滲んでいた。「はい」
太郎は満足そうに笑った。「では、決まりだ」
紘一も、微笑んでいた。若い二人の恋。それは、美しかった。




