十二、夜の講義と文字の適応
その夜、田邊は広信の部屋を訪れた。
部屋は、田邊の納屋とは比較にならないほど立派だった。
畳が敷かれ、文机が置かれ、行灯が二つ灯っている。
壁には、刀や槍が飾られていた。
「どうぞ、お入りください」
広信は、田邊を招き入れた。
部屋には、もう一人、若い武士がいた。
「こちらは、私の従者の源太です」
「よろしくお願いします」
源太は、田邊に頭を下げた。だが、その目には、わずかに警戒の色があった。
よそ者である田邊を、まだ完全には信用していないのだろう。
「では、始めましょうか」
田邊は、文机の前に座った。
机の上には、紙と筆、そして墨がある。
だが、紙は現代のものとは全く違う。和紙だ。厚みがあり、表面は粗い。
筆も、見慣れたものとは違う。穂先が長く、柔らかい。
墨は、固形の墨を硯で磨って作る。
田邊は、まず墨を磨り始めた。
硯に水を少し垂らし、墨をゆっくりと磨る。
この作業も、体が自然に覚えている。
(これも、能力の一部なのか……)
田邊は、改めて自分に起きた変化を実感した。
言葉が自然に話せるように、文字も自然に読み書きできる。
それだけではない。
筆の使い方、墨の磨り方、紙の扱い方。
この時代の作法が、すべて体に刷り込まれているようだった。
墨が適度な濃さになったのを確認して、田邊は筆を取った。
そして、紙に「一」という字を書いた。
シンプルな横線だが、筆の入れ方、力の入れ方、止め方。すべてに技術がある。
田邊の手は、まるで何十年も書道を習ってきたかのように、滑らかに動いた。
「すごい……」
広信が、感嘆の声を上げた。
「こんなに美しい字、初めて見ました」
田邊自身も、驚いていた。
現代では、田邊は書道が特別得意というわけではなかった。
美術教師として、書道の基礎は学んだが、専門家というレベルではなかった。
だが、今、田邊の手が生み出した文字は、見事なものだった。
筆の運び、墨の濃淡、字形のバランス。
すべてが完璧だった。
「字というのは、ただ形を覚えるだけではありません」
田邊は、広信に説明した。
「筆の動かし方、力の入れ方、すべてに意味があります」
「はあ……」
広信は、真剣に聞いていた。
「では、一緒に書いてみましょう」
田邊は、広信に筆を持たせた。
「筆は、このように持ちます。親指、人差し指、中指で支えて……」
広信の持ち方を矯正する。
「そして、手首は固定せず、腕全体を使って書きます」
「難しいですね……」
「最初は誰でもそうです。大丈夫、練習すればできるようになります」
田邊は、教師としての経験を活かして、丁寧に教えた。
広信は、真面目な生徒だった。
田邊の言うことを、一つ一つ真剣に聞き、実践した。
最初は震えていた線も、徐々に安定してきた。
「上手になってきましたね」
「本当ですか!」
広信は、嬉しそうに笑った。
二時間ほど、田邊は基本的な字を教えた。
一、二、三。そして、人、山、川。
シンプルな字だが、それが書けるようになることで、広信の自信がついていくのが分かった。




