十一、広信との出会いと文字の謎
三日目の昼過ぎ、田邊は井戸で水を汲んでいた。
屋敷の中庭にある井戸は、深く掘られていて、冷たい水が湧き出ている。
田邊は、桶で水を汲み上げ、顔を洗った。
冷たい水が、火照った顔を冷やしてくれる。
「あの、すみません」
声をかけてきたのは、十代後半くらいの少年だった。
整った顔立ちで、身なりも良い。質の良い着物を着ている。
これは、身分の高い者だ。
「はい」
田邊は、慌てて頭を下げた。
「あなたが、田邊さんですか」
「はい、そうです」
「初めまして。私は、神崎広信と申します」
神崎広信—つまり、領主・広綱の息子だ。
「お初にお目にかかります」
田邊は、丁寧に礼をした。
広信は、田邊をじっと見つめていた。その目には、好奇心が宿っている。
「父上から聞きました。記憶を失っているそうですね」
「はい、残念ながら」
「大変ですね。でも、父上が置いてくださって良かった」
広信の声には、優しさがあった。まだ若いが、思いやりのある青年のようだ。
「あの、田邊さん」
広信は、少し躊躇ってから尋ねた。
「字が読めるというのは、本当ですか」
「ええ、まあ」
「すごい!」
広信は、目を輝かせた。
「実は、私、字があまり読めないんです。父上からは、武士たるもの読み書きができねばならぬと言われているのですが……」
広信は、恥ずかしそうに頭を掻いた。
田邊は、内心で驚いた。
領主の息子でさえ、満足に読み書きができない。それが、この時代の現実なのだ。
戦国時代、識字率は極めて低かった。
庶民は、ほぼ全員が文盲だった。
武士階級でも、読み書きができない者は多かった。
教育を受けられるのは、一部の特権階級だけ。それも、寺や都から招いた学者に師事する必要があった。
だが、小さな地方領主の家には、そんな人材はいない。
「もし、よろしければ」
広信は、真剣な顔で田邊を見た。
「私に、字を教えていただけませんか」
これは、チャンスだ。
領主の息子に字を教えれば、田邊の立場は格段に良くなる。
「喜んで」
田邊は、即答した。
「本当ですか! ありがとうございます!」
広信は、嬉しそうに笑った。
「では、今晩からでもよろしいですか」
「もちろんです」




