四、医療改革の始動—衛生観念の普及と困難
春が深まり、気温が上がってくると、紘一は医療改革に本格的に取り組み始めた。
冬の間、源蔵が肺炎で苦しんだことが、紘一に大きな影響を与えていた。この時代の医療は、あまりにも貧弱だ。病気になっても、適切な治療を受けられない。薬も高価で、手に入らない。そして、予防医学という概念も、ほとんどない。
紘一はまず手洗いの習慣を広めることから始めることにした。
ある日の午後、紘一は村の広場に人々を集めた。農民、子供、そして寺子屋の生徒たち。五十人ほどが集まった。
「皆さん、今日は、健康について話をします」紘一は人々の前に立った。
人々は、不思議そうな顔をした。健康について、領主の家臣が話をする。それは、珍しいことだった。
「皆さんは、病気になったことがありますか」紘一は尋ねた。
多くの人が、手を挙げた。この時代、病気は日常茶飯事だった。
「では、病気は、どうやって広がると思いますか」
人々は、顔を見合わせた。誰も、答えられない。
「多くの病気は、手を介して広がります」紘一は説明した。「例えば、病気の人が咳をして、手で口を覆います。その手で、物を触ります」紘一は続けた。「そして、別の人が、その物を触ります。その手で、食事をします。すると、病気が移ります」
人々は、驚いた顔をした。そんなことは、考えたこともなかった。
「ですから、手を洗うことが、とても重要なのです」紘一は強調した。「手を洗えば、病気を防げます」
「田邊様」一人の農民が、手を挙げた。「でも、俺たち、手は洗っています」
「どのタイミングで洗っていますか」紘一は尋ねた。
「朝、起きた時です」
「それだけですか」
「はい」
紘一は頷いた。「それでは、不十分です」紘一は説明した。「手は、もっと頻繁に洗う必要があります」
「具体的には、いつですか」
「まず、食事の前です」紘一は指を折りながら説明した。「食事の前に手を洗えば、手についた病気の元を、口に入れずに済みます」
人々は、頷いた。
「次に、トイレの後です」紘一は続けた。「トイレの後、手を洗わずに物を触ると、病気が広がります」
人々の顔が、少し赤くなった。トイレのことを、公の場で話すのは、恥ずかしいことだった。
「そして、外から帰った時です」紘一は続けた。「外には、様々な病気の元があります。帰ったら、手を洗いましょう」
「分かりました」人々は、答えた。
「では、実際に手の洗い方を見せます」紘一は水を入れた桶を持ってこさせた。
紘一は桶の前に立った。そして、丁寧に手を洗い始めた。
「まず、手を水で濡らします」紘一は説明しながら実演した。「そして、手のひら全体をこすります」
紘一は両手のひらをこすり合わせた。
「次に、手の甲をこすります」紘一は片方の手のひらで、もう片方の手の甲をこすった。
「指の間も、忘れずに」紘一は指を組んで、指の間をこすった。
「親指も、丁寧に」紘一は片方の手で、もう片方の親指を握ってこすった。
「そして、爪の間も」紘一は爪を手のひらにこすりつけた。
「最後に、手首も洗います」
紘一の手洗いは、非常に丁寧だった。一分以上かけて、隅々まで洗った。
人々は、その様子を見て、驚いた。そんなに丁寧に手を洗ったことは、なかった。
「では、皆さんもやってみてください」紘一は言った。
何人かの人が、前に出て、手を洗い始めた。だが、最初は、うまくできなかった。紘一が教えた通りに、丁寧に洗えない。
「いいですよ。もっとゆっくり、丁寧に」紘一は一人一人を指導した。
三十分ほどかけて、多くの人が正しい手洗いを学んだ。
「この手洗いを、毎日、続けてください」紘一は最後に言った。「食事の前、トイレの後、外から帰った時。必ず、手を洗ってください」
「はい」人々は、答えた。
だが、紘一は内心では不安もあった。人々が、本当にこの習慣を続けるだろうか。新しい習慣を定着させるのは、難しい。特に、目に見える効果がすぐには出ない場合は。
その日の夕方、紘一は伊藤と話をしていた。
「伊藤殿、手洗いの指導をしましたが、本当に定着するでしょうか」
伊藤は、少し考えてから答えた。「難しいだろうな」伊藤の声は、現実的だった。「人は、長年の習慣を、簡単には変えられない」
「やはり……」
「だが、諦めることはない」伊藤は、続けた。「少しずつ、広めていけばいい。まずは、寺子屋の生徒たちから始める。子供たちに習慣をつければ、大人になっても続けるだろう」
紘一はその提案に頷いた。「確かに、それは良い方法ですね」
「そして、効果が出れば、自然に広がる」伊藤は、続けた。「手洗いをする人が、病気にかかりにくくなる。それを見た他の人も、真似するようになる」
「はい」
翌日から、紘一は寺子屋で、手洗いの指導を始めた。
授業の前に、必ず全員で手を洗う。食事の前にも、手を洗う。トイレの後にも、手を洗う。
最初、子供たちは面倒くさがった。「また、手を洗うんですか」
「はい」紘一は厳しく言った。「手を洗わないと、授業は受けられません」
子供たちは、渋々ながらも、手を洗い始めた。
だが、一週間も続けると、習慣になってきた。手を洗わないと、気持ち悪く感じるようになる。
そして、二週間後、変化が現れた。
寺子屋の生徒たちの中で、風邪をひく子供が減ったのだ。
例年、春から初夏にかけて、風邪が流行る。だが、今年は、寺子屋の生徒たちの中で、風邪をひく子供が、例年の半分以下だった。
親たちが、それに気づいた。
「うちの子、今年はまだ風邪をひいていないんです」太郎が紘一に言った。
「それは、手洗いの効果かもしれませんね」紘一は微笑んだ。
「本当ですか」太郎は驚いた。「手を洗うだけで、風邪を防げるんですか」
「完全には防げませんが、かなり減らせます」紘一は説明した。
太郎は感心した。「じゃあ、俺も家族全員に、手洗いをさせます」
こうして、手洗いの習慣が、少しずつ広がっていった。




