二、寺子屋の拡大—教育への情熱と子供たちの成長
春になり、寺子屋にも変化が訪れた。
生徒の数が、増えたのだ。
冬の間は、二十名ほどだった生徒が、今は四十名を超えていた。農閑期が終わり、農作業が忙しくなったにもかかわらず、多くの子供たちが、そして大人たちが、字を学びに来ていた。
間断灌漑の成功で、農民たちの生活に余裕ができた。その余裕が、教育への関心を高めたのだ。
だが、四十名を超える生徒を、紘一と広信だけで教えるのは、限界があった。
ある日の午後、紘一は広信と相談していた。場所は、寺子屋の隣の空き地だった。
「広信様、生徒が増えすぎて、手が回りません」紘一は正直に言った。
「そうですね」広信も、困った顔をした。「俺も、精一杯やっていますが、一人一人に十分な時間を割けません」
紘一は考えた。教師を増やす必要がある。だが、誰に頼めばいいのか。
「平吉に、頼んでみてはどうでしょうか」広信が、提案した。
「平吉に?」
「はい」広信は頷いた。「平吉は田邊さんから字を学びました。そして、今では、かなり読み書きができます」広信は続けた。「彼なら、初心者に教えることができるのではないでしょうか」
紘一はその提案を考えた。確かに、平吉は優秀だった。短期間で、多くの字を覚えた。そして、何より、教えることに情熱を持っているように見えた。
「それは、良い案ですね」紘一は頷いた。「平吉に、話してみます」
その日の夕方、紘一は平吉を呼んだ。
「平吉、頼みがあるんだ」
「何でしょうか、田邊さん」
「寺子屋で、教師として手伝ってくれないか」紘一は単刀直入に言った。
平吉は驚いた顔をした。「俺が、ですか」
「ああ」紘一は頷いた。「お前は、短期間で多くのことを学んだ。そして、人に教える才能もあると思う」
「ですが、俺、まだまだ勉強中です」平吉は謙虚に言った。「人に教えられるほど、知識がありません」
「大丈夫だ」紘一は励ました。「お前が教えるのは、初心者だ。基本的な字、読み方、書き方。お前なら、十分に教えられる」
平吉は少し考えてから、頷いた。「分かりました。やってみます」
「ありがとう」
翌日から、平吉は寺子屋で教え始めた。
最初は、緊張していた。生徒たちの前に立つと、手が震えた。だが、紘一が隣で見守っていてくれたので、少しずつ落ち着いていった。
「では、今日は『山』という字を学びます」平吉は大きな紙に字を書いた。「三本の縦線が、山の形を表しています」
子供たちは、真剣に見ていた。
「では、皆さんも書いてみてください」
子供たちは、筆を持って、紙に字を書き始めた。平吉は一人一人を見て回った。
「良いですね。もう少し、この線を長く」
「ここは、もっと真っ直ぐに」
平吉の指導は、優しかった。子供たちも、平吉を慕っているようだった。平吉は子供たちと年齢が近いので、親しみやすいのだろう。
授業が終わった後、平吉は紘一のところに来た。
「田邊さん、どうでしたか」平吉の顔には、不安があった。
「素晴らしかったよ」紘一は微笑んだ。「お前は、教える才能がある」
「本当ですか」平吉の顔が、明るくなった。
「ああ。子供たちも、お前を慕っている」
平吉は嬉しそうに笑った。「ありがとうございます。もっと頑張ります」
こうして、寺子屋には三人の教師が揃った。紘一、広信、平吉。それぞれが、それぞれの役割を果たしていった。
紘一は上級者を教えた。すでに基本的な字を学んだ生徒たちに、より複雑な字、文章の読み方、書き方を教えた。
広信は中級者を教えた。基本を理解した生徒たちに、応用を教えた。
平吉は初心者を教えた。初めて筆を持つ子供たちに、字の基本を教えた。
この分業が、うまく機能した。生徒たちは、自分のレベルに合った指導を受けられるようになった。その結果、学習の効率が上がった。
ある日、紘一は上級クラスで、短い文章を読ませていた。
「では、吉松、この文章を読んでみてください」
吉松は、太郎の息子だった。八歳だが、学習意欲が高く、すでに多くの字を覚えていた。
吉松は、立ち上がって、紙を見た。そして、ゆっくりと読み始めた。
「春が、来た。田んぼに、水が、張られた。農民たちは、田植えを、始めた」
吉松の読み方は、たどたどしかった。だが、確実に読めていた。
「よくできました」紘一は拍手をした。
他の生徒たちも、拍手をした。
吉松は、嬉しそうに座った。
紘一はその光景を見ながら、感動していた。数ヶ月前まで、字が読めなかった子供たちが、今は文章を読めるようになっている。その成長が、紘一に大きな喜びを与えた。
「教育は、未来への投資だ」紘一は心の中で呟いた。
今、この子供たちに字を教える。そうすれば、二十年後、三十年後、この領地には字が読める大人が増える。それは、領地の発展に、大きく貢献するだろう。
そして、何より、子供たちの人生の選択肢が広がる。字が読めれば、書物を読める。知識を得られる。自分の人生を、自分で切り開ける。
「これが、俺にできることだ」紘一は改めて思った。
授業が終わった後、広信が紘一のところに来た。
「田邊さん、寺子屋、うまくいっていますね」
「ああ。皆の協力のおかげだ」
「ですが、また問題があります」広信は困った顔をした。
「何でしょうか」
「場所が、手狭になってきました」広信は寺子屋の建物を見た。「四十名を超える生徒を、この建物に収容するのは、難しいです」
紘一も、その問題を感じていた。確かに、寺子屋は狭くなっていた。生徒たちが、ぎゅうぎゅう詰めになっている。
「増築が必要ですね」紘一は言った。
「ですが、お金が……」広信は心配そうに言った。
「殿に相談してみます」紘一は決めた。「教育は、投資です。きっと、理解していただけると思います」
その日の夕方、紘一は広綱に相談した。
「殿、寺子屋の増築をお願いできないでしょうか」
広綱は少し考えてから答えた。「いくらかかる」
「おそらく、米にして五十俵分ほどかと思います」紘一は見積もった。
広綱はしばらく黙っていた。五十俵は、決して小さな額ではない。だが、広綱は頷いた。
「分かった。出そう」
「本当ですか」紘一は驚いた。思ったより、簡単に承諾してくれた。
「ああ」広綱は微笑んだ。「お前の寺子屋は、領地の未来を作っている」広綱は続けた。「そこに投資することは、正しい」
「ありがとうございます」紘一は深く頭を下げた。
こうして、寺子屋の増築が決まった。




