閑話 太郎の一日
太陽が昇る前、太郎は目を覚ました。
外はまだ暗い。だが、太郎の体は、長年の習慣で、夜明け前に自然に目が覚める。農民にとって、朝は貴重な時間だった。
太郎は、静かに起き上がった。隣で、妻のおつねが眠っている。疲れた顔をしている。昨日も、朝から晩まで働いていた。起こさないように、そっと布団を出た。
小さな家の中は、静かだった。
一つの部屋に、家族全員が寝ている。妻のおつね、息子の吉松、娘のお春。そして、太郎の母。五人家族だった。
いや、もう四人か。太郎は、思い出した。お春は、二ヶ月前に嫁に出た。平吉という、立派な若者のところへ。今は、神崎家の屋敷で、幸せに暮らしている。
太郎は、少し寂しかった。だが、同時に、安心もしていた。お春は、良い夫を得た。それが、父親として、何より嬉しかった。
太郎は、外に出た。
冬の朝は、寒い。息が白く、空気は冷たい。だが、太郎は慣れている。この寒さの中で、何十年も働いてきた。
まず、井戸へ向かった。
手桶で水を汲む。その水で、顔を洗う。冷たい水が、顔に触れる。目が覚める。
顔を洗いながら、太郎は考えた。今日は、何をするべきか。
冬は、農閑期だ。田んぼの仕事はない。だが、やるべきことは、たくさんある。
薪を割る。道具を修理する。来年の準備をする。
そして、最近は、新しい仕事も増えた。
寺子屋の手伝いだ。
太郎の息子、吉松は、寺子屋で字を学んでいる。そして、太郎自身も、時々、寺子屋に行って、建物の修理や掃除を手伝っている。
田邊様が始めた寺子屋。それは、太郎の生活を変えた。
吉松が、字を読めるようになった。書けるようになった。それが、太郎には、信じられないことだった。
太郎自身は、字が読めない。名前を書くこともできない。それが、当たり前だと思っていた。農民は、字など必要ない。そう、ずっと思っていた。
だが、田邊様は、違うことを教えてくれた。
「字が読めれば、世界が広がる」
田邊様の言葉を、太郎は覚えている。
そして、今、吉松を見ていると、それが本当だと分かる。吉松は、字が読めるようになってから、色々なことに興味を持つようになった。本を読み、質問をし、考えるようになった。
それが、太郎には、誇らしかった。
顔を洗い終えた太郎は、家に戻った。
囲炉裏に火をつける。薪を組み、火打石で火花を散らす。何度か試すと、火がついた。小さな炎が、暗い部屋を照らす。
太郎は、鍋を火にかけた。昨夜の残りの粥を温める。
しばらくすると、妻のおつねが起きてきた。
「お早うございます」おつねは、太郎に挨拶した。
「おう、お早う」
おつねは、囲炉裏の前に座った。「今日は、何をしますか」
「薪を割る。それから、鍬の修理をする」太郎は、答えた。「お前は」
「漬物を作ります。それから、機を織ります」
二人は、黙々と朝食の準備をした。
粥が温まると、太郎は椀によそった。質素な朝食だ。粥と、漬物と、少しの味噌。だが、太郎には、これで十分だった。
去年までは、もっと質素だった。粥も、雑穀ばかりで、米はほとんど入っていなかった。だが、今年の豊作で、米が増えた。毎日、米の入った粥が食べられる。
それが、太郎には、幸せだった。
朝食を食べ終えると、吉松が起きてきた。
「父ちゃん、お早う」
「おう、お早う」
吉松は、九歳になっていた。背も伸びて、しっかりしてきた。
「今日も、寺子屋に行くのか」太郎は、尋ねた。
「うん」吉松は、嬉しそうに答えた。「今日は、新しい字を習うんだ」
「そうか。頑張れよ」
「うん」
吉松も、朝食を食べた。食べ終えると、身支度を始めた。
「父ちゃん、行ってきます」
「おう、気をつけてな」
吉松は、家を出ていった。寺子屋へ向かう。
太郎は、その後ろ姿を見送った。
「字が読めるようになって、本当に良かった」太郎は、呟いた。
おつねも、微笑んだ。「はい。吉松、毎日楽しそうです」
「これも、田邊様のおかげだ」
「本当に」
太郎は、立ち上がった。「じゃあ、俺も仕事に行く」
「はい。気をつけて」
太郎は、家を出た。
外は、少し明るくなっていた。東の空が、わずかにオレンジ色に染まっている。夜明けが近い。
太郎は、薪置き場へ向かった。
そこには、丸太が積まれている。これを、斧で割る。冬の間の薪にするためだ。
太郎は、斧を手に取った。重い。だが、使い慣れた道具だ。
丸太を台の上に置く。そして、斧を振り上げる。
力を込めて、振り下ろす。
ガツン、という音。斧が、丸太に食い込む。だが、まだ割れない。
もう一度、振り下ろす。
今度は、割れた。二つに。
太郎は、黙々と作業を続けた。
丸太を置き、斧を振り下ろす。割れた薪を、脇に積む。また、丸太を置く。
単純な作業だ。だが、太郎は嫌いではない。体を動かすこと。それが、太郎の生活だった。
一時間ほど作業を続けた頃、声がした。
「太郎」
振り返ると、源蔵が立っていた。
源蔵は、村の長老だ。七十歳を超えているが、まだ元気だ。去年、病気で倒れたが、田邊様のおかげで回復した。
「源蔵さん、お早うございます」太郎は、挨拶した。
「お早う。早いな」
「はい。薪を割っていました」
源蔵は、積まれた薪を見た。「もう、こんなに割ったのか」
「まだまだです。冬は長いですから」
源蔵は、笑った。「お前は、本当に働き者だな」
太郎は、照れくさそうに頭をかいた。
「ところで」源蔵が、真剣な顔になった。「今日の午後、村の寄り合いがある」
「寄り合い、ですか」
「ああ。来年の田植えについて、話し合う」源蔵は、説明した。「田邊様も来てくださるそうだ」
「分かりました。行きます」
「頼む」
源蔵は、去っていった。
太郎は、再び薪割りを始めた。
だが、頭の中では、寄り合いのことを考えていた。
来年の田植え。また、間断灌漑をする。今年、素晴らしい結果が出た。来年も、きっとうまくいく。
太郎は、期待していた。
昼過ぎ、太郎は家に戻った。
おつねが、昼食を用意してくれていた。握り飯と、味噌汁。
「ただいま」
「お帰りなさい。疲れたでしょう」
「まあな」
太郎は、囲炉裏の前に座った。そして、握り飯を食べた。
米の握り飯。それが、今は、毎日食べられる。去年までは、考えられなかったことだ。
「美味いな」太郎は、呟いた。
「はい」おつねも、微笑んだ。
昼食を食べ終えると、太郎は、村の集会所へ向かった。
集会所は、村の中心にある、古い建物だった。茅葺き屋根の、質素な建物。だが、村人たちが集まる、重要な場所だった。
太郎が着いた時、すでに多くの農民が集まっていた。三十人ほどだろうか。皆、来年の田植えについて話し合うために来ていた。
「太郎、来たか」次郎が、声をかけた。
「ああ」
太郎は、次郎の隣に座った。
しばらくすると、田邊様が到着した。
農民たちは、一斉に立ち上がった。
「田邊様」
「皆さん、こんにちは」田邊様は、穏やかに挨拶した。「座ってください」
農民たちは、座った。
田邊様も、前に座った。
「では、来年の田植えについて、話をしましょう」田邊様は、口を開いた。
寄り合いが始まった。
田邊様は、まず、今年の結果を報告した。
「今年、間断灌漑を採用した田んぼは、素晴らしい結果を出しました」田邊様は、説明した。「平均で、去年の一・五倍の収穫がありました」
農民たちから、ざわめきが起こった。皆、知ってはいたが、改めて聞くと、驚きがある。
「太郎さんの田んぼは、二倍以上でした」田邊様は、続けた。「これは、太郎さんが、非常に丁寧に管理したからです」
農民たちは、太郎を見た。
太郎は、照れくさそうに頭を下げた。
「来年も、間断灌漑を続けましょう」田邊様は、提案した。「そして、今年やらなかった人も、ぜひ挑戦してください」
農民たちは、頷いた。
「ただし」田邊様は、続けた。「間断灌漑は、丁寧な管理が必要です」田邊様は、真剣に言った。「毎日、田んぼを見て、土の状態を確認してください」
農民たちは、真剣に聞いていた。
「そして、困ったことがあれば、すぐに相談してください」田邊様は、励ました。「太郎さんや、私が、いつでも助けます」
農民たちから、感謝の声が上がった。
「ありがとうございます、田邊様」
寄り合いは、一時間ほど続いた。
様々なことが話し合われた。田植えの時期、水の管理、肥料のこと。
太郎も、自分の経験を話した。
「俺は、毎朝と夕方、必ず田んぼを見ました」太郎は、説明した。「土の色、湿り気、稲の葉の色。すべてを確認しました」
「それが、大切なんですね」次郎が、言った。
「ああ」太郎は、頷いた。「最初は、不安でした。でも、田邊様の言う通りにしたら、本当にうまくいきました」
寄り合いが終わると、農民たちは、満足そうに帰っていった。
太郎も、家に向かった。
だが、その前に、田邊様が声をかけた。
「太郎さん、少しいいですか」
「はい」
二人は、少し離れた場所へ移動した。
「太郎さん」田邊様が、口を開いた。「来年、太郎さんに、お願いしたいことがあります」
「何でしょうか」
「他の農民たちに、間断灌漑を教えてほしいのです」田邊様は、説明した。「私が教えるよりも、太郎さんが教えた方が、皆、理解しやすいと思います」
太郎は、驚いた。「俺が、ですか」
「はい」田邊様は、頷いた。「太郎さんは、実際に成功しました。その経験を、他の人に伝えてほしいのです」
太郎は、少し考えた。自分が、人に教える。それは、考えたこともなかった。
「ですが、俺、うまく説明できるかどうか……」
「大丈夫です」田邊様は、励ました。「太郎さんの言葉で、説明すればいいのです」
太郎は、決意した。「分かりました。やってみます」
田邊様は、微笑んだ。「ありがとうございます」
太郎は、家に帰った。
夕方、吉松が寺子屋から帰ってきた。
「父ちゃん、ただいま」
「お帰り。今日は、どうだった」
「楽しかった」吉松は、嬉しそうに言った。「新しい字を習ったよ」
「どんな字だ」
吉松は、紙を取り出した。そこには、いくつかの字が書かれている。
「『田』という字だよ」吉松は、説明した。「田んぼの、田」
太郎は、その字を見た。確かに、田んぼの形に見える。
「ほう、よく書けているな」
「ありがとう」吉松は、照れくさそうに笑った。
夕食の時間になった。
家族全員が、囲炉裏の周りに座った。太郎、おつね、吉松、そして太郎の母。
今日の夕食は、ご飯と、魚の煮付けと、野菜の炊き合わせ。
「いただきます」
皆、手を合わせた。
食事をしながら、太郎は考えていた。
この一年で、生活が本当に変わった。
米の収穫が増えた。毎日、米が食べられる。借金も、返せた。
吉松は、字が読めるようになった。お春は、良い夫を得た。
そして、太郎自身も、新しい役割を得た。他の農民たちに、教えるという役割。
「本当に、良くなった」太郎は、呟いた。
「何か言いましたか」おつねが、尋ねた。
「いや、この一年、色々あったなと思ってな」
「そうですね」おつねも、微笑んだ。「良い一年でした」
「来年も、良い年にしよう」
「はい」
食事が終わると、太郎は外に出た。
夜空を見上げる。星が、美しく輝いている。
「田邊様、本当にありがとうございます」太郎は、心の中で呟いた。
田邊様が来てから、すべてが変わった。
農業が良くなった。教育が始まった。医療も改善された。
そして、何より、希望が生まれた。
もっと良い生活ができる。子供たちに、もっと良い未来を与えられる。その希望が、太郎の心を満たしていた。
「来年も、頑張ろう」太郎は、誓った。
星が、静かに輝いていた。
その光が、太郎の未来を照らしているようだった。
太郎の一日は、こうして終わった。
質素だが、充実した一日。
そして、明日も、また同じように、太陽が昇る前に目を覚まし、働き、家族と過ごす。
それが、太郎の生活だった。
だが、その生活は、以前とは違っていた。
希望がある。未来がある。
それが、太郎を支えていた。
(閑話 完)




