三十三、心の傷と回復
帰還から三日が経った。
紘一は、再び、あの症状に苦しんでいた。
夜、眠ろうとすると、戦場の光景が蘇る。敵の顔、血の匂い、悲鳴。そして、戦死した仲間たちの顔。新吾が倒れる瞬間。彦三郎が槍に突かれる瞬間。その光景が、何度も何度も、脳裏に浮かぶ。
紘一は、目を覚ます。汗だくになっている。息が荒い。心臓が、激しく打っている。
部屋の中を見回す。ここは、戦場ではない。神崎家の屋敷だ。安全な場所だ。だが、それでも、恐怖が消えない。
紘一は、窓を開けた。冷たい空気が、部屋に流れ込む。深く息を吸う。落ち着こうとする。だが、手の震えが止まらない。
「また、か……」紘一は、呟いた。
松永との戦いの後も、同じ症状に苦しんだ。だが、時間とともに、少しずつ良くなっていた。それが、今回の戦いで、再発した。しかも、以前よりも激しい。
紘一は、食事もほとんど喉を通らなくなった。白米を見ると、血を思い出す。魚を見ると、傷口を思い出す。すべてが、戦場と結びついてしまう。
昼間も、集中できない。字を教えようとしても、頭に入らない。領地の仕事をしようとしても、手につかない。ふとした瞬間に、戦場の光景が蘇ってくる。
ある日の午後、紘一は寺子屋で字を教えていた。子供たちが、一生懸命に筆を動かしている。その真剣な顔を見ながら、紘一は説明をしていた。
「この字は、『人』という字です。二本の線が、支え合っている形をしています」
その時、一人の子供が、赤い墨で字を書いた。赤い墨が、紙に広がる。
その瞬間、紘一の脳裏に、血が広がる光景が浮かんだ。戦場で、敵の血が地面に広がる。その光景が、鮮明に蘇る。
「うっ……」紘一は、気分が悪くなった。
「田邊先生、大丈夫ですか」子供たちが、心配そうに見ている。
「ああ、大丈夫だ」紘一は、無理やり笑顔を作った。「少し、休憩しよう」
紘一は、外に出た。深呼吸をする。だが、動悸が止まらない。
広信が、心配して追いかけてきた。「田邊さん、本当に大丈夫ですか。顔色が悪いです」
「大丈夫だ。少し疲れているだけだ」
だが、広信は納得しなかった。「田邊さん、戦場から戻ってから、ずっとおかしいです」広信の声は、真剣だった。「ちゃんと食べていますか。ちゃんと眠れていますか」
紘一は、答えられなかった。
「田邊さん、無理をしないでください」広信は、続けた。「休んでください。皆、心配しています」
「……ありがとう」紘一は、やっと答えた。
その夜、伊藤が紘一の部屋を訪ねてきた。
「田邊殿、入ってもいいか」
「どうぞ」
伊藤は、部屋に入った。そして、紘一の顔を見て、眉をひそめた。「やはり、な」
「何がですか」
「お前、戦の後遺症だろう、伊藤は、直球で言った。
「戦場から戻った後、眠れなくなり、食べられなくなり、戦場の光景が頭に浮かぶ。そういう症状が出る者がいることは、知っている」
伊藤は、座った。「わしも、若い頃、同じ症状に苦しんだ」
「伊藤殿も、ですか」
「ああ」伊藤は、遠くを見た。「初めて大きな戦いに参加した時、わしは多くの敵を殺した。そして、多くの仲間を失った」伊藤の声が、暗くなった。「その後、何ヶ月も、眠れなかった。食べられなかった。戦場の光景が、何度も蘇った」
「どうやって、乗り越えたのですか」
「時間だ」伊藤は、答えた。「時間が、癒してくれた」伊藤は、続けた。「そして、仲間との語らいだ。同じ苦しみを持つ者同士で、話をする。それが、心を軽くしてくれた」
紘一は、伊藤の言葉を噛みしめた。
「田邊殿、一人で抱え込むな」伊藤は、真剣に言った。「辛い時は、誰かに話せ。わしでもいい。平吉でもいい。広信でもいい」
「……はい」
「そして、無理をするな」伊藤は、立ち上がった。「休むべき時は、休め。それが、長く戦い続けるための秘訣だ」
伊藤が去った後、紘一は考えた。確かに、一人で抱え込んでいた。誰にも、本当の苦しみを話していなかった。
その時、部屋の扉が、静かにノックされた。
「田邊さん、平吉です」
「入ってくれ」
平吉が、入ってきた。手には、温かい茶を持っている。
「田邊さん、これ、どうぞ」平吉は、茶を差し出した。
「ありがとう」紘一は、茶を受け取った。
平吉は、紘一の隣に座った。「田邊さん、俺も、同じです」
「同じ?」
「夜、眠れません」平吉は、正直に言った。「戦場の光景が、蘇ります。特に、新吾が倒れる瞬間が」平吉の目に、涙が滲んだ。「俺、新吾の隣で戦っていたんです。でも、助けられなかった」
紘一は、平吉の苦しみを理解した。同じ苦しみを、抱えている。
「俺も、同じだ」紘一は、初めて本当のことを話した。「眠れない。食べられない。戦場の光景が、何度も蘇る」紘一の声が、震えた。「特に、戦死した兵たちの顔が。俺が守れなかった兵たちの顔が」
平吉は、紘一の手を握った。「田邊さん、俺たち、一緒に乗り越えましょう」
「ああ……」
二人は、深夜まで語り合った。戦場のこと、恐怖のこと、罪悪感のこと。すべてを、正直に話した。
そして、その会話の中で、二人の心は、少しずつ軽くなっていった。一人で抱え込むよりも、誰かと共有する方が、楽だった。同じ苦しみを持つ者同士で話すことが、癒しになった。
翌日から、紘一は少しずつ、日常に戻り始めた。まだ、完全には回復していない。夜、悪夢を見ることもある。だが、以前よりは、楽になった。
そして、紘一は決意した。この経験を、無駄にしない。戦いの恐ろしさを、人々に伝える。そして、戦いのない世界を作るために、さらに努力する。それが、戦死した兵たちへの、最大の供養だと。




