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美濃統一編 第一章 【消失】 一、田邊紘一

時代に合わない言葉遣いや単語がありますが、ご了承ください。

全10巻の構想で執筆していきます。

また主人公は転移により不思議な能力と体が若返ります。


最後までお付き合いください。




午後二時を過ぎた美術室には、独特の空気が漂っていた。

石膏の粉の匂い、木炭の香り、そして開け放たれた窓から流れ込む初夏の風。それらが混ざり合って、この空間だけの時間を作り出している。

「じゃあ、今日はここまで。デッサンの続きは次回ね」

田邊誠一は、教卓の前でそう告げた。五十三歳。この春日野中学校で美術教師を務めて、今年で4年目になる。

生徒たちは思い思いにイーゼルを片付け始めた。炭で汚れた手を見て顔をしかめる女子、友人と今日の出来を見せ合う男子。いつもと変わらない、平和な放課後の風景だった。

田邊は白衣の胸ポケットから眼鏡を取り出し、かけ直した。老眼が進んで、最近は細かい文字が見づらい。教卓の上には、生徒たちが使った画材が散乱している。パレットナイフ、筆洗器、固形絵の具のチューブ。どれも長年使い込まれ、田邊の手に馴染んだ道具たちだ。

窓の外では、野球部が練習を始めている。「ナイスボール!」という声が聞こえ、金属バットがボールを打つ小気味よい音が響く。グラウンドの土の匂いが、わずかに美術室まで届いている。

田邊は、ふと足を止めた。

この日常が、どれほど尊いものか。生徒たちの屈託のない笑顔。平和な午後の時間。当たり前すぎて、普段は意識することもない。

だが今日は、なぜか胸に染み入るものがあった。

理由は分からない。ただ、漠然とした予感のようなものが、心の奥底にあった。

「先生、これ、どこに片付ければいいですか」

振り返ると、眼鏡をかけた女子生徒が木炭箱を持って立っていた。小柄で物静かな子だ。名前は中村さん。絵の才能があり、田邊は密かに美大への進学を勧めようと考えていた。

「ああ、それは準備室の棚に。三段目の左側ね。ありがとう」

「はい」

中村さんは、丁寧にお辞儀をして準備室へ向かった。礼儀正しい子だ。

田邊は再び、教卓の上の画材の整理に戻った。パレットナイフを一つずつ拭いて、筆立てに戻す。固形絵の具は、色ごとに箱に収める。この作業が、田邊は嫌いではなかった。むしろ、一日の終わりの儀式のようで、心が落ち着く。

手を動かしながら、田邊は今日の授業を振り返っていた。

二年生のデッサンの授業。石膏像を使った基礎訓練だ。生徒たちは、まだ線が固い。だが、それでいい。最初から上手い必要はない。大切なのは、観察する目を育てることだ。

形を正確に捉える。光と影の関係を理解する。立体を平面に置き換える技術。

それらは、すべて「見る力」から生まれる。

田邊は、美術教師として、それを伝えることを使命だと思ってきた。

その時だった。

視界が、ぐにゃりと歪んだ。

「……え?」

田邊は、思わず目を擦った。

だが、視界の歪みは消えない。それどころか、さらに激しくなった。

まるで、水の中にいるような。世界が、液体のように揺らいでいる。

床が傾いたような感覚がして、田邊は思わず教卓に手をついた。

だが、その手は教卓を捉えることなく、空を切った。

教卓が、ない。

いや、教卓だけではない。美術室全体が、透明になっていく。

足元から何かが崩れ落ちていくような感覚。浮遊感。まるで急降下するエレベーターに乗っているような。

「せん、せい……?」

遠くで、生徒の声が聞こえた。中村さんだろうか。

だが、その声はすぐに遠ざかっていく。

生徒たちの声。廊下を歩く足音。窓の外の野球部の声。チャイムの音。

すべてが、遠ざかっていく。

教室の風景が白く霞み、やがて—。

何も見えなくなった。


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