二(第九話)
「どうしてもマーヤが運ぶのか?」
「はい、あたしの仕事ですから。
ではナユタナ様、そちらをあたしに」
ナユタナは、昨晩使用した夜壺を背に隠していた。
マーヤは中身を捨てにゆくため、壺を渡すようにと手を差し出している。
夜壺を初めて使ったナユタナは、マーヤへ手渡すことに強い抵抗を覚えた。
「暗くなる前に家畜を見て、厠の場所を確認し、裏庭から従者棟へ向かいましょう。
ナユタナ様からリーナに服を渡してあげてください。きっと喜びます」
「んぐぅ……」
早く外へ出たかったナユタナは、仕方なくマーヤへ夜壺を渡した。
屋敷の表扉から外に出たナユタナは、マーヤの後をついてゆく。
マーヤは籠と包みを抱え、ナユタナはパン屑の入った袋を手にしていた。
表通りに面した花壇沿いを進むと、馬車庫と馬小屋がある。
道を挟んだ向こう側、南の林では、木々が風に揺れていた。
ナユタナが小屋を覗くと、手前の馬が体を揺らして後退し、頭を垂れた。
「ずいぶん年老いた馬だな」
「ユトロ様は馬車も馬もお使いになりませんから、使用人のお使い用になっています。
オルボはもうすぐ引退で、アルメという名の若い馬が奥におります。
ほら、あそこに。馬番のサモンさんも一緒ですよ」
小屋の奥で馬の世話をしていた背の高い男が、ナユタナを見て「ヒィ!」と声を上げ、尻もちをついた。
マーヤとナユタナは驚いて男を見た。
「だ、大丈夫ですか?」
「……糞にでも滑ったのだろうか」
「い、いえ……何でも……ございません……」
サモンは咳をしながら掠れた声で返すと、地べたを這って馬の後ろに隠れた。
馬は鼻を鳴らして後退し、両前脚を上げて嘶く。
小屋の壁と馬に挟まれたサモンは、慌てて馬を落ち着かせにかかった。
「誰か呼んできましょうか」
「だ……大丈夫だ。馬を、使うのか……?」
「ナユタナ様に家畜を見せに来ました。
お屋敷の東裏の通路から、従者棟へ向かう予定です」
「そうか……なら、もう行ってくれるか?
馬が落ち着かないんだ」
サモンはマーヤにそう頼み、ナユタナを見ないように目を伏せていた。
マーヤはその様子を不審に思った。
だがナユタナは、もう隣の小屋へ向かっていた。
「私に怯えているように見えたが、なぜだ?
声まで掠れておったな」
マーヤが追いつくと、ナユタナは小声で尋ねた。
「サモンさんは肺を患っているので、もともとあのような声です。
きっと、ダラン様に叱られたんでしょう」
朝から使用人の男たちが、昨夜のことに不満を漏らしていたらしい。
ナユタナは厨房での出来事を思い出し、納得する。
「私が皆に無理をさせたのだ。悪いことをした」
「いいえ、町にはあたしが行くべきでした。
大人のくせに、恥ずかしいですよ。迷信を本気にして」
マーヤは月光の話を真に受けていないらしく、ダランが叱るのはもっともだと憤った。
浴み小屋でも、女中たちは外を気にしていなかった。
人族のすべてが迷信を信じているわけではないのだ。
「“ガロ”とは、王冠鳥のことだったか」
鳥小屋を眺めてナユタナが微笑む。
王冠鳥は森の集落でも飼っていた、馴染み深い鳥であった。
「いろんな種類がいますよ。
ここにいるのは朝告鳥と王冠鳥ですが、他にも金翼鳥や紅冠鳥というのもいます。
卵をたくさん産むものや、食用に向いている種類もいるんです」
「食用のガロは、王冠鳥よりも美味いのだろうか」
「肉が柔らかくて、脂も多いです。
お祝いの席でよく振る舞われますね」
ナユタナは持ってきたパン屑をガロの小屋に撒いた。
だがガロたちは羽を大きく開いて驚き、再び奥へ集まって、声を刻むように忙しく鳴いている。
「どうした? 餌だぞ、食え」
「いつもはすぐに寄ってくるんですが……お腹がいっぱいなのかもしれません」
ガロたちは競い合うように奥の壁へ向かい、内へ内へと押し戻されるように動いた。
ナユタナにはその光景が、風の魔法で鳥たちを掻き回しているように映った。
「ユトロやダランの食事用だと、これでは間に合わないのではないか?」
肉を頬張る二人の姿を思い出し、ナユタナは鳥の数を数えた。
「お二人はご自身で狩って来られるんですが、魔物の肉まで平気で召し上がるんです。
昨晩も、ダラン様のご指示でナユタナ様に同じ料理をお出ししたそうですが……残されたと聞いて、ほっとしました」
マーヤは心底ほっとしたように笑った。
ナユタナはその様子を不思議に思う。
「マーヤは、魔物の肉を食べないのか?」
「え? だって、魔物の肉ですよ……?
食べて死んだ人もいると聞きます。
お二人は冒険者ですから、食べ慣れていらっしゃるのでしょうけど」
「食べて死んだ者がいるのか?」
「ええと……小さい頃にそう教わりました」
マーヤの曖昧な答えに、ナユタナは顎を撫でる。
「……月光の話と、どこか似ているな」
「そ、そうですか……?」
月光が毒とされる話と、魔物の肉を食べたら死ぬという話。
そのどちらも、魔素に関わることかもしれぬ。
首を傾げるマーヤを横目に、ナユタナはそう感じていた。
「デュクとポモカもいるのか?」
「あたしたちは、リュナクとバリナって呼びます。
リュナクは白いデュクを掛け合わせた品種と聞きました」
隣の小屋に進むと、白毛のリュナクと茶色い巻き毛のバリナがいた。
森の集落では、それぞれデュクとポモカと呼んでいる。
マーヤの話では、リュナクの原種がデュクだという。
「リュナクからは乳が取れます。
ナユタナ様がお食事で飲んでいたのは、向こうのタリオスの乳で、リュナクの乳は加工して使います。
バリナは毛を使うための家畜です。今年もたくさん刈り取れました」
「おお、立派な乳だな」
タリオスと呼ばれた家畜は、向かいの小屋に一頭繋がれている。
馬ほど大きく、それでいて体が太い。
毛は茶色で、大きな乳房が見える。
頭に六つの窪みがあることから“六穴”と呼ばれる品種らしい。
白いリュナクはマーヤより僅かに小さく、大きな角を持つ。
首の長い茶色のバリナは、馬ほどの体格だ。
小屋の奥に行ってしまったバリナを、ナユタナは柵の間から眺めた。
リュナクは二頭、バリナは四頭。
森の集落にいたポモカは小ぶりだったが、換毛が早く、少ない数でも十分に役立っていた。
「屋敷の全員を四頭のバリナでまかなうのか?」
「寝具の綿を替えたり、防寒具の手直しをする程度なら十分です。
急ぎの時は町でも買えますから」
森の集落とは違い、ここでは必要な時に物を手に入れる手段がある。
貨幣と交換する仕組みは、実に便利であった。
家畜小屋の並ぶ通路を抜けると、中庭の先に厠があった。
「すごい臭いだな……」
「タリオスの小屋と肥溜めの間にありますからね。
向こうの厠は使用人用です」
昨日薬草を採取した中庭の西側には、井戸と浴み小屋が並んでいた。
家畜小屋と厠、肥溜めのあるこちら側は、中庭を挟んだ東側にあたる。
マーヤは夜壺の中身を捨て、灰で中を洗い、炭を交換する。
後ろでそわそわとしていたナユタナは、ようやくほっとした。
そしてユトロが「滑る」と言っていた、厠の床を確かめた。
「……一人でも、問題なさそうだ」
「灯掛けは右にあります。奥に積まれた布はきれいなものです。
汚れた布は横の壺に入れてください」
「森では川砂を使っていたが、ここは布を使い回すのか」
砂と聞いたマーヤはぎょっとした。
だが森人は土の魔法で砂を水のように操り、体を磨く。
布を使い回すより、ずっと清潔である。
手洗い用の水甕が澄んでいるのを見て、家畜小屋から厠へ続く道に魔石が埋め込まれていたことを思い出す。
「あれらは虫除けの魔石だったのか」
「ダラン様が、いろいろ工夫してくださいました」
「臭いを抑える石も欲しいものだな」
マーヤは冗談と思って笑ったが、ナユタナは至って真面目であった。
鼻の利くユトロが、なぜこれを放置しているのか不思議でならない。
「あそこで畑をやっているのが、庭師のティボルさんとヨルンさんです」
厠を済ませた二人は、中庭の畑を眺めていた。
細瓜と赤珠がなっているが、ほとんどが収穫を終えたあとである。
マーヤが声を掛けると、鍬を持つ老人ティボルが手を振って応え、ナユタナに一礼した。
その仕草に気付いたヨルンは、ナユタナを見て飛び上がり、尻もちをついた。
「ヨルンさんは難聴で……どうしたんでしょう。
サモンさんと同じようになってませんか?」
踞って震えているヨルンを、ティボルが困った顔で見ている。
「ヨルンは難聴と言ったか……?」
「はい……あれ?」
ダランに叱られたせいでは、というマーヤの推測は、どうも違うように思えた。
「ガロが餌に寄って来なかったのも、私のせいだったのではないか?」
「馬の様子も、少し変でしたね」
思い返せば家畜たちは皆、ナユタナから距離を取っていた。
──偶然とは、考えにくい。
「ティボルさんとダラン様とあたしは、何ともないみたいです。
このまま従者棟へ向かっても、平気でしょうか……?」
「おそらくユトロの……護符のせいだ。
誰に効いて、誰に効かぬのか、はっきりさせねばなるまい」
おそらく人族の男たちは、ナユタナを見たことで恐怖を植え付けられている。
頭の治癒に使われた魔法が原因であろう。
それに気付いたナユタナは、マーヤとともに屋敷裏の従者棟へ向かった。
「マーヤ、いいところに来てくれたわ!」
従者棟に入ったところで、サーラが慌てた様子で駆け寄ってきた。
湯浴みのときにいた、片足を引きずる娘である。
「これはナユタナ様……ご機嫌いかがでしょうか」
「慌てているようだが、どうしたのだ?」
ナユタナに気付いて律儀に挨拶したサーラは、困ったようにマーヤを見つめた。
「ナユタナ様のお耳には、入れないほうがいいこと?」
「いいえ……その、リーナが熱を出してしまったのです」
サーラがナユタナにもわかるよう丁寧に説明すると、マーヤは眉をひそめ、額に手をやった。
「あたしがお屋敷に移ったから、心細いんだわ。
でも、そろそろ一人に慣れてもらわないと」
「確かにそうなんだけど、熱は朝から出ていたの」
怒りかけたマーヤに、サーラは慌てて続けた。
「マーヤには言わないでって、リーナから言われていたの。
あの子も頑張っているのよ。
でも、お昼を過ぎても熱が下がらなくて、意識もなくて……
ドロナさんが、残っている視力まで失うかもしれないって」
その言葉に、マーヤは目を閉じた。
瞼が微かに震えていた。
やがて顔を上げると、真剣な目でサーラを見つめた。
「サーラはナユタナ様と、お屋敷に戻ってくれる?」
「わかったわ。しばらくお仕事を交代しましょう」
サーラは最初からそのつもりだったらしく、すぐに頷いた。
マーヤはナユタナに深く一礼する。
「申し訳ありませんナユタナ様、そういう訳で──」
「……一度、私に診せてくれないか」
ナユタナはマーヤの袖を掴み、まっすぐな眼差しを向けていた。




