一(第八話)
ナユタナが目を覚ますと、寝台の毛布の中だった。
しばらく天井を眺めてから、ゆっくりと身を起こし、ぼんやりとしたまま室内を見回した。
窓を仰げば、日の高さから昼ごろと知れた。
毛布から出した手には、トルナ酒の陶瓶が握られていた。
酒の味に手を加えていたのだが、疲れてそのまま寝てしまったらしい。
硬くこわばった指を広げ、瓶を寝台の脇に置いた。
体を伸ばしてから寝台を下りる。
昨晩のままの格好で、短くなった髪を確かめた。
床に揃えてあった靴は履かず、裸足のまま板張りの部屋を一周する。
家具や壁を眺め、飾られた花の匂いを嗅いだ。
鏡に掛けられた布をめくると、翡翠の瞳がこちらを見て笑った。
「ナユタナ様、起きていらしたのですね」
振り向くと、女中のマーヤが戸口の前に立っていた。
食事を乗せた給盤を手にしている。
マーヤとともに小卓の前に行くと、そこにも食事が用意されていた。
「これは朝餉に用意していたものです。新しいものに変えますね」
「……片付けてしまうのか?」
椅子によじ登ったナユタナは、その中から食べられそうなものをいくつか移してもらった。
下げられるものが気になり、マーヤを見つめる。
「それはどうするのだ?」
「軽食にしたり、家畜に回します」
「家畜?」
「ガロやリュナクがおります」
ナユタナが見てみたいと言うと、マーヤはあとで案内すると約束した。
卓上に座ろうとしたナユタナを止めたマーヤは、椅子に分厚い敷物を置いて座らせた。
「今朝はびっくりしました」
食事を摘むナユタナに、マーヤは朝の出来事を語る。
朝の支度を手伝おうと部屋に入ったマーヤは、窓際の椅子にユトロが座っているのを見て飛び上がった。
マーヤに気付いたユトロは静かにするよう指で示し、小卓の上で寝ているナユタナを見た。
ナユタナは卓上から手足を放り出し、手に酒瓶を握って眠っていた。
マーヤには、幸せそうな寝顔に見えた。
「ナユタナ様は、太陽の飾り文字のようなお姿で、寝ていらっしゃいました」
マーヤはその寝姿に、王家の紋章にある太陽を思い出したという。
屋敷を出る前に、ひと目顔を見に来たユトロは、ナユタナを酒瓶ごと寝台に運び、そのまま行ってしまったらしい。
「あたしは起こそうと思ったのですが、ユトロ様に……止められてしまって」
ナユタナは頷きながら、パンを乳で流した。
「これは?」
「それはペリカという果実です。
領内で栽培されていて、今朝、厨房に届いたものです」
「ほう……甘みが強く、良い香りの果実だ。
屋敷の外へ行けば、果樹を見られるだろうか」
黄緑色の小さな粒に、ナユタナは夢中になった。
マーヤは言葉を探すように、ナユタナの様子を窺っていた。
「あのう……ユトロ様は、その……ナユタナ様の……旦那様になられるお方、ではないのでしょうか……?」
ペリカを食べ終えたナユタナは、指を舐めてマーヤを見つめる。
マーヤは水の入った桶を差し出し、ナユタナは手を洗った。
「それは違うぞ、マーヤ。
私はユトロの嫁候補であって、今は、試しの関係なのだ」
「では……ナユタナ様はユトロ様を、夫にしたくないと……思っていらっしゃるのですか?」
確かにナユタナは、今のところ嫁になる気はないが、マーヤの質問の意図が掴めない。
ナユタナがきょとんとしていると、マーヤは眉を寄せた。
「今度のお仕事は、ひと月かかるって……その、聞きましたよ?
それなのに、お出かけになるユトロ様に、最後にお見せになったお姿が、卓の上で寝ていたところなんて……」
マーヤは顔を手で覆い、自分のことのように恥じらった。
人族であれば、よほどの失態だったらしい。
マーヤの赤い顔を見て、ナユタナは、どうしたものかと目を瞬かせた。
「た……たったひと月ではないか。
もちろん、あの人が無事に帰って来ることは願うが──」
ナユタナは濡れた手を払い、椅子から飛び降りて寝台へ行く。
そしてトルナ酒の瓶を取り、マーヤのもとに戻ると、小皿に少し垂らした。
「ユトロの無事の帰りを願おう!」
小皿を掲げたナユタナは、そう言って酒を呷った。
「ほらな」
得意げに胸を張ったナユタナを、マーヤは複雑な顔で見つめていた。
「あたしが言わなければ、それ……やりませんでしたよね?」
「……そんなことはない」
それは酒に願いを込めて祈る、森人のまじないであった。
昼間に酒を飲む理由として、よく使われる方便でもある。
ナユタナが食事を済ませると、マーヤは服を選んでほしいと、廊下からいくつか箱を運び入れた。
廊下の壁には箱が山のように積まれている。
ナユタナが寝ていたため、朝から領内の服屋が運んできたそれを選別できずにいた。
「私はひとりしかいないはずだが……」
廊下に出たナユタナは、箱の多さに目を丸くした。
「ユトロ様は、女性のお召し物がいくらするのかがわからず、たくさんのお金を渡したと聞きました」
ナユタナはマーヤと一緒に箱の中身を確認し、着る服と着ない服に分ける作業を行う。
試着はしないのかとマーヤは尋ねたが、すべて着たら日が暮れてしまうとナユタナはぼやく。
廊下の箱は次々と分けられ、多くの品が部屋の外に積まれた。
「これだけでよろしいのですか?」
「動きやすそうなこれらで十分だ。
これでも多いと思うが、マーヤの服はもっと多いのか?」
「いえ。確かに、これだけあれば十分ですね」
空になった箱は、残りの服とともに服屋に返すという。
屋敷の者で、誰かその服を使わないのだろうかとナユタナは考えたが、マーヤは一瞬言い淀み、それから首を横に振った。
「リーナにやったらよかろう。マーヤもどうだ?」
「ナユタナ様、これはユトロ様からの贈り物ですよ?
なぜ、あたしたちが頂くのですか」
「マーヤは楽しそうに箱を開けていたではないか」
「でもこれは、見本のお品です。
お店にお返ししなくてはなりません」
マーヤが断る理由がわからず、ナユタナは箱の中身を吟味し、細かい編み物の肩掛けと、花弁のように柔らかな長衣を取り出して、彼女に渡した。
「服屋もこんなに返されては困るのではないか?
そうであろう、ダラン」
マーヤが振り向くと、いつからいたのか、黒衣の執事が立っていた。
驚いたマーヤは、受け取った服を咄嗟に差し出す。
「いえ、こちらはまだ精算が終わっておりません。
先に金を出し、見合った服を用意させ、そこから選び、残りを返して差額を戻してもらう──そういう取引なのでございます。
買わない品は、未成約品として店は再び売りに出せますので、何も問題ございません」
淡々としたダランの説明に、ナユタナはぎょっとする。
既に金と交換した品ではなかったらしい。
マーヤに渡した服を見つめる。
「ですが、ここにある品がすべてナユタナ様のものであることも事実。
ナユタナ様がご自身の所持品をどう扱われるかは、自由でございます」
ダランは一度視線をずらし、声の調子を落とした。
「お前はそれを頂いたのだ。
礼を言って、きちんと持ち帰るように」
マーヤは頭を深く下げてナユタナに礼を言い、隣の小部屋に慌てて服を置きに行く。
ナユタナは状況を測りかねていた。
だが、場の空気が静まったのを見て、ダランが何かを収めたのだと気付く。
「面倒なことを言っただろうか……」
「滅相もございません。他にご入用の品はございますか?」
少し気が引けたが、ナユタナにはどうしても欲しい物があった。
「紙と書くものが欲しい。紙はたくさんだ」
「お手紙でございましょうか」
「記録をするのだ。質は悪くて構わない」
快く注文を受けたダランは、去り際に小さな笛をナユタナに渡した。
迷子になった時の笛をユトロが渡すと言っていたのを思い出し、ナユタナは眉を寄せる。
「それは、私めの耳にのみ届く特別な笛でございます。
困ったときにはぜひお使いください」
迷子用ではないとわかり、ナユタナは有り難く受け取った。
体を拭き、薬を塗って着替えると、日はすっかり傾いていた。
「このお薬、すごいですね。頭のかぶれがすっかり治っています」
「本当か? 昨晩はじくじくしていたはずだが」
薬はマーヤに作らせたので、効能をいじる術は使っていない。
一番酷かった頭の傷だけ、きれいに治るのはおかしいと思った。
ナユタナは、虫刺されの跡を鏡で確認する。
髪の隙間を訝しげに覗くと、微かな魔法の気配が漂っていた。
そっと髪をかき分けたナユタナは、かぶれていた皮膚を見た。
マーヤの言うように、確かにかぶれはきれいに消えていた。
違和感を覚え、指先に魔力を練り、滲ませる。
土属性の“染み込む力”を宿した術を指に乗せ、頭に残る魔法に触れたナユタナは、注意深くその指先を見つめた。
森人族とは異なる種族の力、そして“介”の属性が混じっている──
その瞬間、肌がぞくぞくと粟立ち、体が勝手に震え出した。
突如として恐怖に包まれたナユタナは、その場にへたり込み、指先の魔力を散らした。
「ど、どうされましたか?」
「いや……何でもない。少し、寒くなっただけだ……」
ナユタナはその独特の恐怖に、覚えがあった。
喉の奥がひゅっと鳴る。
──ユトロだ。
人狼が癒しの術を使うとは知らなかったが、それでも、あの男の魔法なのだろう。
拭っても取れず、ナユタナはため息を吐く。
気を取り直したナユタナは、ダランに貰った笛を紐に通して首に下げ、胸元にしまった。
腰に碧晶の短剣を差し、薄藍の袖を広げ、身動きを確かめる。
足の裏の汚れを払い、脚衣の広い裾を革靴で押さえるように履き、紐で括った。
残りの服は衣装棚へしまわれ、箱はすべて廊下に出された。
後に来るという服屋が、空いた箱を確認して精算をするという。




