七(第七話)
フォルトナの屋敷へ戻る道中、ユトロはナユタナに言った。
「もう畏まる必要はない。森人らしくしてくれ」
メルグリスが彼女に礼儀作法を強いたのは、競売が済むまで人族のふりをさせるためであった。
ナユタナの態度や口調は、幼い子供のそれとは異なる。
見物に来る貴族に疑われぬよう、口数を減らし、おとなしくしているよう命じられていたのだ。
「俺の名に“様”もいらん。俺はおぬしの主人ではないからな」
その一言で、二人のあいだにあった隔たりが消えた。
すでに首輪は壊されていたが、ナユタナはようやく心の枷まで外れた気がした。
明日からユトロは屋敷を離れるという。
「ナユタナには、女中を付けよう。
人族の住処では、いろいろ不便であろうからな。
外へ出るときは、必ずダランを連れて行くのだぞ。
再び攫われては困る」
ナユタナは少し窮屈に思いながらも承知した。
「領内は広い。迷子にならんようにな。
万が一のために、笛を持たせよう」
子どもではないのだが……と口にしかけて、ナユタナは呑み込んだ。
「人族の前で魔法は使うなよ? 女中の前でもだ。
使うなら、気付かれぬよう工夫するのだ」
ユトロの小言は続く。
「それから、井戸や厠には落ちぬようにな。
厠は特に滑る。女中に手伝わせろ。
喉が渇いても、決して自分で汲もうとするな。
おぬしは小さいのだ。女中の傍を離れてはならん──」
ナユタナが目を細めるも、男の口は止まらぬ。
「──ああ、それと。夜は冷える。腹を出して寝るなよ。
寝るときは必ず寝台を使うのだぞ。
棚の中や机の上で寝てはならん。
風邪を引かぬよう、毛布はしっかりかけるのだぞ」
明日から遠い地に行くため、心配が尽きぬようである。
気遣いの多さに、呆れを通り越したナユタナは、口元に笑みを浮かべていた。
「なぁ、ユトロよ。なぜ魔法は駄目なのだ?」
「人族の地に暮らす異種族は少ない。
それゆえ、詠唱のない魔法は異質で目立つのだ。
便利な術であるとわかれば、利用しようとする者が、必ず現れる」
「ふむ……なら、気をつけよう」
魔法の欠かさぬ生活を送ってきたナユタナは、ため息を漏らす。
ユトロが女中を寄越すのも、些細な魔法すら使わせまいとしているのだろう。
「そう気を落とすな。
俺が戻るまでの間だけ、注意すればよい。
必要なものがあれば、ダランに用意させよう。
欲しいものは、買い与えるよう伝えておく」
明日からの暮らしに思いを巡らせ、ナユタナは必要なものを思い浮かべる。
ユトロに貸しを作るのは気が引けるが、頼む相手がダランなら、遠慮せずともよかろう。
そう思い、ユトロのもてなしを有り難く受けることにした。
ユトロの背に揺られながら、ナユタナは夜空を見渡した。
行き道は周囲へ目を向けるゆとりなどなかったが、今は気兼ねなく眺めることができた。
荒野は影のように遠ざかり、草原は月明かりに淡く照らされて流れていた。
遠く沈む森の黒は、深い水に溶ける影のようで、不穏さを帯びながらも静かにこちらを窺っていた。
ユトロの守りの術により、風はほとんどなく、景色だけがゆるやかに移り変わる。
夢の中を駆け抜けるようで、ナユタナの胸は高鳴った。
「ダランは……ユトロが倒した赤竜なのか?」
「どうだかな。本人に聞くといい」
ナユタナは、血吸虫を潰したダランの尻尾を思い出す。
尻尾のある種族は限られている。
ゆえに、ダランが竜族の可能性は高い。
人族がいないところでなら、彼は尻尾を見せてくれるだろうか。
領主の娘を救い、竜を討ったことでユトロは英雄とされた。
だがダランの赤い尻尾や妙な言動を思い返すと、彼こそその竜なのではないか。そんな考えが頭をよぎる。
もちろん、討たれたというのなら矛盾する。
だが、そうだとしたらと思うだけで、ナユタナの胸は弾んだ。
屋敷に竜族がいるのなら、これは面白い。
異種族に紛れて暮らす竜など聞いたことがなく、期待があふれてナユタナは体を揺らした。
「“冒険者”というものになれば、仕事をもらえるのか?」
「うむ……ギルドか。おぬしは危ういからな。
それは、俺の仕事を終えてからでいいだろうか」
ナユタナが身を乗り出すと、ユトロは体を傾けた。
「あのチャリチャリを手にする方法は、他にないのか?
私はダランに、白金貨を返さねばならんのだ」
「なぜナユタナが奴に返す」
「私を買うために、ダランの大事な宝を借りたのであろう?」
ナユタナが奴隷商で習ったのは、金貨までだった。
それゆえ白金貨の価値を、正しく量ることができぬ。
ユトロが戻るまでにいくらか返せるのではと、ナユタナは思案する。
「あの白金貨は、奴が俺からくすねた金だぞ?」
「ダランがユトロから奪ったなら、それはもうダランの物であろう」
ダランが酷く怒っていたことを、ナユタナは思い出す。
竜が宝を大事にする話は詩曲にも多く、森人でも知っていることだ。
奪うことはあれど、奪われることは許さぬ。
傲慢とは異なる、種族の習性である。
巣で宝を守るのが竜族なのだと、ナユタナは聞き及んでいた。
「ユトロにも、ちゃんと返すぞ」
「その必要はない。ダランにもだ」
不機嫌そうなその声に、ユトロはダランの次ではならぬのだろうかと、ナユタナはまた悩んだ。
「なら、金ではなく、ユトロの望みを叶えるのはどうだ?」
「ほう。ならば──」
「私は商品ではないと、あなたは言ったぞ。
特技をたくさん見せるから、そこから選んでくれ」
ユトロが「嫁」と言う前に、ナユタナはぴしゃりと防ぐ。
自分の特技が役立つと分かれば、ユトロは次の冒険へ連れて行こうと考えるだろう。
絶好の機会だと、ナユタナは意気込んだ。
「おぬしはよく喋るな、ナユタナ。
おとなしい娘かと思っていたぞ」
嬉しそうに笑うユトロに、ナユタナはほっとした。
どうやら交渉は、うまくいったらしい。
「人族の礼儀作法は面倒であった……あなたが怖かったせいでもある。
森人は繊細なのだ。怒鳴ると倒れてしまうぞ」
大きな物音で気絶する仲間たちを思い出し、ナユタナは楽しげに笑った。
「嘘ではないぞ、本当なのだ。
おお、また流れ星。
近くに雷が落ちれば、皆いっせいに、ひっくり返るのだ。
あの黒いのは、夜鳥であろうか。
自分のくしゃみで、ひっくり返ることもある」
夜空を見上げて話すナユタナは、ユトロの背中が僅かに震えるのを感じた。
「どうした?」
「うむ……目も口も忙しないと思ってな」
肩が落ち着きなく揺れ、耳はほの赤い。
どうにか笑いを抑えているように見えた。
「風のように走るのは、気持ちがよいのだな。お喋りにもなろう」
「仕事を終えたら、ナユタナの望む場所へ連れて行ってやる」
「本当か?! “酒のお前に誓って”約束だぞ?」
「ああ。もてなしの酒に誓おう」
森人族にとって、酒は命と等しく大切である。
“酒のお前に誓う”とは、決して破ってはならぬ約束を意味した。
これ以上にない、絶対の言葉である。
ユトロは森人の流儀に倣い、ナユタナに用意する酒に誓うと答えた。
△ ☽ △
屋敷に戻ったナユタナには、部屋が与えられた。
橙の灯が、壁に揺れている。
花が飾られ、ほのかな香りが漂い、清潔な部屋に見えた。
天蓋付きの大きな寝台もあり、羽を詰めた温かく軽い布団が乗っている。
客室だったというその二階の広い部屋を、ナユタナは好きに使っていいと言われた。
家具を動かすのも、新たに入れ替えるのも自由だという。
背丈に合わせて、使用人が調整もしてくれるそうだ。
「ナユタナ様にとって、住みよい部屋となるよう尽力致しましょう」
ダランによる、花嫁候補へのもてなしだった。
ナユタナが最も喜んだのは、窓際の小卓だ。
そこには軽食が用意されていた。
木の実のパンと、トルナ酒だった。
夕餉を残していたナユタナを気遣い、女中が置いてくれたものだ。
湯浴みを手伝った、顔に火傷痕をもつ娘マーヤの心遣いだった。
「隣におりますので、いつでもお呼びくださいね、ナユタナ様」
マーヤは呼び鈴を寝台脇に置こうとしたが、思い直してナユタナに直接手渡した。
小さなナユタナには位置が高いと思ったからだ。
火傷痕のある顔を伏せつつ、マーヤは控えの小部屋へと入ってゆく。
ユトロは明日の準備をすると自室へ去り、ダランも後に続いた。
寝台横の灯掛けに、橙の灯が吊るされ、静かに揺れている。
部屋に一人残されたナユタナは、壁際の椅子によじ登り、小卓の上に腰を下ろした。
靴を脱ぎ、短剣を外して窓の前に並べる。
それから脚を組んだ。
器に酒をほんの少し垂らし、ちぎったパンを口に運んだ。
ほぅと息をつき、器を舐めた。
ひと月半ぶりの酒が喉を温め、体の奥にじんわりと広がってゆく。
ほんの僅かを舐めつつ、窓の外に見える山の影を眺める。
ナユタナは鋼山の頂上から見た大樹海を思い出す。
遠くに来てしまったと思ったが、ユトロの足では目と鼻の先だった。
「あんなに速いとはな」
行きは恐ろしかったが、帰りの道は愉快だった。
男の足の速さを思い出すと、胸が熱くなる。
おそらくユトロは、“風の如く走る者”の血を継いでいる。
ナユタナは森の『残響の碑』で見たウルラの子供たちを思い返す。
森域を出なければ、会うこともなかっただろう。
今も残る、八つの種族──
緑育む者
風の如く走る者
気高く壊す者
作り鍛える者
天高く眺める者
漂い奏でる者
ゆらめき留まる者
そして、儚く多き者。
何も与えられなかった存在、“儚く多き者”は人族だ。
屋敷の女中や使用人の男たち、奴隷商メルグリスの顔が思い出される。
蛇のような冷たい瞳と赤い尻尾をもつダランは、おそらく“気高く壊す者”であろう。
そして混血であるユトロの半分、“風の如く走る者”。
人と狼、二つの姿をもつ種族だ。
鼻が利き、爪を自在に伸ばす──まさに獣の特徴だろう。
「風魔法をあれほど巧みに操るとはな……」
ナユタナは八つの中の三つの種族とこの地で出会った。
それは驚くべきことだった。
物語のような冒険に焦がれていたが、今まさに自分はその冒険をしているのだと思えた。
「私は、本物の冒険をしていたのか……」
森域のほんの少し外側で狩りをするのがやっとだった。
臆病な森人の冒険は、その程度のもの。
それが今や、小さな跳獣に蹴られて転び、気を失ったと思えば、いつのまにか広い世界に来てしまった。
「思い描いていたものとは、少し違っているが……」
それでも口元は自然と緩む。
「いいや、まだこれからだ」
能力を認められ、大冒険について行く日も近いだろう。
期待を膨らませたナユタナは、にこやかになった。
酒を舐め、思いを巡らせながらうとうとと舟を漕ぐ。
淡い月明かりに包まれながら、ナユタナは静かな眠りへと沈んでいった。
第一夜・完




