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六(第六話)



 ユトロは軽快に岩を蹴り上がる。

 しがみつくナユタナの視界から、暗い岩肌の景色はあっという間に途切れ、ぱっと開けた空が飛び込んできた。


 冷たい風が頬を打ち、吐く息が微かに白く揺れた。

 ナユタナは顔を上げる。


 頭上には、澄み渡る夜空に数多の星が瞬いていた。

 痩せた月の光が、雲をわずかに染めている。

 足もとには削り立つ岩肌が幾重にも折り重なり、その遥か下では、低い雲がゆっくりと流れていた。


 いつしか山の頂に立っていた。

 ユトロの背から降ろされ、ナユタナは岩の上に腰を下ろす。

 駆け上がったはずの男は、まるで散歩の途中でもあるかのように、息一つ乱さず立っていた。


 屋敷を出てから一足飛びに駆け抜け、常人にはあり得ぬ速さでここへ辿り着いたこと。

 そしてメルグリスの話。

 ナユタナの頭は追いつけず、ただ混乱に囚われていた。


 風除けの術が解け、山頂の冷たい風が髪をふわりと揺らす。

 頬をかすめる風に、ナユタナは思わず身をすくめた。

 ユトロはそっと前にかがみ、彼女の髪がすっかり乾いているのを確かめる。


「俺はメルグリスから、競売に参加し、ナユタナを落札するよう頼まれていた。

 そして競売場で……お前を見て、嫁にしたいと思った」


 紺青の空に、痩せた月がかかっていた。

 色を失いかけたその光が、男の瞳をかすかに照らす。

 ナユタナはぽかんとしたまま、ユトロの目から視線を離せずにいた。


 今のナユタナには、ユトロの正体がおおよそ見えていた。

 だからこそ、男から漂う異質な気配を正しく掴むことができる。

 恐怖はあれど、この大男を真っ直ぐに見据えることができた。


 癖のある黒髪、浅黒い肌。

 瞳は月の光を受けて金色に輝いている。


「……それであなたは、私を買ったと言うのですか?」


 長い説明を聞いても、ナユタナには一番肝心なことが腑に落ちなかった。


「ナユタナは商品ではないと、わかっている。

 だがメルグリスには、落札額をきっちり支払った。

 それは俺の誠意だと思ってほしい」


 本来なら、報酬を受け取るのは頼みを受けたユトロのはずだ。

 となれば、依頼の筋はどこで折れたのか。

 また、“誠意”とは何を指すのか──ユトロがその言葉を正しく扱っているとは思えなかった。


「私を大樹海へ送り届けるところまでが、依頼なのでは……?」

「うむ、そうなのだが……」


 歯切れの悪い答えに、ナユタナは胸騒ぎを覚える。

 やはり、ユトロは大樹海へ返す気などない。

 私を、嫁にするつもりなのだ。


「なぜ、私なのです?

 私は小さな森人で、あなたの相手には不釣り合いです。

 この体で、大きな人の子を産むのは難しい」


「子が欲しいのではない。

 俺のそばで、共に生きてほしいのだ」


 ユトロの眼差しは真っ直ぐで、言葉には迷いがない。

 その真剣さがかえって恐ろしかった。

 男の目には呑み込むような渇望が潜んでおり、ナユタナは思わず身を強ばらせる。


 けれど、今日会ったばかりの異種族の大男に、そんなことを言われて納得できるはずがなかった。


「なぜ、私にこだわるのですか」

「もちろん、理由はある」


 ユトロの表情が険しくなり、ナユタナは思わず息を呑む。

 だが次の瞬間に口にした言葉は、あまりに突拍子もなく、恐怖はたちまち呆れへと変わった。


「お前から、『番のにおい』がするのだ」


 その目を、ナユタナはただ見返すしかない。


 “番のにおい”とは……何だ?


 ナユタナは目を瞬かせる。


 動物の雄が、雌のにおいに誘われる類のことだろうか……


 自分の腕を鼻に当て、においを確かめた。

 新しい衣の染料と、体に塗った薬草の香りがするだけだ。


 ユトロの鼻だけが、感じ取れるものなのだろう。

 種族の特性かもしれぬ。


 ナユタナは男を興味深げに眺める。


「それは、どんな“におい”なのですか?」

「“運命の人”にしかわからん。

 他の誰からもしたことのない、良い香りだ」


 真面目に考えていたナユタナは、その言葉に疑わしさを覚えた。


「運命……? 私はそのようなにおいを、ユトロ様から感じませんが」

「それはナユタナの鼻が、俺より劣っているからだな」


 ナユタナの頬が、ぴくりと引きつる。


「もう十年以上だ……孤独な探し物であった」


 ユトロは遠くを見るような目で、語り始める。


 成人と同時に強い孤独感に見舞われたユトロは、嫁を探さねばならぬと悟ったという。


 そして、出会う娘すべてに声をかけた。

 しかしうまくゆかぬ。

 そこで男は、誰でもいいわけではないのだと考えた。


「嫁にふさわしい者の基準はどこにあるのかと思ってな。

 偶然にもその時、手本を見つけたのだ」


 運良く目にした手本に習い、ユトロは“におい”を探すようになった。


「町の娘、冒険者、娼館……思いつく限りは探した。

 だが見つからぬ。十年以上、ずっとだ」


 男の声が沈む。


「大抵の女は俺を見て恐怖に震え、会話もままならん。

 そうでなくともにおいを嗅げば、嫌がられるのだ。

 “運命の人”を探す旅は、実に苦難の道であった」


 その歩みを聞かされたナユタナは、気になったことをさらに質した。


「手本に“におい”のことが、書かれていたのですか?」

「そうだ。『運命の人は香しいにおいがする』と、書いてあった」


「……それは、誰の書いた、何という本です?」

「何といったか……このくらいの大きさの、赤い本だったな」


 ユトロは指で四角を作ってみせた。


「内容は、どのようなものです? どこでそれを?」

「うむ。人族の男女が夫婦になる話であった」


 ナユタナは眉を寄せる。


「女中が寄越したのだ。

 俺の探し物は私ではない、と言われた。

 嫁いで屋敷を去った娘でな。今はもうおらん」


 気まずさを覚えたユトロは視線を逸らし、ナユタナは薄く目を開けて男を見つめた。


 「運命」という言葉を、ナユタナは耳にしたことがある。

 それは精麗族が好む、詩的で日常的な言葉だ。

 彼らの愛の歌には頻繁に登場し、日常の中でも使われる。


 互いに惹かれ合い、結ばれる者の間にあるとされる、目に見えぬが絶対の感覚──そう聞いている。


 精麗族の恋人たちは互いを「運命の人」と呼び合う。

 さらに彼らは多重恋愛を好み、複数の恋人それぞれに「運命」を感じている。

 別れることがあっても、それもまた「運命」なのだという。


 ゆえにナユタナは、運命を『夢の如き在って無きもの』と見なした。


 ユトロが読んだのは、恋慕譚のような、ただの娯楽本にすぎまい。

 しかしなぜそれを、男は信じてしまったのだろうか……


 ナユタナは細めた目でユトロを見つめ、顎に手をやった。


「その本の内容が、どうして正しいと?」


「うむ、最初は俺も作り話だと思っていたぞ。

 だがな、一夜を……その、嫁にならんかと声をかけるとな、娘たちは確かに言うのだ。

 俺は運命の人ではない、と。香りがせんと言う者もいた。

 それで俺も、あれは本当なのかもしれぬと考えた」


 恐ろしさに、皆、そう断るしかなかったのだろう──

 ナユタナはユトロを少し気の毒に思った。


「だが今日、ついにナユタナを見つけた」


 笑顔の男を前に、どうしたものかとナユタナは頭を悩ませる。


 ユトロの嗅覚を疑うつもりはない。

 おそらく森人特有のにおいがあり、それを特別なものと勘違いしているのだ。


「その“におい”は、私以外の森人からも、するのではないでしょうか」

「それはない。ナユタナ以外の森人も、俺は嗅いだことがあるぞ」

「……私以外の森人と、会ったことがあるのですか?」

「ああ、森人の小さな集落があった。

 俺が昔暮らしていた、山里の近くにな」


 大樹海の外に住む同族の存在を、ナユタナは初めて知った。

 彼女の暮らす森域が森人族のすべてと思っていたため、思わぬ話に面を食らう。

 自分の世界がとても小さかったことに改めて気付かされ、探求の先はより広大であると知る。


 目を丸くしているナユタナに、ユトロはするりと近付く。


 髪の生え際から耳の後ろ、首筋へと鼻を寄せ、さらに脇、腹へと移ってゆく。

 腿の内側へ顔を寄せかけた、その瞬間──

 ナユタナははっとなり、両手で男を押し返した。


「……な、なんだ?!」

「ふむ。やはりこの香りは、ナユタナだけのものだ」


 ユトロは得意げに胸を張る。


「特別な香りを持つナユタナこそ、俺の運命の人だ」


 長い旅の果て、ついに宝を見つけた少年のように、ユトロの瞳は輝いていた。


 ナユタナは服の裾をぎゅっと握りしめ、胸の奥の不穏を抑えようと俯く。

 男の信念を覆す術は、今の彼女にはない。


 その拒む様子に、ユトロは小さくため息をつき──

 それから、子をあやすような穏やかな目で笑った。


「あまり思いつめるな。無理強いするつもりはない。

 顔を上げて、あれを見ろ、ナユタナ」


 ふっと顔を上げたナユタナの視界に、夜空は限りなく優しく広がっていた。


 星々は歌うようにきらめき、雲間からのぞく細い月が、大地を包み込むようにそっと照らしている。


「お前の目には暗くて見えにくいかもしれぬが、下に広がるものが何か、わかるだろう」


 ユトロはナユタナの目に合わせて屈み、空より低い方角を指差す。

 低い雲の切れ間から覗く大地には、黒い影が海のようにうねり、広がっていた。


 月明かりに照らされ、それが大樹海であることをナユタナは知る。

 木々のざわめきが夜風に乗り、そっと耳をくすぐる。


 思わず立ち上がったナユタナは、喉を鳴らすばかりで、言葉が出なかった。

 目頭が熱くなり、鼻の奥がつんと痛んだ。


「メルグリスの依頼は果たした。

 その上で、俺はお前に提案している。

 つまりナユタナ……お前は、自分の意思で決められるのだ」


 ユトロが「嫁に欲しい」と言い出した折、メルグリスは干渉を避け、当人たちで話し合うよう促した。

 ナユタナが誰と夫婦になろうと、それは奴隷商の問題ではない。

 ただし、彼女が無事であることだけは、必ず部族に伝えてほしいと付け加えた。


「お前が望むなら、俺はすぐにでも森へ帰そう」


 ユトロの言葉は字義通りであった。

 ナユタナは胸に手を当てた。


 いま願いさえすれば、抱えられ、一瞬にして森へ帰れる。


 帰って来たナユタナを、仲間たちはいつものように宴に誘うだろう。

 攫われていたことなど、誰も気付きはしない。

 狩りから戻ってきたと思い、獲物を捕まえられなかったのかと、笑ってくれる。

 そして、痩月の優しい光に、ミルナの杯を交わすのだ。


 けれども、それで本当に満足だろうか。


 ナユタナは、新しい革靴へ目を落とした。


 思いがけず人族の地へ足を踏み入れてしまったが、こんなにもあっけなく去って、それでいいのだろうか。


 まだ、何も見ていないのに……?


「なら──」


「ま、まぁ待て。焦らずともよい。

 決断を急ぐ必要はあるまい。

 すぐに帰れるのは確かだが、もう少し、話を聞いてほしい」


 ナユタナの顔に希望の色が浮かぶと、ユトロは慌てて言葉を継いだ。


「その……もし俺に少しでも恩義を感じてくれるならば、しばらくそばにいてほしいのだ。

 お前にとって良き夫になれるよう、努力するつもりだ。

 だから返事は、すぐにせずともよい。

 ……お前はずっと、断る顔をしているからな」


 返事を口にしかけていたナユタナは、今一度考え直した。

 目を細め、ユトロへの恩義を思い返す。


 ここに至るまで自分を支えてくれたのは、メルグリスであった。

 彼には深い恩義を覚えた。


 では、ユトロはどうか。

 支払った金を誠意と言うが、それはただ、引き留めるための手立てにすぎぬのではないか……


 ナユタナは深く息を吐く。

 それから真っ直ぐに、ユトロを見つめる。


「……誓ってくださいますか?」


 ユトロは悪い人ではない。

 それゆえ、領主や女の口に、容易に騙される。


「私が望めば、いつでも森に帰すと」


「……ああ。もちろんだ」


 ユトロはナユタナの前に屈み、固く約束した。

 ナユタナはユトロを信じ、男の提案を受け入れることにした。



 △ ☽ △



「ユトロ様は、人族ではありませんよね」


 約束を交わした二人は山頂で月を仰いでいた。

 冷えてきた体を擦るナユタナを、ユトロは風の魔法で包む。


「半分は人族だ」


 そうなのだろう。

 ナユタナは頷く。


 ユトロの正体が掴めなかったのは、男が混血だったからだ。


「では、もう半分は?」


「おぬしはいちいち種族を気にするのか?

 森人で小さいから、俺の番にはなれぬと?」


 眉を寄せるユトロを見て、ナユタナは思わず笑みをこぼした。


 恐怖よりも安堵が胸を満たしていた。


 今このひとときだけは、彼女にとってこの男は、

 “ただ畏れるだけの相手”ではなくなっていた。



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