五(第五話)
コンヌビア地方に行くと聞いてから、ナユタナの目に映るユトロの姿は、どこか違って見えるようになった。
ふんぞり返ったおっかない男が、危険に立ち向かう勇敢な者に見えてきた。
恐ろしい気配を纏ってはいるが、つまるところそれは、“頼もしい”ということなのかもしれない。
土地の長がユトロを留めておきたがる気持ちも、少しだけ、ナユタナには分かった。
「まだ眠くはないな?」
食事を終えたナユタナは、ユトロに連れられて外に出ていた。
中庭とは違い、屋敷の正面の庭には、色とりどりの花が植えられていた。
虫の声と甘い香りが、夜風に混じる。
「忙しくなる前に、きちんと話をしておきたいのだが……
そうだな、髪を乾かしに行こう」
屈んだユトロが、短くなったナユタナの髪に触れた。
まだ、湿り気が残っている。
そのまま後ろを向き、大きな背中を差し出す。
意図が掴めず、ナユタナはただ静かに見つめていた。
「早く乗れ」
灯りのない庭で、ユトロの目がぎらりと光った。
ナユタナは身をすくめ、恐る恐る背中によじ登った。
「危なければ、俺の髪を掴んでいい」
首の後ろに少し伸びた黒髪は、掴めば痛そうだ。
伸ばしかけた手を、そっと引っ込めた。
「……いえ」
「そうか? だがきっと、お前は掴むぞ」
得意げな声に、ナユタナは眉を寄せた。
「それで、今から私たちは、どこへ……?」
「鋼山へ行く」
「鋼山とは……ここより南に見える、あの山のこと……ですか?」
「そうだ。そのてっぺんに行くぞ」
今から鋼山へ登るというのは、にわかには信じがたい。
ナユタナは思わず首をひねる。
荷馬車の檻の中で岩山を迂回してきた彼女は、町と山との距離を記憶していた。
自力で集落へ戻ることを考えていたからだ。
麓の町までは半日かかる。
岩だらけのあの山肌を登るなら、一日ではすまぬだろう。
「鋼山を、“見に”行くのですか……?」
ナユタナがそう問うと、ユトロはふっと笑い──跳んだ。
一瞬で夜空へ舞い上がり、ナユタナは目を見開いて息を止める。
後ろには、屋敷の灯が小さく見えた。
空と地の境が溶け、夜の闇がひと続きになった。
足の裏から力が抜け、風のうなりが耳を打つ。
内臓が引き上げられるように浮き、全身から血の気が引く。
危機を悟った刹那──
「ひっ……!」
ナユタナは、とっさにユトロの髪を掴んだ。
「わかったな? 山のてっぺんに行くぞ」
闇の町の石畳に、乾いた音を立てて着地。
再び跳べば、黒々とした畑のあぜ道。
土の匂いが鼻をかすめ、三度目には、町の境界を越えていた。
後ろに、フォルトナの石塀が影のように見えた。
箱型の見張り台に、人の姿は見えない。
月光を避けているのだろうか……
ナユタナは、急いで戸を閉めた使用人たちの姿を思い出す。
「奴隷商の男のことだが」
疾走の最中、風を裂くように放たれたユトロの言葉が、奇妙なほど澄んで耳に届いた。
ナユタナは背中に身をかがめ、ただその声を聞く。
尋常ならざる速さの中で、男の言葉だけが静寂のように浮かび上がる。
「ナユタナは快く思ってないかもしれぬが……
俺は、奴に頼まれて、お前を買ったのだ」
ナユタナの指が、ユトロの髪をぎゅっと握りしめた。
胸の奥に、澱のような濁りがざわりと立つ。
だがすぐに、彼女は目を瞬いた。
──頼まれて……買った……?
「メルグリスはナユタナに、『お前は森人か』と、尋ねていたのではないか?」
毎日同じ問いを、奴隷商はナユタナに投げかけた。
「森人ではないのか?」
──囲い部屋の戸の向こうから、低く重たい声で。
ナユタナはユトロに、大樹海から来たことを、最初から告げていた。
ユトロは彼女に名を名乗り、身分を明かしていたからだ。
しかしメルグリスは、盗賊から買い取るや否や、質問ばかりを繰り返した。
ゆえにナユタナは、断固として答えなかった。
答えぬことこそ答えになると、ナユタナは思い込んでいたが、メルグリスはただ、ため息をつくだけであった。
「『そうだ』と答えていれば、奴はもっと早くに、お前を大樹海へ帰したはずだった。
俺を雇って、種族の元へ送り届けるつもりであったらしいからな」
「な……なんだと?!」
ナユタナは素っ頓狂な声で返す。
初めて聞く彼女の大きな声に、ユトロは笑った。
「あの男は、首輪を外してはくれなかった。
信用するわけがなかろう……!」
最初に首輪を外してくれていれば、警戒などせずに話せただろう。
ユトロへの信頼も、思い返せばそこから始まっていた。
もちろんナユタナは、それが独りよがりな考えだと自覚している。
だがそれだけで、メルグリスへの疑念までは拭い去れなかった。
「奴は魔法を恐れていたのだ。
それゆえ、首輪は容易に外せぬ。
人族のほとんどは、魔法が使えぬのだ。
対処の仕方すら知らん」
「私は魔法で、攻撃なんてしない」
「それをどう信じろと言う。
わからぬことほど、恐怖はなかろう」
首輪を外せば殺される──
人族がそう考えるのであれば、あの仕打ちも当然なのだろうか……
森人の魔法は、生活に根ざしたものだ。
狩りに使う魔法、虫を払う魔法、魔物を除ける魔法はあるが、それを人に向けることはない。
そもそも、森人には争いの習慣がなかった。
もっとも、交流のない他の種族が、それを知るはずもない。
ナユタナは考えを改めようと試みた。
だが、あの仕打ちを、魔法への恐れだけでは片づけられまい。
ユトロの言葉に、ナユタナは頷けなかった。
「朝晩の食事は与えられただろう。
湯浴みも許されていたはずだ。
ナユタナの体は、臭くはなかったからな」
競売場の台に立たされていたナユタナは、薄汚れてはいたが、不潔な臭いはしていなかった。
「あの貧相な姿は、メルグリスなりの工夫であろう。
森人と聞きつけて集まった他領の貴族どもが、迂闊に手を出さぬようにしたのだ。
粗末に扱われていれば、誰も高価な品とは思わん」
ナユタナの脳裏に、奴隷商での日々がよみがえった。
裸同然で連れて来られた彼女を、店の女は洗い清め、服と靴を与えた。
髪は固まってどうにもならなかったが、体は清潔に保たれ、朝昼晩の食事と、甘い菓子は、欠かされなかった。
本は読めるか、文字は書けるかと尋ねられ、何も知らぬふりをして、人族の礼儀作法や、貨幣についてを学んだ。
隙間のない部屋には、大きすぎる毛布があり、香を焚いてくれることもあった。
その香りは、心を落ち着かせる類のものだった。
最初のうちは、穏やかでさえあったのだ。
だがある日を境に──
言葉遣いを改めよと命じられ、狭い部屋に閉じ込められた。
競売の前には、服をぼろに替えられ、靴を奪われ、顔や体に泥を塗られた。
急な変化に打ちのめされ、胸の奥に、不快と悲しみが積もっていった。
それでもユトロは、メルグリスを擁護するかのように語った。
あの仕打ちをまるで、「お前を守るためだ」と言うかのように。
「ナユタナは、知らんのだろう。
他領で奴隷が、どう扱われているのかを。
女は慰み者にされ、男は死ぬまで、劣悪な環境で働かされる。
そんなものは、奴隷にとって当たり前だ」
やがて、闇に沈む草原を抜けると、荒野が広がった。
その先に、町明かりがかすかに見えた。
ナユタナは、その町を覚えていた。
身につけていたすべてを、奪われた場所だ。
「あそこに見えるのは、バルグリム領のリグナムという鉱山町だ。
王都近辺の奴隷が、最後に辿り着く場所と聞く」
「最後……?」
「売れ残りや、逃げて捕まった者が、ここへ連れて来られる。
ただ同然で領主に買われ、死ぬまで山を掘るのだろう。
『奴隷の墓場』とも呼ばれている」
町のそばまでやって来たユトロは、塀を軽々と越えて中へ入る。
一直線に向かった建物の前でナユタナを降ろし、抱え上げて窓から中を覗かせた。
暗い部屋から、悪臭が鼻を衝く。
目を凝らすと、痩せこけた人族が、鎖に繋がれているのが見えた。
互いに寄り添って眠る者。壁に立ったまま、身を預けている者。
寒さのせいかと思ったが、そうでなければ入り切らないのだ。
骨と皮だけの骸骨のような者たちが、狭い部屋に押し込められていた。
羽虫が一匹顔に止まり、ナユタナは手で払う。
無数の羽音の奥に、かすかな息づかいが混ざり、淀んだ闇に沈んでいた。
「メルグリスも、お前をこうしたか?」
ユトロの問いに、ナユタナは、静かに首を横に振る。
ここは、メルグリスの店とは、まったく違う。
──“同族を家畜のように鎖で繋ぐ”と聞いたが、それは比喩などではなく、文字通りの光景だった。
ナユタナの首輪など、今となっては、些細なものに思えた。
「メルグリスのように、奴隷に教育を施す者を、俺は他に知らん。
罪状や破産で、奴隷は生まれ続ける。
自分の売る奴隷が少しでも役に立ち、まともな扱いを受けて命を長らえるのなら、双方に得だと、奴は考えるのだろう」
民家の壁の隙間から、かすかな声が漏れ、夜の静寂に溶けた。
「人族にとって、森人は未知の種族だ。
ナユタナのような娘は、人族の子どもとの区別がつかん。
だが、装飾品の違いはどうだ。
お前を攫った盗賊は、服や持ち物をここで売り、お前が森人だと確信したのだろう」
盗賊たちは、森人であるナユタナを高値で売るため、奴隷商を渡り歩くつもりでいた。
リグナムでは思ったほど値がつかず、次に、ヴァードラン領の領都へ向かった。
そこで、メルグリスに購入の機会が訪れた。
メルグリスは、運ばれてきた娘が森人だと聞き、半信半疑であった。
だが、大樹海から人族が睨まれるほうが、一大事だと考えた。
それゆえ、盗賊の言い値を払い、ナユタナを保護したのだ。
よその奴隷商からすれば、愚かな行動だろう。
だがメルグリスは、己の損失よりも、種族の安全を優先した。
「目の前の利益しか見ぬ者は多い。
メルグリスのように、人族全体を考える者は珍しいのだ」
ユトロはメルグリスを優れた男だと語った。
だがナユタナは、人族の多くが、目の前の金を選ぶことのほうが気にかかっていた。
丸い小さな金属片が、人の命までも量り、種族全体の価値観を左右している。
その有り様が、不思議でならない。
同族をここまで残酷に扱う者の姿に、皮肉にも感嘆を覚え、人族という種の性質に、ナユタナは強い興味を掻き立てられた。
「競売場で、俺と競り合っていた男爵だが、あいつは横の男に雇われていただけだ。
細い男は、ドルマーク領の奴隷商、ザフリドという。
この鉱山町で森人の噂を聞きつけ、フォルトナの町まで来たらしい」
ユトロは町の端まで駆け抜け、地を蹴って、岩山を軽々と登ってゆく。
「ザフリドは領内の男爵を介して、ナユタナを買おうとした。
ナユタナを大樹海へ帰すつもりだったメルグリスにとって、ザフリドの横槍は厄介だった。
そこで『競売に出す予定だ』と嘯き、その場をしのいだのだ」
その経緯をメルグリスから聞いたユトロは、男の依頼を引き受けることになった。
ナユタナは、競売の日に受けた理不尽な仕打ちを思い出し、その事情をようやく理解する。
同時に、己の頑なな態度を、恥じ入った。
たった一言、「私は森人だ」と口にしていれば、よかったのかもしれない。
だが何より、メルグリスを礼儀の尺度で測り、最初から疑ってかかった自分が悪いのだ。
協力的でない者を扱うには、ああするほかなかったのだろう。
ナユタナは、常に中立な目で物事を見極めようとしてきたはずだった。
それなのに、芽生えた偏見に目を曇らされ、こちらに有利に動いてくれていた者の気遣いを、踏みにじってしまった。
──自らの過ちを思い知り、ナユタナは、静かに息を吐いた。




