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四(第四話)



 中庭でそわそわと待っていた使用人の男は、浴み小屋から出たナユタナの前に灯を置いた。

 懐から小さな靴を取り出すと、かがんで彼女の足に履かせた。

 片手を欠いた男だったが、肘までの腕を器用に使い、靴紐を手早く結び上げた。


 ナユタナが、履き心地を確かめようとしたとき、男が「急いでください」と促した。

 湯浴みを手伝った女中たちは、片付けのため小屋に残っている。


 男は足早に庭を進み、ナユタナを連れてゆく。


「ユトロ様は本当に無茶を仰る。

 町の靴屋はもう戸を閉めていましたが、事情を話して一番小さな見本を譲ってもらいました。

 それをさきほど、無口なコルベに急ぎで直させたのです」


「な、なぜそんなに急ぐのですか……?」


 ナユタナは、小さな体で駆け足になり、男の後を追った。


「なぜって? 月が出ているからに決まっています。

 サーラたちが戻る頃には、曇っていてくれるとよいのですが」

「月が出ていると……なぜ、いけないのです?」


 息を切らしつつ、ナユタナは振り返る。

 浴み小屋の仕切り壁と屋根の隙間から、橙の灯りと湯気が立ちのぼっていた。


「理由ですか……」


 男は一瞬、言葉を探すように間を置いた。


「月は、毒なのですよ」



 屋敷の裏口が開き、二人が駆け込むと、待ち構えていた男たちがすぐさま戸を閉めた。


「ナユタナ様とやら。お食事が整っておりますぞ」


 白い前掛けを締めた太った男が、ぎろりとナユタナを睨む。

 背後の使用人たちは、手を止め、一様に困った顔を浮かべていた。


 そこは、竈の熱と肉の匂いが満ちる、屋敷の厨房であった。


「こんな時間に、まったく」

「今日はお前も、こっちに泊まっていけ。グレン」

「そうさせてもらう。本当に参ったよ」


 ナユタナを連れてきた男は、汗を拭い、樽から水を汲んで、ごくごくと飲んだ。

 顔色は真っ青で、声も途切れがちであった。


「……月がなぜ、毒なのだ?」


 歓迎されていない空気は、重々承知していた。

 それでも、問わずにはいられなかった。


 ナユタナの耳に、そんな話が届いたことは、一度もなかったのだ。


 月を恐れる森の民はいない。

 月夜は酒を酌み交わし、楽を奏でて歌い明かす。


 ナユタナにとって、月とは夜の静寂を照らし、森を彩る存在であった。


「なぜって、なぁ」

「ああ……」


 人族の男たちは、顔を見合わせて黙り込んだ。


「あんたは月光を浴びて、具合が悪くならんのですか?」


 前掛けの男の問いに、ナユタナは小さく首を横に振った。

 男たちは静まり返り、不思議なものを見るように、ナユタナを見つめる。


「お前たちは、またそんな愚かな話を。

 月光が毒など、迷信にすぎん。ばかばかしい。

 さあ、ナユタナ様。お食事に参りましょう」


 静かな声と共に、黒衣の執事──ダランが現れた。

 その気配だけで、男たちは慌てて道を開ける。


 答えを得られぬまま、ダランに導かれ、ナユタナは厨房を後にした。



 △ ☽ △



「おお。やはり、よく似合っているな」


 部屋に入ると、長卓の奥に座るユトロが笑顔で迎えた。

 ナユタナの蒼翠の服を、楽しげに褒めている。


「靴はどうだ? 足が痛ければ、すぐに言え」


 小さな声で、大丈夫だと答える。

 服や靴を用意したのは使用人なのに、ユトロの態度は、どこか偉そうに見えた。

 それでナユタナは、礼を言うべき相手が分からずにいる。


 ダランが椅子を引き、ナユタナは脇の席によじ登る。

 背筋を伸ばしても届きそうにない。

 身を伸ばした瞬間、ひょいと持ち上げられた。


 座面に綿の入った袋が敷かれ、ダランがその上にナユタナを下ろす。

 座ると、食卓の高さはぴたりと合った。


「ナユタナ様専用の椅子も必要ですね」

「こうすれば届くので、そのような物は……いりません」


 専用の椅子など、とんでもない。

 これ以上何かをもらえば、帰ると言い出しにくくなる。


 席の前に食器が並び、鍋から料理が運ばれた。

 黒い肉、飴色の肉、赤茶の肉が、山のように盛られている。


「腹が減っているだろう。さあ食え」


 ナイフを手にしたユトロが、ざくりと刺して頬張った。


「お仕事の話がございます。

 私めもご一緒して、よろしいでしょうか?」

「うむ……お前の席はそこじゃない。一つ向こうだ」


 ナユタナの前に座ろうとしたダランに、ユトロが目を細めて合図する。

 ダランは面倒くさそうに席をずらした。


「今からユトロ様と、仕事の話をする。

 ──お前たちは、部屋を空けなさい」


 ダランが手を叩くと、使用人たちは静かに退室した。



 三人だけになると、ダランは立ち上がり、自分の皿に肉を盛った。

 ユトロはナイフに刺して豪快に口へ運び、ダランは丁寧に切り分けて静かに食べる。

 食べ方は違えど、二人の食欲は凄まじい。


 その光景を眺めるナユタナは、見ているだけで、お腹がいっぱいになるほどだった。


「靴屋と服屋に使った分で、現金が底をつきましたよ、ユトロ様」

「そうか。それで、どんな仕事だ?」


 ナプキンで口を拭ったダランは、内ポケットから紙を取り出して広げた。


「ギルドで依頼を見て参りました。

 王都の上級冒険者向け差遣任務が二つ──

 翼竜の群れの討伐と、黒竜の討伐依頼です」


「遠いのか?」


「どちらも、コンヌビア地方の山岳地帯です。

 ユトロ様は、何度か行ってらっしゃいますよね」


 二人の会話を聞き、ナユタナの目は輝いた。


 コンヌビア地方の山は、珍しい鉱石の産地だ。

 翼竜や黒竜も、まだ見ぬ存在。

 ガナン大樹海には、緑竜や地竜がいたが、翼で空を飛ぶ竜はいない。


 文献に記された姿を思い浮かべ、ナユタナは胸を躍らせた。


「あの……私もユトロ様に、お供できるのでしょうか?」


 ナユタナはダランの紙を見つめ、食い入るように尋ねる。


 一人では踏み出せなかった世界へ、ユトロは当たり前のように足を運んでいる。

 未知への恐れはあるが、それ以上に、好奇心が勝った。


 冒険に同行すれば、この男への理解も深まり、恐怖も和らぐだろう。

 森域に戻るのは、もっと世界を見てからでも──


「駄目だ。ナユタナは、ここにいろ」


 ユトロの声は、ぴしゃりと鋭く響いた。


「危険ですから、ナユタナ様は屋敷で私めと、お留守番なさってください」


 ダランにも念を押され、肩をすくめたナユタナは、目の前の肉をそっとつついた。


「ふむ。群れの規模にもよるが、二、三日はかかるだろうか。

 黒竜を翼竜の群れにおびき寄せ、一気に仕留めれば早いか……」


 ユトロの脳裏に、黒竜の炎を翼竜の群れへ浴びせる策が浮かんだ。


 ナユタナを連れて行けば、自分の強さを見せられる。

 だが──視線の先の小さな体を思い浮かべ、すぐにその考えを打ち消した。


 守りながら戦うのは、難しいだろう。

 竜の一撃で、弱い命は簡単に消えてしまうのだ。


 かといって、置いて行くのもつまらぬ。

 早く片を付け、戻って来なくては……


 つまらなそうに肉をつつくナユタナを、ユトロは見つめる。


「いえ、単独行動はできません。

 明日の昼までに王都のギルドで受付が必要で、出発はその後に決まるそうです。

 大人数で行く大型任務ですから、ひと月ほどはかかるでしょう。

 討伐隊には人族の指揮官がいますので、ユトロ様は、その者の指示に従ってください」


「ひと月だと?!」


 ユトロは眉を吊り上げ、声を荒げた。

 ナユタナはびくりと跳ねる。


「俺が一人でやれば、報酬も──」


「各地に依頼が出た時点で、予算は組まれ、経費も動いております。

 遠征は、出費がかさみますし、参加者が多ければなおさら。

 勝手に片を付ければ、その損害を補填させられます。

 ギルドから、厳しく咎められるでしょう」


 ダランは任務の写しをユトロに渡し、肉を切って口に運んだ。


「手早く済ませても、駄目なのか?」

「もちろんユトロ様には、それが容易でしょう。

 ですが、この任務は“人族の一員”として、参加せねばなりません」

「だが、大勢で行けば、取り分が減る」


 不満をこぼすユトロに、ダランは口を拭った。


「個人で達成できなかったからこそ、地方から人員を募る、特別任務になったのです。

 ただし、貢献度に応じて別途報酬も出ますし、素材を持ち帰れば売れます。

 この地で小さな依頼を積むより、よほど割がいい」


 ダランは念を押す。


「ユトロ様、黒竜の核は、絶対に逃さないでください。

 ──竜核が手に入れば、しばらく資金に困ることはないでしょう」


 竜退治は別格だ。

 稼ぎの規模が、桁違いだった。


「ふむ……しかし、現金がないのだろう?

 どうする。トストニフから、借りるか?」


 先ほどダランが屋敷の経費をぶつぶつ言っていたのを思い出し、ユトロは使用人たちの賃金、そしてナユタナの生活費を少し気にした。


「ユトロ様は借金も滞納も一切ございません。

 業者には、ツケとやらで済ませましょう。

 私めが睨みを利かせれば、半年くらいは持つでしょう」


「やめろ。そんなことをすれば、住みづらくなる」


 冗談ともつかぬ言葉に、ユトロは釘を刺した。



 二人の会話を聞きながら、ナユタナはちまちまと肉を口に運び、今後のことを考えていた。


 遠征の前に交渉を済ませなくては、ひと月、ここに留まることになってしまう。

 急いで森域へ戻りたいわけではないが、長く滞在すればするほど、嫁になることを断りにくくなりそうだ。


 交渉には、自分の購入に費やされた金を、少しでも返す姿勢が大事だろう。

 よく分からないユトロの誠意を、そのまま受け取ってはいられない。


 労働で金を得られるのか、知識や技術で返せるのか。

 女中たちは、薬湯や薬草の知識を喜んでくれた。

 彼女たちが何か良い案を、知っているかもしれない。


 だが、使用人たちが話していた月光のことも、どうにも気にかかる。

 コンヌビア地方へ行けないのは残念だが、この土地で見聞を広げることは十分にできる。


 奴隷商のもとから、ナユタナはすでに解放されていた。


 ここは森域から遠く離れた、人族の領土。

 ナユタナが夢にまで見た、未知の世界なのだ。



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