三(第三話)
中庭の浴み小屋では、井戸水が汲まれ、湯桶へと運ばれていた。
竈からは、湯を沸かす音が絶え間なく響いている。
日は西の端に沈み、薄闇が庭を満たしはじめていた。
風は冷えを纏い、昼の温もりをさらってゆく。
背の低い草花が揺れる、手入れの行き届いた庭の真ん中で、ナユタナは周囲を見回す。
女中に履かされた庭履きは、木底に布をかぶせただけの、簡素なものだった。
庭師の老人は薪を積みながら、しきりに空を仰ぎ、時折ナユタナとユトロの様子をうかがっていた。
「表の庭のほうが、楽しめるのではないか?」
「少し、葉をいただいても……よろしいでしょうか」
「好きにしろ」
短い許しの言葉を受け、ナユタナは草を摘んでゆく。
根を傷つけぬよう、指先でそっと引き取った。
「お……あそこのオオクギの皮も、少し……よろしいでしょうか?」
「構わん」
庭の奥に立つ、太い老木を見て、ナユタナの目が輝いた。
慣れぬ履物でよたよたと歩く姿に、庭師は、思わず幼い子供を見るような眼差しを向けた。
ユトロもまた、後ろをぴたりとついて歩く。
「ナユタナ、これをやろう。
護身用に持っておくといい」
ナユタナが老木の皮を爪で剥ごうとしたので、ユトロは腰の短剣を差し出した。
「あ……ありがとうございます……」
思いもよらぬ武器に、おずおずとそれを受け取る。
鞘に碧い魔石をあしらった立派な短剣は、抜かれた途端、刃に青白い光を帯びた。
「これは……碧晶ではないか?!」
「よく切れるぞ」
それは、ナユタナが文献でしか知らぬ、希少な鉱物であった。
幼い頃から憧れていた、澄み渡る碧の鉱石に、すっかり心を奪われる。
「なんと美しい……!」
丁寧な言葉遣いなどいつしか忘れ、剣身に見入っていた。
薄く軽い碧晶の剣は、力を込めずとも、するりと木や草を裂いた。
だがその軽さゆえ、かえって加減が分からず、幹をえぐり、皮を細切れにしてしまった。
老木を傷つけた自分に、ナユタナはうなだれた。
「ああ、なんてことだ……オオクギよ、すまない。
私の腕が、まだ未熟であったばかりに……」
「切れすぎるのも、考えものだな」
ユトロが指先の爪を伸ばし、それで木の皮を剥いだ。
ナユタナは目を見開き、ぽとりと短剣を落とす。
瞬く間に、爪は元の長さへと戻っていた。
ユトロは短剣を拾って鞘に収め、剥いだ木の皮と一緒に、ナユタナへ差し出した。
「ナユタナよ、お前は何色が好きだ?」
唐突に問われ、剣と木の皮を抱えたまま、ナユタナは男を見上げる。
「お前の髪は琥珀で、瞳は翡翠だ。
蒼い服が、似合いそうだな」
ナユタナは、はっとして、ユトロの言う色が、服のことだと気付いた。
いま身にまとっているのは、麻袋を縫い合わせたような、ぼろ衣であった。
△ ☽ △
湯浴みの準備が整う頃には、空はすっかり暮れていた。
橙の灯が吊るされた浴み小屋には、女中が二人、控えるように残っていた。
そこへユトロとダランが入ってきた。
女中たちは、手桶を持ったまま固まった。
ためらいなく服を脱いだナユタナに、女中が慌てて薄布をかけた。
人族の習わしなのだろうと、ナユタナは袖に腕を通す。
「本当に、切ってしまわれるのですか?」
ごわごわとした金髪を前に、ダランが念を押した。
「この髪をほぐすには、丸一日はかかる。
切ったほうが早い……でしょう」
ナユタナの髪は、固めた綿のように絡まっていた。
元の状態に戻すには、相当の時間と気力が要る。
「ユトロ様も、それでよろしいので?」
「俺は構わん。
だが、大切に伸ばしていたのではないのか?」
膝まで伸びた髪だ。日頃の手入れも、容易ではなかっただろう。
ユトロの知る女の多くは、髪を丁寧に扱い、結い方にこだわり、花や香を添えていた。
そのことが、ナユタナの気持ちを思わせた。
「ナユタナ様は、生まれの地にて、髪に関するしきたりはおありで?」
ダランの問いかけに、ナユタナは首を横に振った。
森人族には、髪を切る習慣がなかった。
それは“しきたり”などではなく、周りに切る者がいないから、というだけであった。
思い返せば、長い髪は手間ばかりで、なぜ切る発想に至らなかったのか、今さらながら不思議であった。
切ったところで、二度と生えぬということもあるまい。
ほどなく、ナユタナの長い髪は、ダランの手によって切り落とされた。
ずしりと重かったものが消え、体がふっと軽くなる。
頭の後ろを確かめたナユタナは、思わずその場でぴょんと跳ねた。
体の奥まで風が通り抜けたようで、胸がじんじんと熱を帯びる。
硬くこわばっていた口元が、僅かに緩んだ。
「それは、燃やして……ください。虫が湧いてしまいますから」
「では、私めが始末して参ります」
ダランは、大きな髪の塊を抱え、小屋を出ていった。
まるで、ナユタナ自身を抱えてゆくようにも見えた。
やがて、仕切り壁の隙間から、赤い炎が揺れる。
ダランが浴み小屋を出るのと入れ替わるように、すり鉢を抱えた女中が入ってきた。
その後ろから、陶瓶を抱えたもう一人の女中が、前を歩く娘の長衣をつまんでついてくる。
「ナユタナ様、言われた通りに潰して、油と混ぜましたよ」
「こちらも、お持ちしました」
二人は若い人族の娘だ。
一人は顔に大きな火傷痕があり、もう一人は瞳が白く濁り、形がかろうじてわかる程度だった。
「うむ。薬は体を洗ってからで、酒は湯桶に入れて……ください」
ナユタナの指示に、立っていた女中がすり鉢を受け取る。
火傷痕の娘は、陶瓶を抱えた娘を桶のそばへ導いた。
「どのくらい、入れますか?」
「ミルナの椀に二杯ほど……ええと、このくらいだ」
ナユタナは湯桶の縁に身をかがめ、両手ですくった水の量で示す。
それを見て、火傷痕の娘が瓶の栓を抜き、蒸留酒を垂らした。
次にナユタナは竈へ向かい、灰を集めて戻る。
手の中の灰を湯に浸し、こっそり魔法を使って、きれいに溶かした。
最後に、碧晶の短剣で指先をほんの少し刺し、血を数滴垂らす。
一連の所作が、まじないのように映り、女中たちは目を見張った。
「これは、何かの儀式でしょうか」
「虫退治の薬湯を作った……のです」
ナユタナの言葉に、皆、半信半疑であった。
火傷痕の娘が、ちらりと壁に寄りかかるユトロを見つめる。
「あのう……ユトロ様は、そこでずっと見ていらっしゃるのですか?
ナユタナ様は、女性なのですよ……?」
「マーヤ、無礼です」
年長の女中が慌てて謝り、マーヤと呼ばれた娘は頭を下げる。
「いや、構わん。俺がここにいては不都合か?」
そのとき、外で話を聞いていたダランが戻り、ユトロを戸口まで押しやった。
「だから言ったではありませんか。出ますよ、ユトロ様」
「ナユタナは、嫌がっていないようだが」
「その娘には、言えることと、言えぬことがあるのです」
「奴隷ではないと、言ったはずだ」
「いいから、早く!」
男たちが出てゆくと、女中たちはほっと息をつき、ナユタナを湯桶に入れた。
「よくやったわ、マーヤ」
「はぁ……ちびるかと思いました」
「また、そんなはしたない言葉を」
年長の女中が、マーヤの頭を撫でる。
「ユトロさま、おっかない声で怒らなくてよかったね」
「香りをちょっと付けただけでも、“鼻が曲がる”って怒鳴るものね、あの方」
「ええ、女心となると、不思議と鈍い方ですよね」
「あたし、奥歯を舌でいじってたら、“うるさい!”って。
そんなことで注意されます?」
女中たちのひそひそ声に、ナユタナは耳を澄ました。
ユトロが浴み小屋を出て行ったことや、女中の気遣いが、森人のナユタナにはよく分からない。
だが、人族の女中たちもまた、ユトロの声を怖がっているようで──そのことに、親しみを覚えた。
「すみません、ナユタナ様。
怖くて、誰も言い出せなかったのです」
「これで、心置きなく湯浴みができますね」
「ナユタナ様は、おいくつなのですか?
森人を見るのは、私、初めてです」
「大樹海から来たって、ほんとうですか?」
笑顔で集まる女中たちに、ナユタナは思わず縮こまった。
種族のことは、隠すべきだろうか──ナユタナは思い悩む。
だが、彼女たちを味方にすれば、森域へ帰る手伝いをしてくれるかもしれない。
「いくつか、とは、一年ずつ増やす数のこと……ですか?」
「え? ええと、はい。あたしは十四です」
マーヤは指で数えるようにして続けた。
「リーナは八歳、サーラは十八で、オルザさんは……」
一人ひとりをナユタナに紹介し、年長と思しき女中を見て、マーヤは言葉を濁した。
ナユタナは、四人の名と特徴を覚える。
火傷痕の少女が、マーヤ。
目が悪く幼いのが、リーナ。
足を引きずるのが、サーラ。
一人だけ紺の長衣を纏うオルザは、最年長でまとめ役なのだと思った。
オルザはナユタナに優しく微笑み、手桶でぬる湯をかけた。
「私は四十で、サーラの母です。
ナユタナ様は、ずいぶんお若く見えますが、森人も人族と同じように、年を重ねるのでしょうか」
水面を眺めるナユタナは、短くなった髪をいじった。
「森人は、人族のようには数えん。
繋ぎの木という、生まれた日に植えた木を見て、おおよその年月を知る。
私の木は太く大きい。百には届かぬだろうが、五十より長い年月を生きている……でしょう」
忘れていた言葉遣いを、最後に慌てて加えた。
女中たちは、その年に驚き、顔を見合わせた。
「見て……!」
サーラが湯桶を見て、叫ぶ。
水面には、無数の血吸虫が静かに浮いていた。
見慣れた血吸虫より大きい虫に、女中たちの顔が引きつる。
「な、ナユタナ様の髪から、虫が、桶に……!」
マーヤの声に、皆はナユタナの頭を見た。
髪の中から虫が跳ね出ると、自ら湯の中へ飛び込む。
虫は水面でしばらくもがき、やがて動かなくなった。
「不思議……」
「どうなっているのです……?」
命令されたかのように入水する血吸虫に、女中たちは驚いた。
そして、目を丸くする人族に、ナユタナは得意げに微笑む。
「面白いであろう? 虫の習性を利用しておるのだ。
血吸虫は、湯に溶かした私の血に引かれて飛び込む。
湯に混ぜた灰は虫の息を止め、強い酒が身を乾かすのだ」
女中たちは、ナユタナの知識に感心した。
小さな虫が見えず、様子を知りたがるリーナには、サーラが優しく教えていた。
実のところ、血吸虫は血に引かれているわけではない。
ナユタナの血を吸って育った虫は、その血に含まれる魔素に、強く引きつけられているのだった。
「虫さん、かわいそう……」
状況を知ったリーナが、ぽつりと呟く。
「森からこの地まで共に過ごした虫だが、増えると馬も殺すというからな。
惨いが、仕方あるまい」
盗賊に捕まっていたナユタナは、『魔封じの首輪』をどうにかしなければならなかった。
所持品はすべて奪われ、髪の中に虫がいるだけだ。
そこで、血吸虫が魔素の多く含まれた血を好むと知っていたナユタナは、首輪に血を塗り、虫に齧らせようと試みていた。
毎日少しずつ、それは行われ、虫は髪の中に増えていった。
だが、首輪はユトロによって壊され、血吸虫は用済みとなった。
「土へ還り、大地の糧となってくれ」
命を無駄にさせたことを、ナユタナは深く詫びた。
血吸虫の死骸は藁で集められ、竈の火にくべられた。
冷えた湯桶に鍋の湯が足され、ナユタナは石鹸で洗われた。
女中たちに洗われたナユタナは、乾いた布で体を拭き、すり鉢の薬を、ただれた肌に塗った。
「頭にも塗りますね。これ、とってもいい香りがします」
「本当ね。こんな香りの草、あったかしら」
すり鉢の塗り薬を、女たちは興味深そうに眺めた。
「甘い香りは、オオクギの皮だ。
ただれを癒し、保湿にも効果が……あります」
「あたしが潰したのは、ラナフの葉と、あと、いい匂いの草です。
灰緑色の細い葉でした」
「炎症と痛みを抑える薬草と、香りが良いのはトレンダ。
腐れを防ぐ作用がある」
女中たちは新しい服を木箱から取り出し、ナユタナに着せてゆく。
「ナユタナ様は、まるで学者様や薬師様のようで、とても頼もしいですね」
「薬草師のドロナさんも、きっと喜ぶでしょう」
「あたし、頑張ってナユタナ様をお手伝いしますね!」
オルザとサーラとマーヤが、着替え終えたナユタナを囲む。
「お嫁さんがきたから、ユトロさま、おっかない声で怒らなくなるといいな」
祈るように口にするリーナの言葉に、三人も静かに頷いた。
大樹海へ帰りたいとは、とても言える雰囲気ではない。
笑おうとしたナユタナは、こわばったまま固まっていた。




