十六(第二十三話)
ユトロが思うほど、人族の遠征隊は非力ではなかった。
車輪が歪むたび、器用に直す者がおり、馬は脚を痛めぬよう丁寧に扱われた。
予定より歩みは遅かったが、長く立ち止まることもなく、雨脚の弱いうちに野営に適した森へ入っていた。
空は厚い雲に覆われて暗く、バルグロスの判断で隊はその森に留まることになった。
今のうちに進むべきだと不満を漏らす者もいたが、この先の道の状態を説明すると素直に従った。
伝令として戦士二名が、町のギルドへ向かった。
大雨に備えて水の通り道を確かめ、傾斜のない高所を選ぶ。
倒木を風除けに馬車を半円に並べ、馬には防寒の布を掛けた。
細い枝を結んで布を渡し、急ごしらえの屋根を作る。
火を囲むように石を積み、煙を抑えるため間隔を空けて、小さな焚き火をいくつも灯した。
簡素な食事が回され、人々は肩を寄せ合い、眠れぬ夜を息を潜めてやり過ごす。
ユトロは屋敷へ戻れず肩を落としたが、ナユタナの酒を眺めて気を紛らわせていた。
その様子を見ていた隣の男が、一口もらえないかと声を掛けてきた。
体を温めるためだろうと考え、ユトロは酒を渡した。
すると次々に手が伸び、ナユタナの酒はあっという間になくなってしまう。
空になった瓶を前にユトロは一瞬、眉をひそめたが、皆の幸せそうな顔に、酒を飲むナユタナの姿が重なり、心は静まった。
雨の音は次第に大きくなってゆく。
「とても美味い酒だった。全部飲んでしまってすまなかったな。
詫びに歌を歌ってやるよ。好きな歌はあるか?」
「うむ……“明日の酒は私を驚かす”というものだ」
「そいつは知らんな。どんな歌だ?」
「あの酒を作った娘が歌ってくれたのだ」
ユトロは、ナユタナが聴かせてくれた歌を思い返しながら歌ってみせた。
しんとした闇の中──一人が吹き出し、隣の者もつられて笑い、場は温かな笑いで溢れ返った。
「その娘はよほど酒が好きなのだな。面白い詩だ」
「あんたが歌ったから面白いんだ。
怖そうな奴だと思ったが、愉快な男だな」
「その娘をお前は、好きなのだろう」
「ああ、嫁にしたいと思っている。
早く帰ってナユタナの顔が見たい……」
ユトロの言葉に、男たちは家族や想い人を思い、恋しい気持ちに包まれた。
遠くから来た者は、もう半月以上も愛する者と離れているという。
皆は大切な者の話をし合い、お互いを励まし合った。
ユトロは昨日も一昨日もナユタナと会っている。
それでも、ここにいる誰よりも、彼女を恋しく感じていた。
屋敷の露台で自分を待つ森人の娘を思い浮かべ、男は浅い眠りに沈んだ。
「天の座に在すウルラよ、我らを見そなわし給え。
巡る命の息吹、荒ぶる風を鎮め、安らぎの環を結べ。
穢れし雨よ、我が祈りに触れて清けくなれ──
今ここに、護りの理を以て、我らを包まん」
フェノルの防御魔法が展開され、ユトロは目を覚ました。
隊全員を包む巨大な結界に、冒険者たちは驚きの声を上げる。
嵐の音が静まり、空気が温く柔らかくなった。
サリネは目を輝かせてフェノルを見つめる。
「こ、これは、何という、魔法なのです……?
こんなに、大きな魔法……す、すごい……!」
「“聖風結界”です。
そう長くは保ちませんが、一時凌ぎにはなるでしょう」
「すばらしい詠唱でございました」
「さすがフェノル様です!」
濡れた外套に身を縮めていた若い僧侶たちも、フェノルへ視線を向けていた。
「ウルラ様の聖光の御力をお借りしたまでです。
私自身は、あなた方と何も変わりませんよ」
その控えめな物言いに、周囲の者たちはますます好感を抱いた。
ユトロは、夢心地の中で聞いた先ほどの長い呪文を思い返し、首を傾げた。
フェノルは人族であったのだろうか……?
ユトロの知る限り、異種族であれば、呪文は不要と思われた。
また、人に化けているのだとすれば、介属性を扱える、限られた種族ということにもなる。
人に化け、人の真似をしている──
フェノルがもし異種族であるならば、そういうことになった。
「い、息づく風よ、我が手に集え。
冷えを祓い、温もりを戻せ──優しく包みて、乾け」
サリネが杖を振ると、そよ風が輪を描くように広がり、周囲の者の身体を撫でていった。
風に触れた水気がふわりと浮き上がり、細かな霧となって空へ散る。
フェノルはにこやかに微笑み、サリネへ礼を言った。
「あなたは良い風の使い手ですね」
「え……あ、ありがとうございます」
二人の会話に、またもユトロは首を傾げた。
サリネは風の魔法を使っているが、それが“風属性”であることを理解していない。
彼女の詠唱には、属性を与える句がないからだ。
ユトロは人族の魔法について思案する。
──体外の魔素を杖で集め、魔力に練り上げて形成し、放つ。
人族は、この三段階に合わせて三つの句を当て、それを呪文としている。
本来なら“放つ”段階の前に“属性付与”の工程があるのだが、人族は属性という概念を持たぬため、その部分が抜け落ちているようであった。
『大気の魔素よ、我が手に集え。
冷えを祓い、温もりを戻せ。
息づく風よ、力を与えよ──
優しく包みて、乾け』
サリネの呪文を正しく属性魔法に組み直すなら、こうなるだろう。
つまり、属性の句がなくとも風魔法を使えているのだから、人族にとって呪文の詠唱は必須ではないとも思えた。
だが、詠唱と同時に魔法が作られているのも事実であった。
ユトロはサリネの詠唱に、魔法が構築されてゆく気配を感じていた。
それゆえ魔法使いたちが呪文を使い続けている理由は、何かしらあるのだと思われた。
そしてサリネの魔法が人族の魔法であるならば、フェノルの魔法には、いっそう強い違和感を覚えた。
ユトロには、先ほど聞いたフェノルの長い詠唱が、魔法を構築しているようには感じられなかった。
魔素が詠唱に引き寄せられる、空気の流れを感じなかったのだ。
まるで、詠唱を終えたと同時に、頭で構築した魔法を展開したようだった。
フェノルの結界魔法の大きさを考えると、単なる風の属性魔法ではなく、光の性質が転用されていたとも思われる。
「ウルラ様の聖光」などと神聖ぶっていたが、光属性を介属性で媒介しているだけであるならば、その“光”を生み出しているのはウルラではなく──太陽である。
フェノルへの疑念は、ユトロの中で静かに重なっていった。
それが欺きなのか、配慮なのか──
今のユトロには、まだ判じかねていた。
△ ☽ △
深夜に雨は止み、翌朝には空が晴れていた。
ぬかるみが乾くのを待ち、隊は昼前に出発した。
夕方前にスカルデンの町へ到着したが、車輪や靴についた泥を洗い落とすのに手間取った。
カルドレア領への入境手続きを終える頃には、空は赤く染まっていた。
南門の広場は石畳で舗装され、石造りの建物が連なる美しい街並みである。
門番が泥を落とすよう念を押したのも、そのためだった。
宿札を受け取ると、ユトロは食事も取らずに急いで酒を買い、門を出て南東へ向かった。
野営をした森へ戻り、ナユタナの魔石で自分のにおいを消す。
足音を立てず、気配を殺し、森の奥へと分け入る。
木々のあいだを縫うように、ユトロは音もなく進んだ。
跳獣の巣穴を見つけ、簡単な罠を仕掛ける。
近くの地面にはコルンの足跡が残っていた。
周囲のにおいを嗅ぎ、草先に絡んだ毛を見つけ、それを追う。
途中、泥を掘り返した跡があり、ユトロはコルンよりも大きな獲物へ標的を切り替えた。
ナユタナはコルンの毛皮を喜ぶかもしれないが──今は空腹を満たす獲物が要る。
コルンは明日でよい。
木立の向こうで黒い影が揺れた。
ユトロは静かに大木へ登り、枝の陰から獲物の動きを窺う。
その不自然な挙動に眉を寄せたとき、森夜鶉が羽音を立てて飛び立った。
だが獲物は、その羽ばたきにも反応を示さない。
黒い巨体は身を揺すりながら歩き、泥に寝転がって背を擦りつけた。
バルクの習性ではあるが、どこか異様だ。
ユトロは顎に手を当て、静かに地へ降りる。
「……魔物化しておるな」
この森は“魔物の森”ほど魔素が濃くはない。
しかし、目の前のバルクはずぶ濡れのままだ。
大雨の後、川に落ちて死んだバルクが、川床に溜まった魔素を吸って魔物化したのだろう。
バルクは周囲の魔素を吸い上げ、みるみる身体を膨らませてゆく。
日中でも光の届かぬ場所には闇魔素が溜まりやすい。
そうした闇を取り込み、バルクの目は赤く染まった。
開いた口から涎を垂らし、下顎の牙がめきめきと伸びてゆく。
そして──土を蹴って、突進した。
ユトロは両手で牙を掴み、巨体の勢いを受け止める。
ぬかるんだ土に足を取られながらも片手で素早く剣を抜き、バルクの眉間へ突き立てた。
胴と首を分けるには太すぎると見て頭を狙ったが、暴走は止まらない。
牙を軸に身体を翻したユトロは、突進の勢いをいなしながら宙を返した。
捻りを加えて頭側へ抜け、同時に牙を放し、巨体の首の付け根へ鋭く伸ばした爪を突き立てて留まる。
両足で首を挟み、ぐっと体勢を固める。
そのまま脳天を一突き──
剣先の魔力を膨らませ、内部を弾いた。
バルクの巨体がどすんと沈み、地が鳴った。
吸い寄せていた魔素の揺らめきが、静かに消えてゆく。
闇魔素により巨体化した体は、徐々に元の大きさへと戻った。
森には、雨上がりの湿った匂いだけが残った。
仕留めたバルクを小川の側へ運び、血抜きの後、皮を剥いで肉を外す。
心臓に核を見つけ、洗って腰の袋に入れた。
肉は塩と灰を擦り込み、臭み消しに酒をかけ、水で柔らかくした大きな葉に包んで縛る。
毛皮は川で内側を洗い、乾いた灰を擦り込んで縄で括った。
服についた汚れを流し、風魔法で乾かす。
荷を整えたユトロは、跳獣の巣穴の仕掛けを確認しにゆく。
獲物はかかっていなかったが、地に耳を当てれば奥から気配がある。
掌を地へ当て、大地から土属性を借りて地を震わせた。
巣穴から二匹の跳獣が飛び出し、そのまま罠に掛かる。
血抜きを済ませた跳獣の脚を荷に括り、夜の気配を背に走り出した。




