十三(第二十話)
「メルグリスの店は、どこだったろうか」
屋敷の外に出たナユタナは、ダランに奴隷商の店の場所を尋ねた。
ユトロに連れてこられた時とは方向が違っているが、行きか帰りに寄れぬものかと、ナユタナは内心で算段していた。
「これから向かうのはフォルトナの北区。
奴隷商の店は南区でございます」
真逆であるため、今日は行けぬと言われる。
「ここは何区なのだ? ペリカの畑は北区にあるか?」
「この屋敷は東区です。
ペリカの畑は西区に大きなものが、南区にも小さな農園がございます」
昨日食べた果実の木を、ナユタナはぜひ見たいと思った。
「ならば明日は南区へ連れて行ってほしい。
メルグリスに礼を言わねばならんのだ」
「メルグリスは今、忙しいかと……」
“忙しい”と言う声色に、わずかに不満が滲んだ。
「なぜだ?」
「ユトロ様が支払われた百万グローネで、新しい商売を始めるそうで」
自分の白金貨が使われることを、まだ不服に思っているらしい。
「メルグリスは何の商売を始めるのだ?」
「人材を貸し出す、“労働仲介所”なるものだそうです」
「それは……今もなさっている貸し奴隷のことですか?」
マルナが興味深げに尋ねた。
マルナの隣には、コルベの姿もあった。
鍛冶族の店へ行くと聞いて興味を示したため、ナユタナが引っ張ってきたのだ。
一行は屋敷から歩いて北区へ向かっていた。
距離はあるが、馬がダランに怯えるため徒歩となった。
「労働仲介所では“奴隷”という言葉を使わぬのだ」
ユトロとナユタナ以外には、男は常に尊大な口調を崩さない。
マルナへ言葉を返すダランも、その態度に戻っていた。
「領民が、奴隷落ちを嫌うためであろう。
職にあぶれた者に働き口を提供するのだから、今と大差ない商売だ。
ただ今度は、領民以外も扱うと聞いた」
マルナは店の名を変える意味を知り、感心して頷いた。
ナユタナは“領民以外も”という言葉に、自分が再び同じ目に遭った場合、奴隷以外の選択肢が得られるのではないかと気付いた。
「メルグリスは、奴隷売りをやめるのか?」
「いえ、奴隷商とは別に、新たな店を設けるのだそうです。
罪人の処遇が絡むため、領としては、奴隷商を今後も残さねばならぬのだとか」
ナユタナは顎に手を当てた。
ドロナから聞いた話と、今の言葉とが、頭の中で重なった。
「メルグリスは、奴隷制度を好んではおらぬようだな」
「ええ、彼奴の母は元奴隷ですから、思うところがあるのでしょう」
マルナとコルベは驚いてダランを見つめた。
つまりメルグリスは、奴隷身分だった親の血を引いていながら、奴隷商を営んでいるのだ。
そして、商品として扱われる者の立場を変えようとしている──
二人は、しばらく言葉を失っていた。
「身分というものは奥深いものだな……ん?
あれは何だ? 麦か?」
ナユタナが思いのままに話題を作物へ移し、考え込んでいたコルベは少し面食らう。
マルナは苦笑した。
「ええと、今の時期なら……刈り取り前の“もみ麦”です。
まだ青い方は“こね麦”でしょうか」
「ほう、もみ麦にこね麦か。ではマルナよ、あれは?
丸っこい艶のある実だ」
「それはおそらく“青実”です。
苦いので、子供が嫌う野菜ですね」
「ほう、苦い野菜か」
三人の前を歩き回るナユタナを、ダランは落ち着かぬ視線で追う。
ついに躓きそうになったところで、ダランは腕を伸ばし、掴んで持ち上げた。
「ナユタナ様、少しよろしいでしょうか」
「お、おぉ……?」
ダランはそのまま、ナユタナを肩に乗せた。
「ダランよ……私は子供ではないのだぞ」
「うろうろされてはなかなか進みませんし、目で追うのも疲れまして」
普段は恐ろしい執事が小さな娘を肩車している姿に、マルナとコルベは思わず笑った。
ナユタナは抗議するように男の肩の上でひょこひょこ動くが、高い位置からの景色に興味が移り、程なくしておとなしくなった。
△ ☽ △
「普通の硝子だな。
この硝子を磨くより、新しく作るほうがいいだろう。
枠も嬢さんにはちと大きい……五百グローネはかかるが」
工房主のドルガンという、真っ黒な髭を蓄えた鍛冶族の男が、ダランを細い目で見た。
正確には──ダランの肩の上のナユタナを見ている。
鍛冶族は人族より背が低く、森人よりは大きい。
上だけわずかに尖った丸耳を持ち、手足は太く、成人した男は皆、髭を蓄えていた。
マルナは祖父の形見がぞんざいに扱われやしないかと不安になった。
眼鏡を渡している彼女は、ほとんど何も見えていない。
「貴様……ずいぶんと吹っ掛けてくるではないか。
私はこの店を何度も利用しているが、二百グローネで作れるだろう」
「馬鹿を言っちゃいけねぇな、ダランの旦那。
枠が二百、硝子が三百の五百だ」
二人のやりとりを、ナユタナは楽しそうに眺めていた。
「それならば、枠を私とコルベで作ったらどうだろうか」
「ほう、旦那の娘は流暢に喋りやがる」
「この御方はユトロ様の花嫁候補だ」
ダランの紹介に、ドルガンは目を丸くしてナユタナを見た。
それから大声で笑い出した。
ナユタナはびくりと跳ねて、ダランの頭にしがみついた。
「奴隷の娘だな? 森人だと聞いたが、噂は本当だったのか。
ウルラ様の領域から出てくるとは間抜けな奴だ。
これが百万グローネとはな。
俺の嫁のほうがよっぽど別嬪だぜ」
ダランの肩の上のナユタナは、にこやかに微笑んだ。
「もちろんそうであろう。
あなたの嫁は、あなたにとって一番美しくなくてはならん。
ダランよ、手土産を渡してやってくれ」
それを聞いたマルナは、持っていた包みをダランへ差し出す。
ダランはそれを受け取り、中の品をドルガンへ向けた。
「ナユタナ様からの、ほんのお気持ちだ」
町の店で売られているアピルの蜜酒を受け取り、ドルガンは栓を開けて眉を寄せた。
「ほんのお気持ちだと?
単なる蜜酒をずいぶん御大層に出してきやがる……
だが、色が濃いな。三年ものか?」
「先日仕入れた今年のものだ」
「そんなわけが……」
ドルガンは香りに集中し、瓶の口を鼻先に近づけて深く吸い込む。
「これが、今年のものだと……?」
「鍛冶族の男よ。その酒はな、私が味を整えたものだ。
私はな、酒と薬を扱わせたら、森では放っておかれぬ。
酒を振る舞った日には、地響きがするほど森人が集まり、囲まれたものだぞ。
毎日懲りずに求婚する者もおったし、皆私の酒を欲しがった」
ダランが訝しげにナユタナへ目を向ける。
「地響き……?」
「なぜあなたが疑うのだ。
木の上の家が揺れるくらいには集まったぞ。
私のいた集落では、酒が上手に作れる者こそ、いい男であり、いい女であった」
「ナユタナ様は、人気者だったのですね」
マルナは頬を染め、感心したように言う。
ナユタナはふんと鼻を鳴らし、胸を反らした。
ドルガンは手のひらに数滴垂らし、舌に乗せた。
瞬間──稲妻が走ったように体が震えた。
濃い蜜の甘さが舌先を包むと同時に、“命の奔流”のような熱が胸を突き抜けた。
花蜜の柔らかさと、古樹の洞に眠る酒精の深みが重なり、喉を通る、ほんの一瞬のあいだ──酒の世界が開けた……
だが、その扉は容赦なく閉じた。
それは、鍛冶族が炉の前で初めて鉄を鍛えた時に覚える、“世界の芯に触れた”感覚に近かった。
「……こ、これは……単なる蜜酒などではない。
何か別の……!」
膝が勝手に折れ、ドルガンはナユタナの前へ崩れ落ちた。
「……ナ、ナユタナと言ったな。
ちっこい森の娘よ……
俺の、嫁に……なってくれ!」
ナユタナは、跪く男の顔をまじまじと見つめ、それからゆっくりと店の奥へ視線を向けた。
やってきた女が、ドルガンの頭を棒で叩いた。
「あんたは嫁をもう一人迎える気なのか?
お屋敷の方に失礼なことはしてないだろうね?」
「あなたがドルガンの嫁か?
ふむ、森では見ぬほど逞しい。確かに私より美しい女だ」
それを聞いた鍛冶族の女は、ドルガンの頭を拳で殴った。
「こんな小さな娘さんに、あんたは一体何を言ったんだ?」
「だってよ、この娘が英雄様の嫁候補だと言うもんだから、俺は──」
さらに女が強く殴り、ドルガンはナユタナへ謝った。
ドルガンの妻はヴァルダという、長い赤毛を束ねた鍛冶族の逞しい女である。
重い鎚を軽々と持ち上げる彼女の太い腕の筋を、ナユタナはじっと眺め、羨ましく思った。
ヴァルダのような腕があれば、自分も竜退治に行けるのでは──
ナユタナは工房の隅の木箱に入っている剣を見て、長剣をひとつ握ってみたいと胸を躍らせた。
「して、眼鏡は幾らで請け負って貰えるのだ」
「眼鏡でしたら二百グローネからやっていますよ。
そちらの方ですか?」
ヴァルダによって、マルナの眼鏡の見積もりが出される。
厚い硝子を軽くするため少し高くなり、三百グローネで作れるとのことだ。
硝子を作るため、マルナは視力を測ってもらう。
ナユタナはその様子を楽しそうに眺め、コルベは工房のすべてに興味をもって、きょろきょろしていた。
「ところでお前は、俺たちの仲間じゃないのか?」
眼鏡の枠を作り終えたドルガンが、コルベを見て言う。
コルベはびくりとなって、首を傾げた。
「私もそうじゃないかと思っていましたよ。
鍛冶族の血が混じっているのでは?」
ヴァルダもコルベに鍛冶族の血を感じていた。
「この者は魔物に追われていたところを、人族の冒険者に助けられた。
記憶がなく身元が分からぬため、ギルドから奴隷商に渡り、保護されていたのだ。
手先が器用だとメルグリスに勧められ、うちで雇っている」
奴隷でも準奴隷でもなく、身元不明の者として屋敷で雇っているとダランは話す。
コルベという名は、奴隷商で付けられた仮の名であった。
「ならば鎚を持たせてみよう」
ドルガンは炉に炭をくべると、店の奥から立派な鎚を持ってきた。
古い剣ばかり入った木箱から一本を選び、柄と鍔を外し、鍛冶鋏で刃を掴んで炉にくべる。
刃が赤く燃え、やがて橙の光を帯びた。
橙の刃を金床へ移し、鍛冶鋏を握る手でしっかりと押さえつける。
もう片方の手で鎚を構え──
「コルベと言ったか? こっちに来い」
ドルガンに呼ばれ、コルベは隣に立つと鎚を受け取った。
細い腕なのに、重そうな鎚を片手で軽々と持ち上げた。
それを見て、ドルガンとヴァルダは小さく頷いた。
「思うままに叩け。剣を蘇らせるのだ」
コルベが振り上げると、鎚が淡く赤光を帯びた。
鎚が落ちるたびに火花が弾け、その合間に淡い魔力の閃きが混じった。
コルベは、体の奥から血が湧き上がるのを感じた。
夢中で鉄を打ち、花火のような光を散らせる。
その様子を、ナユタナもダランも仮眼鏡のマルナも、心を躍らせて見つめていた。
コルベは休むことなく鎚を振るい、額は汗に濡れていた。
ドルガンは鋼を再び炉にくべ、橙に染まる直前に取り出して油に沈める。
じゅっと蒸気が上がり、コルベは息を切らしながらもその光景を見守った。
再び炉で熱し、青紫の光を帯びたところで油に沈める。
「砥石を出してくれ」
「もう出てるよ」
ヴァルダが用意した砥石に水を打ち、ドルガンはそこで剣身を磨いた。
「二番目を」
「そら、二番目だ」
水を打ち、再び磨く。
「仕上げを」
「はいよ」
呼吸を合わせるように、ヴァルダは石を替えてゆく。
コルベの打ち直した剣身は、やがて美しく輝いた。
「やっぱりお前は俺たちの仲間だな」
「こりゃあ、初めてじゃないね」
ドルガンは新しい柄と鍔を付け、剣をコルベに渡した。
コルベはその光沢を見つめ、しばらく言葉を失った。
「……何も思い出せはしませんが、楽しかった……」
呟いたコルベの声に、一同は静まる。
不意に漏れたその声は、驚くほど落ち着いた成人の声だった。
「コルベさん、お話しができたのですね」
「マルナよ、そこではなかろう……」
コルベはみるみる耳まで赤くなり、帽子を深く引き下げた。
人族であれば十代前の少年に見えるコルベの声は、胸の底で響くような深い声だった。
その響きが、自分の姿とあまりに釣り合わず、彼は声を隠してきたのだ。
「ほう。鍛冶族だと思えば、まあ妙でもねぇが……」
ドルガンは顎髭を撫で、鍛冶族の特徴をコルベに探した。
コルベは背は低いが、手足が細く、耳は人族と同じである。
小さな顎には髭の生える兆しもなかった。
「姿など何でもよいではないか。
私も人族の幼子と間違われるが、それで困ったことはない」
「そ、そうですよ。
ナユタナ様のように、愛らしいではありませんか」
マルナの気遣いは、余計にコルベを萎縮させた。
そんな彼の背中をドルガンは優しく叩く。
「お前は鍛冶族と分かっても、お屋敷で働くのか?」
ヴァルダも頷く。
鍛冶族なら、人族より優れた技術で鉄が打てる。
ただの雑用で生きるのは勿体ない。
「工房に弟子入りして、独立したらどうだい?
うちで面倒をみてやってもいいよ。ねぇあんた」
「もちろんだ。
鍛冶族は若者の面倒を見合う種族だ。
人族の土地にいてもそれは変わらねえ」
突然の申し出に、コルベは言葉をなくした。
自分が人族ではなかったという事実、鎚を握ったときの馴染む感覚、無意識の魔力の奔り──
それらが一度に押し寄せ、混乱と、得体の知れぬ懐かしさが胸を満たした。




