六(第十三話)
ユトロの部屋に入ったナユタナは、灯を掲げて周囲をきょろきょろと見回した。
ダランの寄越した手紙には、ここにナユタナの“客人”が来ているとだけ記されていた。
極秘の訪問ゆえ、誰にも悟られてはならぬ、と。
しかしナユタナに、客人の心当たりはなかった。
「私の客とやらはどこだ……ん?
何だこれは……寝台……なのか?
私の家ほどもあるではないか……!」
進んだ先にそびえる寝台は、彼女の住んでいた家ほどの広さに見えた。
大男の寝床であれば、この大きさも当然なのだろうか。
ナユタナは信じがたいものを見た気分だった。
寝台脇の灯掛けの前に椅子があり、ナユタナは靴を脱いでよじ登り、灯を掛けた。
薬壺は大事に抱えたままだ。
大きな窓の前の小卓に酒瓶が見え、ナユタナは吸い寄せられるように裸足で歩み寄る。
「トルナ酒を部屋に置いてきてしまったが、ここにもあるではないか……ん?」
外の露台に、黒い影が二つ横たわって見える。
目を凝らすと、首を落とされた鳥の死骸だった。
「あれは……カルヴァン鳥ではないか?」
色鮮やかで美しい羽を持つその鳥は、祝の席で出される縁起物だ。
「私への贈り物だろうか……」
「ああ、おぬしへの手土産だ」
振り向いたナユタナは、獣の眼光に捕らわれた。
夜そのものが形を得たかのような、巨大な闇が彼女を見下ろしている。
全身の毛が逆立ち、背筋を氷のようなものが滑り落ちた。
鼓動が一度、大きく跳ねる。
次の瞬間、息も瞬きも、奪われた。
視界の端が音もなく崩れ、灯の光が遠ざかってゆく。
逃げねばと思うのに、体は縫いとめられたように動かない。
崩れ落ちる体を、大きな手が支えた。
意識の糸がぷつりと切れ、ぐらりと頭を項垂れる。
「……おい、ナユタナ?」
手から薬壺が転がり落ちた。
小さな森人は、すでに気を失っていた。
△ ☽ △
肉の焼ける芳ばしい香りに、ナユタナは目を覚ました。
黒藍の空に、細く淡い月が浮かんでいる。
少し離れた場所で、真っ黒な影が炭で鳥を焼いていた。
冷たい風が髪を撫で、飛んできた羽毛が頬に張り付く。
手で払い、ナユタナはそこが二階の露台であることに気付いた。
「は……!」
きょろきょろと辺りを見回したナユタナは、そばに置かれた薬壺を慌てて抱え、中身を覗いた。
魔力で練り続けていたそれが、どのくらい放置されたかを確かめる。
「……無事であった。危うく駄目にするところであった……」
「驚かせて済まなかった」
差し出された鳥の串焼きを見つめ、ナユタナはそれを受け取った。
「“客人”とは、あなたのことだったか……
しかし、コンヌビアへ向かっていたのでは?」
ナユタナを驚かせたのは、今朝屋敷を出たはずのユトロだった。
「出発は明日だ。
王都は退屈でな、ナユタナの顔を見に戻ってきたのだ」
「……足が速いと便利なものだな」
領内では遠征中ということになっているため、ダランの指示により、ユトロは姿を隠していた。
暗い部屋にいたのは、そのためだった。
ナユタナは室内の小卓を仰ぎ、きょろきょろと周囲を見回した。
ユトロは部屋から持ち出していた酒瓶を、彼女のそばに置いてやる。
ナユタナはぱあと笑顔になり、陶瓶を手に取った。
栓を抜き、匂いを嗅ぐ。
「この香りは……アピルの蜜酒か。貰っていいのか?」
「おぬしのために用意した酒だ」
ナユタナは甘い香りに喉を鳴らした。
小皿に少し垂らし、星の光に照らす。
「おお……輝いておる!」
琥珀を少し舐め、焼いた鳥を口へ運ぶ。
焦げた皮がぱりぱりと音を立て、肉汁が口いっぱいに広がった。
肉の熱さに口をはふはふとさせる。
炭で焼かれた肉は香ばしく、熱い脂が滴っている。
ナユタナはふぅふぅと冷ましてから、もう一度かぶりつく。
「屋敷での生活は問題ないか?」
鳥を焼き終えたユトロは火箸で炭を掴み、炭壺へ納める。
抜いた羽は麻袋に詰めて隅に置かれていた。
「うむ……いや、ユトロよ。私に何か不吉な呪いをかけたであろう。
頭の傷を治してくれたのはいいが、私を見てひっくり返る者がおるのだ。
動物にも怖がられてしまって、ガロに餌もあげられなかったぞ……」
顔をくしゃくしゃにして不貞腐れるナユタナを見て、ユトロは吹き出しそうになるのを堪えた。
「……そうか。
誰がひっくり返ったか、覚えているか?」
ナユタナは一日を思い返し、出会った者と、その中で怯えていた者をユトロに伝える。
「ほとんどの使用人と、もう会ったのだな」
「どういう効果の術だ?
私には、効く者と効かぬ者の違いがわからなかった」
好奇心を抑えきれず、ナユタナは身を乗り出していた。
ユトロはナユタナの頭についた羽を取る。
「おぬしを軽視する者や、おぬしに悪意を向けた者が、ひっくり返ったのだ」
ナユタナはその答えに眉を寄せた。
「私も恐怖を感じたが、どういうことだ……?
家畜たちも、軽視したり、悪意を持っていたとは思えん」
ユトロは頷き、説明した。
ナユタナにかけた魔法は、“狼の印”と呼ばれる種族特有の術で、それは“縄張りの理”を可視化する力をもつという。
ナユタナの感じた恐怖は、狼の力──自然の原理そのものに触れたための、避けがたい反応だった。
「つまり私は、魔法にかかったのではなく、術の理そのものに畏怖を覚えたと……?」
目を細めたナユタナは、酒を舐める。
「おぬしは魔法を剥がそうとしたのではないか?」
「おお……そうであった。
調べるために指先に少しだけ移したのだ。
……そうか、理に触れ、深みに引き込まれそうになったのだ」
感じた畏怖の正体を理解したナユタナは、楽しそうに笑った。
「ナユタナは“理”そのものに畏れを覚え、家畜は“狼の気配”に怯え、そして術にかかった者は、“縄張りへの侵入者”とみなされ、威圧を受けたのだ」
軽率に踏み入る者を戒め、害なす者を退ける。
狼の印とは、理をもって縄張りを護る術なのだ。
ユトロも器に酒を注いで口につける。
ナユタナはふむ、と頷いた。
「それで、術にかかった者に、あなたは説教でもするのか?」
「何もせん。
気を付けねばならぬ相手だとだけ覚えておく。
ナユタナは俺の嫁候補だからな。
おぬしへの態度は、俺に対するものと言えよう」
問題が起こる前に対処しても、不信が生まれるだけだ。
相手の信頼を得られない理由が自分にあるのなら、知っておきたいとユトロは思う。
「残りの使用人にも会ったほうがいいのか?」
「術を使ったのは、屋敷の者を探るためではない。
おぬしの安全のためだ」
ナユタナは目を細めて両手で頭を撫でた。
ユトロの厚意で受けたものだが、あまり嬉しくない。
「ふむ……しかし、この魔法は解いてほしい。
動物にまで恐れられてはたまらんぞ」
「いいだろう。こっちへ来い」
ユトロに手招きされ、ナユタナは薬壺を置いて男のそばに寄る。
ユトロは嬉しそうに笑い、大きな口をあけてナユタナの頭にかぶり付いた。
「ぐわっ!?」
一瞬のことで、ナユタナはまともに齧られた。
優しく噛まれたため傷はないが、驚きで意識が白くなった。
「……術をかけた時も、あなたはこうしたのか?」
ナユタナは呆れたように眉をひそめた。
ナユタナの頭はユトロの唾液で濡れ、焼いた鳥と酒の香りがした。
「だが、頭の傷がきれいに治っていたのには驚いたぞ。
人狼族は治癒魔法が使えたのだな」
「人狼は舐め癒やすことができるのだ。
自分以外は滅多にせんが、おぬしが望むなら、他の傷も治してやるぞ」
楽しげに見つめるユトロに、ナユタナは腕を擦りながら首を横に振った。
「それは断る。全身を舐められてはたまらん」
残念そうにする男に、森人はじりじりと後ずさる。
薬壺のもとまで戻ると、それを大事に抱えた。
風魔法を巧みに操り、治癒魔法まで使う──
ナユタナは人狼の魔法に興味が湧きはじめた。
しかし、もう少し話したいと思ったところでユトロは立ち上がる。
「そろそろ俺は王都の宿へ戻ろう」
「部屋で休んでいかぬのか?
私はあんなに大きな寝床は使わんぞ」
自分の家ほどあると言うと、男は笑った。
「暗いうちに走らねば目立つからな。
ナユタナの顔を見られて満足だ」
「そうか、気を付けてな。土産を楽しみにしているぞ」
今朝できなかった挨拶を交わし、ナユタナも笑みを浮かべた。
露台を飛び降りたユトロが風の速さで見えなくなるのを見送った。
薬壺を抱え、酒瓶を忘れずに持ち、森人は静かに部屋へと戻った。
露台にはやがて、夜の香りだけが満ちていった。




