五(第十二話)
「新しいシーツを、お持ちしました……」
部屋の戸が叩かれ、大きな眼鏡をかけた女中マルナが、シーツと枕を抱えて入ってきた。
しばらくして再び戸が叩かれ、マルナがまた、今度は給仕車で食事を運んでくる。
廊下を二往復し、マルナは頼りない手つきで小卓に夕餉を並べた。
給仕は本来フィーラとミリヤの役目だが、厨房から廊下まではミリヤが運び、部屋の前からはマルナが引き受けていた。
ミリヤは顔色を失っていた。
「ほう、ミリヤはフィーラに押しつけられ、マルナはミリヤに押しつけられたか」
ドロナの笑い声に、ナユタナとマルナはびくりと飛び上がった。
「立派な眼鏡だな。少し見せてくれないか?」
「ええと、これはおじいちゃんの形見でして……どうぞ」
マルナはおずおずと眼鏡を外してナユタナに渡した。
森人の暮らしには、視を補う道具という発想が薄い。
知識としては知っていても、実物に触れるのは初めてだった。
分厚い眼鏡をかけたナユタナは、室内をぐるりと見回した。
「おお……なんとも妙だ。
世界がぐにゃりと縮んで見える……
遠くが霞んで、頭がくらくらするぞ」
「マルナは近眼か?
じいさんのをそのまま使って、不便はないのか?」
眼鏡で遊ぶナユタナの言葉に、ドロナはマルナの目を覗き込む。
マルナはもじもじとしながら答えた。
「これがないと、ほとんど見えないので……」
「町の鍛冶族の店で調整してもらえばいいと思うがね」
「え……そんなことができるんですか?」
鍛冶族と聞いて、ナユタナは眼鏡をかけたまま身を乗り出す。
「おお! その店に行ってみよう。私もついて行くぞ」
「近眼だけであれば、難しくはないだろう。
硝子を扱う店が領内にあるはずだ。なぁ、執事殿」
ドロナが戸口のダランへ話を振る。
「ドルガンの店か。奴は金貨でなければ相手にせんぞ」
それを聞いてマルナは肩を落とした。
「すまないな、話が先走った」
三人のやり取りを聞き、ナユタナは首を傾げた。
「……どうした? 高いのか?」
「使用人の給金は月に銀貨一、二枚ですので、かなりの高額かと」
部屋と食事に加え、勤めの衣も支給されるため、給金は妥当な額だとダランは言う。
ナユタナはマルナに眼鏡を返し、くらくらする頭を振って目を瞬かせた。
ふと顔を上げると、目の前にマルナの前掛けがあった。
「なんとこれは……ポモカではないか。
この地では、バリナと呼ぶのだったか。
……この刺繍は、マルナが自分で入れたのか?」
「え……? あ、はい。印代わりに縫いました」
ナユタナは前掛けの裾を手に取り、刺繍をじっくり眺めた。
首の長い冬毛のバリナが、色糸でまるで本物のように描かれている。
使われている色数は少ないが、隣り合う糸の色が目の上で自然に溶け合うように置かれ、糸の密度によって地の白が巧みに生かされている。
マルナの小さな刺繍は、まるで絵画のように美しかった。
「目が悪いのに、見事だな……そうだ、良いことを思いついたぞ!」
ナユタナは書き物机へ行き、靴を脱いで椅子によじ登った。
隣の棚の紙を背伸びして一枚取り、インクを含ませた羽軸へ魔力を通して、さらさらと描き始めた。
描き終えるとそれを持って戻り、ダランの前に広げて見せた。
「どうだ、ダラン。悪くはなかろう」
そこには大樹海に棲む地竜が描かれていた。
ダランの瞳が縦に細くなり、紙の上へと鋭く向けられた。
「マルナの目が良くなれば、もっと細かな刺繍ができるようになると思わぬか?
大きな壁掛けに、この絵を刺繍させるのだ。
作るなら、私が下絵を描こう。どうだ?」
「ふむ……」
「その絵は地竜だが、ユトロが倒したという“血宴の赤竜”にしても良いと思う」
その言葉に、ダランの耳がぴくりと動いた。
「……一マールの壁掛けなら、考えてもよいでしょう」
ダランの呟きに、ドロナがマルナを小突く。
「え? あ……はいっ!
そちらの絵ですか……い、いちマール?!
作れなくはありませんが、材料を用意して頂かないと……」
「材料は私が用意しよう。
では眼鏡代として、女中マルナに壁掛けの制作を依頼する」
ダランがそう決めると、マルナより先にナユタナが喜んで飛び跳ねた。
「これで鍛冶族の店へ行けるな!」
「ナユタナ様、こちらは私めが頂いてもよろしいので?」
地竜の絵を手にするダランは、それを懐へしまおうとしていた。
「構わぬぞ。本物を見れば、もっと見栄えの良い図も描けるのだが……
ユトロは竜退治に私を連れて行ってはくれんようだしなぁ、残念だ……」
ナユタナはちらちらとダランを見上げた。
ダランは黄金の瞳を細めて視線を逸らし、ゆっくりと戸口へ向かう。
「娘が戻ってきたようですね」
「娘……?」
ダランが戸を開くと、マーヤが息を切らして駆け込んできた。
「つ……摘んで、参りました……!」
肩で息をするマーヤは、籠いっぱいの薬草を抱えていた。
「お食事中でしたか……」
和やかな部屋の空気にマーヤは言葉を詰まらせ、寝台を見る。
布団がもぞもぞと動き、マーヤは目を見開いた。
「……おねえ……ちゃん……」
耳に届いたかすかな声に、寝台へ駆け寄る。
リーナがぼんやりと宙を見つめていた。
「あぁリーナ……よかった……」
力が抜けたように、マーヤは床に膝をついた。
その様子に、ナユタナたちも思わず立ち上がった。
△ ☽ △
「私めは執務室へ戻ります。何かあればお呼びください」
リーナが目を覚ました後、ダランは窓際の小卓を、食事ごと見事に移動させた。
さらに書き物机の椅子と化粧台の箱椅子を運び寄せ、給仕車を卓代わりにして二人分の水と食事を整える。
用は済んだというように、ダランは部屋を後にした。
あまりの素早さに、女中たちは手伝うこともできず、その場に立ち尽くしていた。
「ダラン様がいたら、あたしたち要らないんじゃないでしょうか……」
その完璧な仕事ぶりに、マーヤは女中としての立つ瀬を失い、肩をすくめた。
マルナは所在なさげにおろおろとしていた。
「私もこちらで頂いて、よろしいのでしょうか……」
「ここで私と二人きりでは、リーナも寂しかろう。
私も、大勢で食べる方が好きなのだ」
リーナは布団の上で体を起こし、背を枕で支えて座っている。
寝台の小卓には、蜜入りの果実水とパン粥が用意されていた。
ダランが厨房に用意させていたものだ。
「どれ、リーナ。食べさせてやろう」
「私がやりますよ、ドロナさん」
「マーヤ、あんたは少し休め。
動き回って腹も減っているはずだ。
それを食べ終えたら、いくらでも代わってやる」
ドロナが笑いながら寝台に座り、リーナの口へ匙で粥を運ぶ。
リーナは礼を言い、少しずつ食べ始めた。
「ナユタナ様、ドロナさん。妹をありがとうございます。
リーナはこの後、従者棟へ連れて帰ります」
リーナの熱が下がった今、ナユタナの寝台から妹を移さねばならない。
マーヤは女中としての務めを思い出し、そう申し出た。
しかしナユタナには、まだ試したいことがあった。
「それはいかん。リーナの治療はまだ終わっておらん」
「ですが、ここはナユタナ様の寝台です」
「私はリーナと一緒で構わん。
この寝台は二人で使っても十分な広さだからな」
主人の大切な客人と病み上がりの妹を、一緒に寝かすわけにはいかない。
マーヤは慌てて言葉を返した。
「では、あたしの部屋の寝台をリーナに使わせましょう。
あたしは今夜、付き添います」
ナユタナは、治療には天蓋が都合がよいと考えていた。
魔法を隠すにも、月光を避けるにも使えるからだ。
「ならば、私がマーヤの寝台を使わせてくれ」
その提案に、ドロナも女中たちも揃って首を横に振った。
「それはいけませんよ」
「ああ、それは駄目だろうよ」
「流石にそれは……」
四人が困り果てていると、戸が叩かれ、ダランの声が聞こえた。
次の瞬間、床の隙間から一枚の紙が差し込まれ、一同は息を呑む。
端に座っていたマルナが急いでそれを拾い上げ、ナユタナへ差し出した。
「ダランからか……なぜ手紙なのだ?」
小さく呟きながら、二つ折りの紙を開き、ナユタナは目を通す。
「おお、今夜はユトロの部屋を使ってよいそうだ。
ふむ。よって、しばらくリーナはこの寝台で治療を受けてもらう。
問題なかろう?」
「ここで……?」
不安げにリーナが呟く。
「マーヤと一緒に寝るといい」
ナユタナはダランの指示として姉妹を言い包めた。
マーヤとリーナはようやく笑顔を見せ、ドロナも安堵の息を漏らす。
ただ一人、マルナだけが首を傾げていた。
「ダラン様は執務室へお戻りだったのでは……?
こちらの話を、どうしてご存じなのでしょう」
「あまり深く考えるな。
この屋敷は、そういう場所のようだからな」
不思議がるマルナに、ドロナがやれやれと肩を竦めて答えた。
△ ☽ △
今宵の月は細く淡い。
月光による魔素の“闇化”はほとんど起こらぬはずだ。
明日からは新月。
地上の魔素が落ち着く二日間の安定期に入る──
ドロナは、ナユタナから聞いた話を女中たちにもわかるようにかみ砕き、月光への注意を促した。
ナユタナは薬草を潰しながら、その様子を静かに見ていた。
「迷信ではなかったのですね……」
マルナは月光を浴びると体調を崩すことがあり、ドロナの話を深刻に受け止めた。
「あたしは、なんで平気なんでしょう」
「私も同じ体質らしい。
影響を受けない者がいるせいで、ここまで問題とされずにきたんだろうな」
マーヤとドロナが不思議がる様子に、ナユタナも頷いた。
「私もその話については、半信半疑であった。
だが実際に魔素を取り除くことで、リーナの熱は下がった。
人族に体内の魔素を排す力が足りないのは、明らかだ」
ナユタナは床にあぐらをかき、ドロナの薬鉢で治療に使う薬を作っていた。
そばにはトルナ酒の陶瓶があり、ときおり口に含んだ。
「この話は、私が少しずつ屋敷の皆に説明していこう。
マルナとマーヤは、夜外へ出る者に注意を促す程度に留めてくれ。
大騒ぎになっては困るからな」
ドロナの言葉に、二人の女中は静かに頷く。
リーナも寝台の上で頷いた。
月光の話を終えると、ドロナはナユタナの話を紙にまとめるため、従者棟へ戻ることにした。
マーヤはドロナの鞄を持ち、彼女と一緒に部屋を出た。
マルナは薬壺を煮沸しに、厨房へ向かった。
「ナユタナさま……」
部屋に二人きりになると、リーナの目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
ナユタナは薬草を潰しながら、森人の古い歌を静かに口ずさんでいる。
「……ありがとう、ございました……」
リーナは救われたことへの礼を言った。
だがその面持ちは暗い。
少女はこれからの日々を思い、重たい不安を胸に抱えていた。
ナユタナは何も聞かず、優しい声で歌い続けた。
屋敷の部屋に戻ったマーヤは、リーナの着替えと、従者棟に置き忘れていたナユタナからの贈り物を手にしていた。
薬作りに忙しいナユタナに代わり、それを渡すと、リーナは新しい長衣の柔らかな生地に触れて喜んだ。
その後、マーヤに体を拭いてもらい、服を着替えた。
ほどなくして、殺菌を終えた薬壺を抱えたマルナも戻った。
ナユタナは潰し終えた薬を壺に移し、やがて自らもマルナに手伝われて体を拭き、寝間着に着替えた。
それから薬壺を抱え、部屋を出る。
寝室までの案内に、マルナがついていった。
「旦那様のお部屋は、突き当たりの一番大きな扉です」
「おお、両開きのあの部屋か。さぞ広いのだろうな」
「ナユタナ様……」
マルナが不安げに声を落とした。
「リーナは……大丈夫なのでしょうか?
あの子、ずっと無理をしているように見えました」
「うむ、どうであろうな。あとはリーナ次第だ」
どこか距離のあるナユタナの返事に、マルナは肩を落とす。
手にした二つの灯がゆらゆらと揺れた。
マルナはそれを確かめるように、足取りを慎重にした。
「あの……眼鏡のこと、ありがとうございます」
「鍛冶族に会えるのだ。私こそ礼を言おう。
しかし一マールとは、大きすぎではなかろうか。
必要なら、ダランにもう一度、私が交渉するが」
「いえ、きっと作ります」
刺繍には布を張る道具が要る。
大きな布地には不向きだが、切り分けて縫い合わせれば可能だろう。
むしろそれを生かし、タイル画のように仕立ててみたい──
マルナは胸元で手を握りしめ、その場で小さく息を吐いた。
突き当たりまで来ると、マルナは扉を開けてナユタナを中へ通す。
「ここから先は……お一人で行かれますか?」
「うむ、あとは自分でできるぞ」
「ではこちらを」
マルナは灯を一つ差し出した。
「……どうぞごゆっくり、お休みくださいませ」
不慣れな挨拶をして、マルナはそそくさと戻ってゆく。
マルナは厨房で、ダランから指示を受けていた。
ナユタナに灯を渡し、扉の先へは進まず戻るように──そう釘を刺されたのだ。
初めて入る暗い部屋で、ナユタナが不便ではないかと心配にもなったが、ダランは「案内は手紙に記してある」と言っていた。
マルナは一度だけ振り返り、灯の芯を確かめると、静かに従者棟へ戻っていった。




