四(第十一話)
担架を担いだ女中たちは従者棟を出て、浴み小屋の脇を通り、西側の庭から屋敷の裏口へ辿り着いた。
マーヤが木戸を叩き、中の者を呼んだ。
「どうした……ひっ──!」
太った前掛けの男が顔を出すや否や、悲鳴を上げて戸を勢いよく閉めた。
「え……ちょっと、ハスロさん? 閉めないでください!
リーナを運び入れるんです!」
「おお、あの男もか」
ナユタナは、ハスロが術の影響を受けて怯えたのだと悟った。
マーヤが慌てて取っ手を引くが、内側に鍵が掛けられており、戸は動かない。
「あんた、勘弁してくれよ!
こっちは病人を抱えてるんだ!」
フィーラが必死の形相で叫ぶと、すぐに鍵の外れる音がして、別の男が顔を出した。
片腕のグレンだった。
「さあ、入ってください。
足元が……その、滑らないように気をつけて」
石の床には水溜りができており、跡を辿るとハスロが屈み込んでいるのが見えた。
フィーラは目を瞑り、しかめた顔を背けた。
その背後で、ナユタナが憐れむように呟いた。
「漏らしてしまったか……」
その声は静かな厨房に響いたが、誰も聞こえぬふりをして通り過ぎた。
戸を開けていたグレンは、ナユタナの背を無言のまま鋭く見送る。
階段の前まで進むと、ダランが待ち構えていた。
「ずいぶんと面白いことになっておりますね」
「ちっとも面白くないぞ。
ダランよ、リーナを私の部屋まで運んでほしいのだが」
「ええ、お任せください」
担架を下ろし、括っていた紐を解く。
ダランは毛布ごとリーナを軽々と抱き上げ、階段を上っていった。
フィーラとミリヤはマーヤに礼を言われ、複雑な面持ちのまま、ナユタナの視線に怯えてその場を立ち去った。
厨房の奥では、ドロナの容赦ない笑い声が響いていた。
△ ☽ △
「ナユタナ様の寝台で、よろしいので?」
「うむ。天蓋があるから、ここがちょうど良い」
ダランが寝台にリーナを寝かせた。
天蓋の布を確かめたナユタナは、光を遮る厚みに満足した。
書き物机には、頼んでいた紙が用意されていた。
靴を脱ぎ、椅子によじ登ったナユタナは、羽の束から利き手に合う一本を選んだ。
椅子の上に立ったまま、腰の短剣を抜き、羽軸を慎重に削る。
昨日の失敗を思い出し、ナユタナは刃を動かさず、軸の方をわずかに回して形を整えた。
ペン先が仕上がると、文鎮の下から紙を一枚抜き、インク壺の蓋を開ける。
ナユタナはペン先に魔力を通し、インクをゆるく震わせた。
術によってわずかな粘りが加わり、インクは滑らかにまとまる。
何度も浸さずに筆記するための、森人の生活の知恵なのだ。
そこへダランがやって来て、紙の束を隣の棚に移した。
広くなった机の上で、ナユタナは黙々と植物の葉や草を描いてゆく。
やがてドロナが部屋に姿を見せると、ナユタナの後に立ち、机上を覗いた。
「ほう、上手いねぇ」
「ドロナよ、これらの名を教えてくれるか?
私の知っている名と違うと困るからな。
施術の間、マーヤに集めてこさせようと思うのだ」
目的を察したドロナは、間違いがないよう効能も添えて示してゆく。
「これはリュミール草だな。清護の作用をもつ。
こちらはフルナ草、鎮痛の効果がある。
これはルカナ草、血の巡りを良くする。
このリオフェの葉なら、私が持ってきているぞ」
「おお、流石だな。あとは……そうだな、トレンダも入れておこう」
書き終えたナユタナは、インクが垂れぬよう吸い取り紙を重ね、文鎮で優しく擦った。
「中庭で採れるものもあるが、林に行かなければならない草もあるぞ。
マーヤだけでは危なかろう」
「あたし、一人で大丈夫です。
先に林で採れるものを取ってきたいので、ドロナさん、どれがどこにあるか詳しく教えてくれませんか?」
水を汲んで戻ってきたマーヤが、ナユタナから紙を受け取る。
ナユタナが胸元から笛を出すと、ダランがそれを止めた。
「それはナユタナ様にしか使えぬ笛でございますよ。
娘のことは、私めがここから見張ってやりましょう」
笛を吹くには魔力が要るらしい。
マーヤに渡そうとした笛を、ナユタナは再び胸元にしまった。
そしてナユタナは、ダランが竜族であることを確信する。
この場所から離れた地点を見ることができる魔法はそうない。
昨日、門を開いたのもダランであるなら、それは“領域支配魔法”であろう。
ナユタナは目を輝かせた。
この屋敷は、ダランにとって“巣”なのだ。
巣と定めた領域に魔力を行き渡らせ、縄張りを把握する目と耳を持つ──
それは、竜族特有の魔法術であった。
薬草の採取に向かうマーヤに、ダランが魔物除けの灯を渡した。
「ありがとうございます、ダラン様」
「マーヤよ、これも持ってゆくといい」
ナユタナも碧晶の短剣を渡した。
人族の地には、盗賊のような同族を襲う輩がいる。
身を守るための武器も必要だろう。
マーヤは礼をして、駆け足で出て行った。
△ ☽ △
「さて、マーヤが戻るまでに済ませるとしよう」
書き物机の椅子から降りたナユタナは、マーヤの運んで来た水桶のもとへ、裸足のまま向かう。
ナユタナはそこで、とん、とん、と跳ね、踊るようにくるりと回った。
不可思議な森人の動きとともに、空気の揺らぎを感じたドロナは腕を擦った。
ダランの目には、ナユタナが、部屋の魔素を体に集めたのがわかった。
「ダランよ、部屋に誰も入らぬようにしてくれるか?
覗かれぬよう、窓も閉めてほしい」
「承知いたしました」
ダランが魔法を展じると、部屋の空気が静まり返った。
一瞬にして光が閉ざされ、ドロナは息を呑む。
「……私はここにいて、平気なのか?」
ユトロやダランが魔法を使うことには薄々気付いていたが、こうして目の前で見るのは、ドロナにとって初めてだった。
「ダラン、ユトロには魔法を見せるなと言われているのだが、ドロナは信用できる人間か?
できればドロナには、ここで話を聞かせたいのだが……」
ナユタナが小さな声で尋ねると、黄金色の瞳が暗闇に光った。
「息子夫婦には少し難がありますが、この者は人族の中でも分別がございます。
愚かな真似はしないでしょう」
寝台脇の灯がふわりと独りでに灯った。
ダランは扉の前に立ち、黙って室内を見張っていた。
「よし。ではドロナよ、そこで見ていてくれ。
私のこの考えが確かなら、きっと役立つ知識となるだろう」
ナユタナは桶の水をすくい上げ、掌を滑らせるように魔力を流し込む。
水は塊となって浮かび、彼女の指先の動きに合わせて形を変える。
指を払うと、その水塊は床を這い、敷物を避け、窓際の椅子の脚へと向かった。
椅子の脚を僅かに持ち上げると、滑らかに寝台のそばへと運ぶ。
ナユタナは空の桶を床に置き、踵を鳴らして水を呼び戻す。
水はひと筋の流れとなり、再び桶へと戻っていった。
ドロナは口を開けたまま、ただ見入っている。
ダランも顎に手を添え、森人の魔法に感心していた。
「ドロナも、月光の毒については薄々気付いていたのではないか?」
ナユタナは椅子に登り、体内の魔素を練り上げて掌に集める。
土属性の術だ。
その手をリーナの体にかざすと、掌が淡く光った。
ドロナの目にも、微かな光が見える。
「月光そのものに毒はないのだ。
だが、月光は魔素の質を変えてしまう──」
魔素とは、月と地上のあいだに生じる“引き合い”から、絶えず生まれ続けるものだ。
夜には月光を受けて“闇魔素”へと変じ、重みを帯びて地表に滞りやすい。
月光とは、日の光が月面で反射し、闇の性質を含んだ光である。
昼夜を問わず降り注ぐが、日中は日の光が勝り、闇化は中和され、上空へ散りやすい。
「──この当然の理を、人族は知らぬのではないか?」
静かな沈黙が部屋を包んだ。
ドロナは目を丸くしたまま、ただ立ち尽くしていた。
理解が、追いついていなかった。
彼女の知識は、魔素が魔力に変わるという程度のものだったのだ。
人族には魔法使いが少なく、魔素の性質を理解している者はほとんどいない。
ゆえに“魔素が変質する”という考えは、知られていなかった。
ナユタナの掌に、リーナの体内から淡い光が寄り集まってゆく。
それは魔素そのものだった。
「闇魔素は重く、地上に沈む。
朝日を浴びると質が戻り、軽くなって空へ舞う。
光を帯びれば“光魔素”となり、さらに高みへと昇る──」
空気中を漂う魔素は、夜になると再び地上へ沈む。
夜に外へ出ると、それを体内に取り込みやすい。
だが魔法を使えぬ者は、それを魔力へ変えられず、体内に溜め込むことになるのだ。
「──人族の多くが魔法を使えぬというのなら、彼らは皆、知らぬ間に魔素を抱え込んでいるということだ」
始祖ウルラは人族に“何も与えなかった”というが、森域のような安全な領域も、魔素を扱う術も与えなかったとすれば──
それはあまりに酷である。
ナユタナの手に集まる光が強まり、リーナの体から魔素が抜けてゆく。
少女の険しかった表情が、次第に穏やかに変わった。
「月光を浴びると体調を崩すという話は、体内の魔素が月光に反応するからであろうな」
だが、誰もがそうなるわけではない。
魔素や月光への耐性、あるいは無意識に魔素を魔力へ変えている者がいるのかもしれない。
“月光の毒”が迷信で終わるのは、そうした例外が一定数いるからだろう。
「──さて、これでリーナはしばらく問題ないぞ」
椅子から降りたナユタナは、書き物机の前に置いた靴を取りに向かう。
ドロナはリーナの様子を確認した。
熱は確かに下がり、息も脈も安定していた。
今は疲れ切って眠っているようだった。
「リーナは危なかったぞ。胸の奥に魔石化の兆しがあった。
魔素に呑まれた者がどうなるか、ドロナは知っているか?」
ナユタナが急いでリーナをここへ運ばせたのは、それを防ぐためだった。
ドロナはリーナの小さな手を握り、目を閉じて頷く。
「体の中に石を作り、血が滞って死ぬ。
そして人の形をした魔物になることがある。
それを祟りや呪いと言う者もいるがね」
ドロナは、魔素が魔物を生み出すことを知っていた。
もしリーナがそうなっていたなら、自らの手で少女を葬る覚悟をしていた。
魔物化の症例は稀だが、薬師の間では知られた現象だ。
若い頃、薬師の両親を手伝っていたドロナは、その惨状を何度か目にしている。
家業を離れて料理屋へ嫁いだのは、その記憶が原因だった。
「うむ。魔素に呑まれて死した者は、動物であれ人であれ、魔物と化す。
無意識では魔法は扱えぬはずだから、どの種族にも、魔物化の恐れはあると言えよう」
「魔物化の境目はどこにある?
どの瞬間まで覚悟せねばならぬのか、知りたい」
ドロナの真剣な眼差しに、ナユタナはわずかに頷いた。
「魔物化は、死したと見なされた者にしか起こらぬ。
そこは誤解してはならぬ」
ナユタナの声は低く沈む。
「鼓動が止んでも、脳が完全に死に切っていない場合、魔物化が起こるらしい。
意識は戻らず、肉体だけが魔石に操られて暴れ出す。
……首を落とせば倒れるのも、そのためだ。
魔石の力が血のように全身を巡り、頭が肉体を動かすのだろう。
死後のこわばりを過ぎれば、魔物化の恐れはないとも聞く」
ドロナは魔物化した患者を、両親が手にかけた日のことを思い出した。
その行為が正しかったのだと知り、胸のつかえがすっと取れる。
「貴重な話を聞かせてくれて、感謝するよ」
「暴走した仲間の体を止めるのは、勇敢な者の役目になってしまうからな。
知識で心が軽くなるなら、私はいくらでも話そう」
ナユタナがそう言い終えると、部屋にはしばし沈黙が落ちた。
看病した者の家族に罵倒された両親の背を思い出し、ドロナは目頭を熱くした。
「勇敢な者……その通りだ」
今は亡き両親を、彼女は改めて尊敬した。




