三(第十話)
「マーヤが来たところで熱は下がるでしょうか……」
つぶやくようにオルザが問うと、隣に立つ年老いた女は、いつになく厳しい表情を浮かべていた。
「難しいだろうな。だが二人っきりの姉妹だ。
今回は危ない気がするよ。姉がついてやったほうがいい」
寝台でうなされているリーナの傍には、女中長のオルザが不安げな面持ちで立っていた。
隣にいるのは屋敷の薬草師、ドロナである。
ドロナは、若い頃に薬師であった両親を手伝っていた経験があり、息子の紹介でこの屋敷に入り、今は使用人の治療を任されていた。
「それで、あんたたちは持ち場を離れて何しにここへ来た」
部屋にはオルザの他に、屋敷の厨房から女中が二人来ていた。
ドロナの息子の嫁であるフィーラと、彼女といつも行動を共にするミリヤだ。
「まあまあ、お義母さん。
リーナに蜜入りの果実水を作ってきたんです」
「お屋敷の方が調味料も揃っているし、栄養のあるものが作れるからさ。
ドロナさんの食事も持ってきたよ。朝から何も食べてないだろう?」
女中たちは、食事を入れた籠を差し出した。
二人の言葉にオルザは眉を寄せ、ドロナは真っ赤な顔で怒鳴った。
「私に寄越すんなら、従者棟の食材を使いな!
勝手に旦那様らのものを使うんじゃないよ!
それを持って、さっさとお帰り!」
ドロナの怒りにフィーラたちは困った顔を見合わせる。
「リーナが苦しんでる時に、大きな声で怒鳴らないでくださいよ。
旦那様って、たかが雇われの冒険者じゃないですか。
ここは領主様の別荘なんですから」
「そうですよ、ドロナさん。ほんの少し分けて貰っただけです。
厨房の賄いと変わりませんって──」
オルザが低い声で言った。
「盗みをしている自覚がないのですか?
それを持って執務室へ行き、ダラン様に同じことをお話しなさい。
でなければ私が報告します」
二人の前に立ったオルザは、視線で出口へと促す。
厨房の使用人たちはハスロを中心に、屋敷の主人を領主と考えている者が多い。
ユトロの前では怖くて何も言えないのだが、彼らの中でユトロは、領主に雇われた平民の冒険者だった。
「盗みって、そんな言い方ひどいじゃないか」
「リーナとドロナさんのために作ってきたんだよ?」
「自覚がないのは、普段からやってるってことか?
厨房はお前たちの店じゃないんだ。好き勝手するんじゃない!
さっさと謝ってきな!」
ドロナが再び怒鳴ると、文句を言いたげな顔で二人は部屋を去ろうとした。
しかし──
「……大きな声が聞こえたが、リーナは眠っているのではないのか?」
従者棟に入った途端、怒鳴り声が響き、ナユタナはマーヤにしがみついていた。
「今のは薬草師のドロナさんの声です。
ドロナさんはユトロ様みたいに、おっかないんですよ」
「それは本当か? 私は怒鳴られたら、倒れてしまうぞ」
ナユタナはそわそわとマーヤの後ろに回り、彼女の長衣に身を隠そうとした。
「ナユタナ様、そんなところに入らないでください……!」
「だが……だが……」
「ほらもう着きました」
マーヤが部屋に入ると、女中のフィーラとミリヤが不満げな顔で籠を抱えていた。
「こ、こんにちは……フィーラさん、ミリヤさん……」
室内の剣呑な雰囲気に、マーヤは恐る恐る挨拶をする。
フィーラとミリヤは、厨房を中心に仕事をしている女中だ。
フィーラは料理長ハスロの妻で、ハスロは商業ギルドから正式に雇われている男だった。
それゆえ使用人たちは、誰も強くは言えない。
夫の肩書を鼻にかけるフィーラ、そのフィーラと仲が良いのがミリヤであった。
マーヤから見る二人の女中は、近寄りがたい大人だ。
「ちょうど良かったよマーヤ──」
「いいよミリヤ。私たちはお呼びじゃないのさ。行こう」
マーヤに果実水だけでも渡そうとしたミリヤを、フィーラが止めた。
マーヤの後ろにいたナユタナは、そっと顔を出して室内を見回した。
──次の瞬間、女中たちは大きな音を立ててひっくり返った。
「ヒイィィィッ!!」
「あぁ……あぁ……」
一人は籠を投げて部屋の隅で丸まって震え、もう一人は腰を抜かして倒れたまま、青い顔で目を剥いている。
落ちた籠から食事が床に散らばり、果実水が流れ出た。
ナユタナは驚いて飛び上がり、マーヤの後ろで縮こまった。
「マーヤ……これは、どうなっているのです?」
オルザは言葉を失い、ドロナは眉をひそめたまま女中たちを見ていた。
「それより──リーナはどうですか?」
「ああ……ご覧のとおりだよ。意識が戻らない。
いつもの熱とは少し違うね」
部屋の状況も気になるが、マーヤにとっては妹の方が大事だ。
ドロナも頭を切り替えて、マーヤをリーナのそばへ通した。
それからドロナは、マーヤの腰にしがみついているナユタナを見つめた。
「さて、これはあんたの仕業か? ナユタナ様とやら」
ナユタナは混乱しつつ、頷いて返す。
「騒がせてしまってすまない……私もよく分からんのだ。
寝てる間にユトロが何かしていきおった。
護符のようなものだと思う」
「旦那様の魔法か」
ドロナはやれやれと目を瞑った。
△ ☽ △
オルザとサーラが散らかった部屋を静かに整え、マーヤはリーナの枕元で、ただ息遣いだけを見守っていた。
ナユタナは、ドロナが用いた薬草の記録を手に取り、看護が正しくなされていたと知る。
「サモンとヨルン、フィーラとミリヤねぇ……
ふむ、だいたい察しはつくな。
旦那様は面白い魔法を使いなさる」
「あと、家畜と私もだ。
頭をな……ええと、鏡で見たとき、ぞっとなったのだ」
魔法で確かめたことは伏せておく。
ナユタナを見てドロナは肩を竦めた。
「おや、あんた自身と家畜まで効果があるとはな。
ならばそれは、一つの作用だけではなさそうだな」
「ドロナは魔法に詳しいのだな」
「まさか。人族で魔法が使える者は滅多にいない。
私も使えんし、詳しいことは何も知らんよ。
だが、旦那様があんたのためにかけたとなれば、話は別さ」
ドロナは戸口の前で立たされているフィーラとミリヤを見て笑った。
体を寄せ合う二人は、青い顔で震えている。
「ナユタナ様……」
マーヤに縋るような目で見られたナユタナは、リーナを覗き込む。
リーナの額には家畜の膀胱で作られた水袋が当てられているが、その水はすぐに温くなった。
ナユタナはリーナの頭や胸に手を当てた後、少女の瞼を開いて瞳を確認する。
「リーナが目を悪くしたのはいつだ?
目玉の硝子が熱で曇ったのだろう?」
「三年前です。あたしたちの家はパン屋でした。
火事になって焼けてしまって……
その時リーナは目を患い、熱を出すたびに悪くなっていきました」
両親もその時失ったのだが、言葉に出すと涙が出てくるので、マーヤはそれだけを伝えた。
「リーナは昨日、マーヤが屋敷に向かうのに、ついてきたのではないか?」
「え……? ついてきたといいますか……」
昨日の夜、ナユタナ付きの女中に手を挙げたマーヤは、私物を屋敷の二階に運ぶための身支度をしており、リーナはそれを手伝ってくれた。
荷物を屋敷へ運ぶ時に、従者棟から一往復したという。
「これまでずっと、一緒の部屋で生活をしていたので、お別れのような気持ちで……
手伝いたいと言ったリーナを、止めませんでした」
遅い時刻まで働かせたことを、マーヤは申し訳なく思う。
「リーナが夜、どのくらい外に出ていたのかを知りたい。
浴み小屋はどうだ? 片付けを終えたのは遅かったか?
何度か外へ出たのではないか?」
「え……えっと、はい。
湯桶の水を捨てるのに、一緒に外へ出ました。
桶の底を洗うために井戸のそばで作業をしていて、リーナは気を利かせて灯を持ってくれていました」
ナユタナはそれを聞いて頷き、一度息を整えた。
「ふむ。担架はあるか?」
「どうするんだ?」
「この病の原因に、心当たりがある。
私に任せてくれるか?」
これ以上自分にはどうしようもないと考え、ドロナはナユタナに任せることにする。
マーヤもナユタナには知識があるのだと信じ、お願いした。
壁に立て掛けられていた担架を、オルザが床に広げた。
サーラはナユタナの指示でリーナを布団から出し、毛布で包む。
「リーナは今から私の部屋で看護をする。
ドロナも一緒に来てくれ」
「ああ、もちろんだ。
フィーラ、ミリヤ! リーナを運ぶのは、お前たちだよ!」
隅で震えていた二人は、真っ青な顔で首を横に振った。
体が強張ってしまい、落としかねぬと断る。
「そこで突っ立って仕事をさぼっていたんだ。
このくらい役に立ってもらわないと困る」
「ドロナさん、リーナはあたしが背負って行きます。
妹を落とされたら困りますよ」
「馬鹿を言うんじゃない。意識のない者の体は重たいんだ。
それにね、あの二人は今後のためにもやらなきゃならないよ」
この場で病人を運べる者は限られていた。
オルザは屋敷の仕事に外せず、サーラは足が不自由、マーヤは背丈が心もとなく、ナユタナに至っては論外である。
体格を考えれば、二人が適任であった。
ドロナにきつく言われ、フィーラとミリヤは蒼白のままやって来て担架を担いだ。
持ち上がったところで、オルザはリーナの体を布床に紐で括りつける。
フィーラとミリヤの額には脂汗が流れ出ている。
不安そうに見つめるマーヤに、フィーラは目をやった。
「……落とさずちゃんと連れて行くから、私たちに任せな。
ミリヤも、大丈夫だろ?」
「あ、ああ……行ける」
二人のその様子に、ドロナはフンと笑った。
「厨房を通って行きな。一番近い入り口はそこだからね。
マーヤとナユタナ様が先導しておくれ。
屋敷へ行ったらナユタナ様の指示に従うんだ」
ドロナは看護に必要な道具を集め、オルザがそれを鞄に詰めた。
「オルザとサーラは、残りの仕事を頼むよ。
マルナを見かけたら、ナユタナ様の部屋に新しいシーツと枕を運ぶよう伝えてくれ」
「わかりました。あとはお任せください」
ドロナは笑ってオルザの背を叩いた。
「あんたが一番頼もしいね」




