一(第一話)
「七千八百」──男爵が札を上げて言った。
「八千」──ユトロ
「八千百」──男爵
「八千百。他に入札はございませんか?」
「……百万グローネだ」
あまりにも桁外れな額が、口にされた。
ユトロが札を掲げると、会場は一瞬で静まり返った。
観衆の視線が互いを探るように交わり、ささやき声が小さく満ちた。
競売人は売り手のメルグリスをちらりと見やり、目を瞬かせた。
「英雄殿、百万でお間違いないか?」
低く問いかけるのは、メルグリスだ。
「間違いない」
メルグリスは頷き、競売人は改めて会場を見渡した。
「……他に値をつける方は、ございませんか?」
男爵は隣の痩せた男に目を向けたが、相手は首を横に振る。
「一度問う。二度問う……これにて落札と致す!」
木槌の乾いた音が響き、見物客の間から自然と拍手が沸き起こった。
歓声は渦のように広がり、会場全体が熱気に包まれる。
ここは小規模な競売場だが、その日ばかりは庶民の見物客で溢れていた。
近ごろは他領からの客も増え、町は活気に満ちている。
珍しい異種族の娘が売られると聞きつけ、貴族や商人たちも顔を揃えていた。
△ ☽ △
ユトロは、町外れの屋敷へ続く石畳の小道で足を止めた。
大男の右手には、小さな手が握られている。
長いぼさぼさの金髪。みすぼらしい服を着た裸足の子ども。
細い首には赤い痕が残っていた。
先ほどまで、『魔封じの首輪』がはめられていた痕だ。
奴隷商の小男──メルグリスは、首輪に鎖を繋げて差し出した。
ユトロは眉を寄せ、無骨にそれを払いのける。
そして首輪を両手で掴み、盛り上がる腕に筋を走らせた。
みしみしと黒鉄の輪を軋ませ──ねじ切った。
鉄塊が落ち、土埃が舞った。
その怪力に、あんぐりと口を開けたのはメルグリスだけではない。
小さな奴隷もまた、男の巨体と力に震え、地べたにへたり込んだ。
差し出されたごつごつの手に怯えられ、ユトロは面倒になって子どもを小脇に抱え、店を出た。
外へ出たユトロに、町の人々が笑顔で寄ってくる。
「ついに買ったのかい?」
「白餅が出たっていうじゃないか」
「ただの白餅じゃない、百万さ。思わず声が出ちまったよ」
「さながら祭りだったねぇ」
滅多に拝めない白金貨を、庶民は“白餅”と呼ぶ。
精白された高価な粘粉を口にできるのは、貴族や大商人くらいだった。
気さくな声を遮るように、ユトロは無言で歩みを早める。
そんな態度に、人々は朗らかに笑った。
照れくさいのだろうと、皆そう思っていた。
「英雄の旦那、ようやく嫁さんを手に入れなさったよ」
「これでやっと、若い娘たちも安心して外に出られる」
町のざわめきは、ユトロの話題で溢れていた。
小鬼の店に通っていたこと。
色街での噂。
鍛冶族の娘が泣いて命乞いした話。
明るい夜は騒がしかったと笑う者もいれば、今の色街は危険すぎると嘆く者もいる。
「だが、あんな小さな子に務まるのか?」
「森人だって話だ。大樹海から売られてきたらしいぞ」
「いやいや、子どもにすぎん。小鬼が騙されたんだ」
ユトロの腕に抱えられた子どもは、そんなざわめきのすべてを耳にしていた。
正しい噂も、嘘の噂も──まだ判じられぬ。
それでも彼女は、耳にした言葉を一つひとつ心に刻んでゆく。
「どちらにせよ、英雄様に買われたんだ。幸いだろうて」
どこへ連れて行かれるのかと怯えていたが、英雄だと知ると、わずかに希望が芽生えた。
町外れの道で下ろされ、細い足で立ちながら、おどおどとユトロを見上げる。
なぜ自分が、この男に買われたのか──
彼女には、まだ理解できなかった。
△ ☽ △
彼女の名はナユタナ。
小柄な種族なので人族の子供に見えるが、それでも森の民としては一人前だった。
大樹海の集落にいたナユタナは、少し変わった性格のせいか協調性に欠け、単独で行動することが多かった。
ある日、いつものように森域を抜けて狩りをしていたところ、小さな跳獣に後ろ足で蹴られた。
思わぬ衝撃に驚いて倒れ、そのまま意識を失った。
目を覚ました時には、人族の荷馬車の檻に押し込められ、奴隷として売りに出されていた。
魔道具の首輪をはめられ、魔法で逃げ出すこともできなかった。
魔封じの首輪──ずいぶん立派な名だと、ナユタナは眉をひそめる。
鉄に埋め込まれた魔物の核のせいで、正しく魔法が発動しない仕組みらしい。
だが、これほど多くの魔物の核を使う必要があるのだろうか。
対極の属性を反発し合う位置に嵌め込むだけでも、調整次第では同じもの──いや、それ以上のものを造り得るはずだ。
この魔道具には無駄が多い。
おかげで首輪は分厚く、重かった。
属性を理解しているとは到底思えぬ拘束具に、ナユタナは疑問を覚える。
森人の集落は、古の魔法で隠された“森域”にあり、常に安全な地であった。
だがナユタナは、そこからこっそり抜け出して狩りをしていた。
ゆえに攫われても誰も気付かず、ユトロに買われるその日まで助けは来なかった。
荷馬車の上で目覚めた時、逃げることを真剣に考えるべきだったと、ナユタナは自分の甘さを悔いた。
人族の世界に興味が湧き、縛られたまま黙って山を越えてしまったのだ。
そして商品として運ばれ、売られてしまった。
ナユタナが連れてこられたのは、森域から遠く離れた人族の地、ヴァードラン領の領都フォルトナであった。
身分や事情が分かれば解放も不可能ではないと、奴隷商の小男は言った。
だが森人であることを隠し、出自も語らない彼女には、それを証明する手立てがない。
人族を装ってみても、ギルドに届け出を行える仲介者がいなければ、奴隷商と交渉することもできない。
それ以外に自由を得る道は、身請け金を払うことだけだと小男は説明した。
森人族には金銭の文化がない。
森域に戻れたとしても、人族に価値ある品をナユタナは持っていない。
自分を買った大男と、今後は交渉しなければならない。
果たして何を差し出せばよいのか──ナユタナは考え込んだ。
町で拾い集めた声を整理すると、不可解な話が彼女の胸を曇らせる。
どうやら自分は“嫁”として買われたらしい。
だが大男には、対等な人族を娶れぬ事情でもあるのだろうか。
それにしても、子を産ませるために迎えるには、私はあまりにも小さすぎる。
ナユタナは声を殺して唸り、渋い顔で頭を捻った。
「お前に名はあるか?」
掛けられた声に、ナユタナは思わず身をすくめた。
この男の声が、どうしても怖い。
威圧的というより、肌の内側にまで響くような不気味さがあった。
姿も雰囲気も恐ろしいが、それ以上に、その声そのものが耐え難い恐怖を呼び起こした。
「俺はユトロだ。
ここでは英雄などと呼ばれているが、たまたまそうなった。
山里育ちで、特別な身分なんてものはない」
差し出された手を、ナユタナはおずおずと握った。
男の手の感触が、どこか不思議に思える。
「私はナユタナ……です。
三度の明月より前は、大樹海に暮らして……」*
男がまともに名乗ったので、ナユタナも思わず返してしまい、声が小さくなった。
ガナン大樹海は広く、森域は容易に探せるものではない。
始祖ウルラの時代に施された古の魔法で守られている。
それでも余計なことを言ってはならないと、ナユタナは慎重になった。
盗賊や奴隷商人の前で、彼女はほとんど口を開かなかった。
それでも正体を気付かれていたのだろうか。
今日の競売で、驚くほど高額で落札されたのだ。
学んだばかりの金銭感覚でさえ、その額が尋常でないことは理解できた。
最後まで競り合っていたのは、男爵と呼ばれていた派手な人物とユトロだった。
入札の度に、痩せた男が男爵に耳打ちしていた。
その鋭い視線が、ナユタナにはひどく恐ろしく思えた。
木槌が打たれた瞬間、胸の奥から安堵がこみ上げた。
あの男に買われなくてよかった、と。
「ナユタナ……ナユタナか。綺麗な響きの名だ」
「大樹ユタのもっとも深い根と、一番高い葉という意味……で、ございます」
ユトロに褒められ、ナユタナは説明を付け足した。
奴隷商に強制されたぎこちない言葉遣いが、なおさら幼く響く。
ユタの木は花も香りもなく、大樹海のどこにでも生えている。
そのずんぐりとした幹を、ナユタナは不格好に思っていた。
それでも名には、「強く根付き、天へ伸びよ」という意味が込められている。
森人にとっては、ありふれた願いであった。
しかしユトロの笑顔は変わらず、ナユタナの小さな不満は届いていないように見えた。
「あの……あなたの手は、獣のような……」
勇気を出して尋ねてみたが、男の鋭い眼光に怯み、声が細くなる。
ユトロはふっと笑みを浮かべ、ナユタナの手を引いた。
だがすぐに立ち止まり、目の前の立派な屋敷を険しい顔で見上げる。
面倒そうに眉をひそめると、再びナユタナの手を引いて歩き出した。
「あの大きな屋敷が、あなたの……家なのですか?」
ユトロが貴族の豪邸に向かうので、ナユタナは不思議に思って尋ねた。
男の格好は冒険者のものだ。
上等品ではあるが、あの豪邸の持ち主にはとても見えない。
森から出たことのないナユタナでさえ、そう感じた。
「ああ、そうだ。これからはお前……ナユタナの家でもある」
「私の……?」
「うむ。俺も最初は、そういう反応だったぞ。掃除好きなら喜ぶだろうがな」
ユトロは笑いながら、ずんずん歩く。
ナユタナは慌てて、後を追うしかなかった。
裸足の足裏に小石が食い込み、思わず顔をしかめる。
*“三度の明月”はおよそひと月半。
この世界の月は十四日で満ち欠けを一巡し、二十八日をひと月とする。




