15話 恋慕侵食との邂逅
世界が動き出してからも、真歩と霧島の生活は変化を見せることはなく、いつも通り穏やかなものだった。
真歩といえば、相変わらずグレーな拘束時間を掲げる仕事へ毎日足を運ぶし、馬車馬の如くキーボードを叩くし、帰宅後の自炊なぞ手のかかることは毎日できずにいた。
しかし、自身でも説明できずにいる行動が増えつつあるのも確かだった。会社の昼休み、たかだか霧島が以前立ち寄ったと言うカフェでコーヒーを一杯買っただけなのに、写真に収めてしまう。帰宅中の、なんでも無い一コマで霧島とのLMINを確認してしまう。帰宅後の余暇の時間に次に霧島と行くなら、と新しい居酒屋のレビューを延々と探す。
――霧島、霧島、霧島。片想いをしている同性の友人がやたらと脳内を占拠してしまい仕方ない。スマホをスクロールしている指がぴたりと動きを止めてしまう。一日中霧島の形跡を辿る様な生活を送っていた事実に顔が赤らんでいく。「思春期の子供みたい…」喉元まで迫り上がった言葉に脳みそを焼かれているみたいで、湯気が立ち上っているのではないかと不安になった。揺らついた瞳は画面を見つめている様だが、内容は一切頭に入って来なくて、その奥にある霧島の笑顔を妄想しては見つめている。
隣に並んで歩いてくれるだけ、タバコを吹かす時に側を許してくれるだけ。たったそれだけの妄想で真歩の心は恥じらいと期待で忙しくなっていく。10代の頃に忘れてきた〝恋愛〟と言うものもバカには出来ないな、と自傷気味にスマホを持った手ごと瞳を隠した。
安心する自宅での暗闇は暖かくて、酷く眠りを誘う。送風するエアコンの音、白煙を吐いている加湿器の音、体を動かす真歩自身の心臓の音……。そのどれもが体から力を抜いていき、寝転がったソファに溺れていく。遙か彼方の宙を思わせる浮遊感。温度を持った星々が真歩の周りで眩いては悠久の時を費やして消えていく。本来、真空の宇宙は凍てつく寒さだと言うが、今真歩の居る宇宙はとても心地よい。穏やかな風と安心する匂いに包まれて、漆黒に浮かぶ美しい星々を眺める。そこには強すぎる光も、寒すぎる極寒も無く、ひたすらに真歩の存在を迎え入れる様に存在しているだけだった。
「(――霧島の、宇宙に歓迎されたみたいだ)」
口から溢れなかった言葉は、真歩の中で確実に形を成していく。真歩の宇宙は、何も無い。それは、はっきり自分でも自覚している事実でしかない。きっと今、視覚いっぱいに広がっている希望や将来の色を瞬かせている此処は紛れもなく霧島の宇宙だろう。
夢を大成させていてもなお、大人になりきれていない真歩と、飽きもせず会ってくれる、話してくれる、愛しい存在……。――真歩が知りうる中でいちばんの、大人。
空想の世界ですら真歩の自己肯定は低いが、もうそんな事では傷付かない迄に歪な成長をしてしまった。そのことに真歩は気づいていない。ましてや、瞳を覆った先の霧島の宇宙に浮いていられる事すら誇らしく感じていた。
――ピロンッ
手に持っていたスマホが震えて、真歩の浮かぶ宇宙が一瞬にして四散した。急に引き戻される現実の行き先は変わらず真歩の自宅で、宇宙も霧島の影もない。慌てて飛び起きた真歩は、振動したスマホを目前で立ち上げる。LMINの差出人は、宇宙の創造主で真歩の心は再び忙しなく動き始めた。
「今書いてる話で星の描写出てきてさ」
突然始まった霧島とのLMIN会話に、終着点の無さに真歩は瞠目した。普段も世間話はそこそこするが、経験は少ない。それ故に霧島の動機がわからず感情が宙へ垂れ下がる。
「そうなんだ、難しそう」
「うん。でもちゃんと見たことなくて…」
卓越した知識を持ち合わせているあの霧島が、言葉を濁したのがとても珍しい。今も昔も変わらず、インプットされた知識から発される雑学は幅広く深い。スマホから目を離せず次に送られてくる文をひたすら待った。
「プラネタリウム行ってみようかと思ってる。良かったら一緒にどう?」
単純だな、と真歩は思った。それなのに、嬉しさで震える指はいつまでも返信を打てないでいる。心臓は簡単にドキリと音を立て、真歩を内側から急かしていく。
いつでも変わり映えのない居酒屋に2人で足を運べている事ですら満足していた真歩からしてみれば、プラネタリウムなんて非日常に思い人である霧島と行けるなんて想像もしていなかった。
過剰なロマンチックを期待しているわけでも、求めていた訳でもない真歩には刺激の強すぎる誘いで、戻れないところまで行ってしまうのが非常に怖くもある。――でも。戻りたくなんて無いのかもしれない、真歩はぼんやり過去を反芻した。
霧島の看病をして家を出た時に思った事。『もう……昔に戻りたく無いや……』その時につぶやいた言葉は誰にも聞かれず冬の温度に溶けていったが、真歩の心には根付いてしまっていた。彩のない生活を消費していただけの真歩に、色を与えてくれた霧島。気づけば彼に惹かれ、隣に有りたいと思ってしまう。灰色の世界に真歩1人で戻る選択肢はとうの昔に潰えていた。
「行きたい」その衝動が真歩の中でじんわりと広がっていく。せっかく誘ってもらえたから、なんて優しい動機などではなく、真歩の意思のみがそこにはある。
「おれも、行きたい」
端末上を滑らせて霧島へ返答を打つ。余りにも簡素すぎて逆に疑わしい様な返信を送ってから後悔した。送信時間の横に〝既読〟の文字がない事から、霧島は一度スマホから離れていると思われる。1秒ずつの経過が酷く待ち遠しかった。拒絶されるかも、疑われるかも……。そういったネガティブな感情が頭を占領させたが、当の本人からの返信はまだ無い。
食い入る様にスマホ画面を見つめては、己の粗を探している真歩。些細な返信一つでも、後から見返せば心のリソースをもっと割くべきだった、と後悔してもしきれない。途端に落ち込む気分の中、音もなく真歩の返信に〝既読〟がついた。
先ほどまで迷走していた気持ちが一度リセットされて、霧島の返事を待つ方へ心が切り替わった。
不安で仕方なくなった真歩は、ソファの上で上体を起こし誰に言われるまでもなく自然と正座してスマホを見つめていた。知らず知らずのうちに呼吸を止めていたみたいで、細く上下する腹と、ゆっくり落ちていく冷や汗。終止符が打たれなければ真歩の生命活動が終わってしまうのでは……。そんな不安の中、ぽこんと場違いなほど軽い音を立てて霧島のメッセージを受信した。
「サンキュー、じゃあ今週末行こう」
呆気なく承諾された予定に、真歩は生きた心地がしなかった。地に足つかぬ心情は、約束を取り付けたとしても終止符が打たれることなく、相変わらず当日の事を考えては一喜一憂させた。霧島と会える、そんな事実だけが真歩の心を踊らせては泣きたくさせた。
初めてだった、理由を持って約束を受け入れたことが。なし崩しの選択を今まで選んだ気になっていた真歩にとっては、己の意志を持って霧島に会いにいく事がどれだけ特別で尊いことか。人と付き合う覚悟すら持てなかった真歩、彼を推しはかるにはあまりにも稚拙で霧島とて真歩の本当の喜びを理解し得ないだろう。
昂った気持ちのまま、スマホのスケジュールに霧島との予定を入れる。〝プラネタリウム〟そのひと言が画面上に表示され、居た堪れない気持ちになった。霧島との予定は、時間で見て仕舞えば、随分間がある様に思えたが、画面上で見て仕舞えばすぐ近くの日程のように思えて仕方ない。浮き足立つ気持ちを一瞥して思考する。間違っても遊びではなく、武灯冬一の資料調達で誘われたに過ぎない、そう思わないと心臓が破裂してしまいそうだ。真歩は再び目を閉じた。
暗い室内に映し出される人工的な光、肩を並べて空を仰ぐ。それを見る為に他でもない自分を誘ってくれた霧島。そんな彼に感謝してもしきれない……。しかし、武灯としての小説のため、その体を崩してはならない事ぐらい成人した真歩なら心得ているつもりだ。ただ、わかっていても嬉しいものは、嬉しい。
「週末、早く来たらいいのに……」
急かす様な、待って欲しい様な気持ちの真歩には、恋愛は難しすぎる。でも確かに、霧島とのたった1日を期待せざるを得なかった。宇宙の旅人は、希望と不安を抱えて再び宇宙の世界を漕ぎ出した。




