刑部里はビートをきざむ
808のキックが、湿ったコンクリートを叩いていた。
夜の底に染みついた酒と煙草と、湿った息の匂いを、低音が押し流していく。
地下の小さな箱の奥で、女がフードを目深に被り、片手でパッドを叩き、もう片手でノブをなぞる。
指先に触れるたび、光るボタンが赤く瞬き、ひとつ鳴っては、ひとつ沈む。
808の低い鼓動は、客の胸を叩き、奥歯を揺らし、誰かの嘘を丸ごと飲み込んでいく。
背中の壁には、小さなLEDが滲んでいる。
— DJ GYOBU —
誰が付けた名前かは、誰も知らない。
知っているのは、この女だけだ。
リズムはパターンのはずなのに、女の指は止まらない。
叩き直すたびに、鳴り直すたびに、街に漏れそうな声や秘密を低音に溶かしていく。
808が深く鳴り、壁の向こうの夜を、奥底まで叩き起こす。
スパッ、スパッ。
パッドを刻むたびに、コンクリートの壁が生き物みたいに鳴る。
* * *
「お疲れっした」
相棒の808を片手に抱え、女はライブハウスの裏口へ足を向けた。
扉を閉めれば、重低音の残響も、煙草の煙も、さっきまでの熱気さえ路地裏に溶けていく。
この街で星空を拝むことはできない。
表通りのネオンが滲んで届く頃には、裏通りの闇に飲まれて色を失っている。
非常灯の下をくぐろうとしたとき、奥の暗がりから低い声が割り込んだ。
「……あの、DJ GYOBUですよね?」
足が一瞬だけ止まる。
振り向きもせずに、口の端だけで小さく笑った。
「悪いけど、出待ちもアフターも受け付けてないよ。帰りな」
808を抱え直し、足を踏み出す。
背中に、もう一度声が追いかけた。
「やっぱり……よかった。DJ GYOBU――いや、刑部里さん」
その名を聞いた瞬間、女は足を止めて、ゆっくりと振り向いた。
フードの奥で、街灯を撥ね返す瞳が暗がりの主を射抜く。
「……なんだ。依頼者か」
湿った夜気に、笑みがにじむ。
里は裏口の脇に伸びる鉄階段を指先で示した。
「……いいよ。ついてきな」
階段を昇るたび、鉄の踏板が夜気に軋む。
ギシ、ギシ、と足音が路地裏の残響に消えていく。
相棒の808が小さく軋む音を立てた。
里は片腕をずらし、それを抱き直す。
二階、三階、四階――昇るほどに、街の喧騒は遠ざかり、夜の底へ沈むようにも思えた。
錆びた鉄扉の前で、女は振り返る。
路地の闇に立つ男を、フードの奥の目がじっと射抜いた。
ギィッ――鉄のノブが、湿った金属の悲鳴を吐く。
扉が重く息を吐くと、その向こうには古いバーの空気が沈んでいた。
「マスター、借りるよ」
磨き上げたグラスを持つ店主は何の反応も示さない。
里は男を連れて奥へ進み、最奥の暗がりの席に腰を掛けた。
「座んな」
低く言われ、男は一瞬だけ戸惑ったが、里の声に背を押されるように椅子に腰を下ろした。
年季の入ったバーチェアが、短く軋んだ。
「大丈夫。マスターは協力者だから。何も言わないし、何も聞いてない」
それを聞いて、男の肩の力がわずかに抜けた。
「さて……まずは」
里は髪を払い、テーブルを指先で軽く叩く。
「名前」
「……佐藤、といいます」
「佐藤。――依頼は?」
「……あの、本当に何でも“隠せる”んでしょうか」
フードの奥、口元に小さく笑みが滲む。
「……私に隠せないもんなんて、この街にはないよ。ただ――」
里は顔を上げて、佐藤の目をじっと見つめた。
「私には隠し事はするなよ」
佐藤の喉が一度、大きく上下した。
「……実は――」
佐藤の声は、最初は震えていた。
湿ったグラスの水滴を指で潰すように、
何度も言葉が途切れた。
里は黙ったまま、テーブルの上を指先で叩いていた。
パッドではなく、木の天板をコンコンと。
相棒の808の奥で、低いキックが一定のテンポを刻んでいる。
「……それで、俺はもう全部失うしかなくて……」
コン、コン、コン――
里の指がリズムを刻むたびに、佐藤の吐息が細く滲む。
だが、言葉を重ねるほどに、佐藤の声は微かに熱を帯びた。
震えが抜け、どこかで得意げな色を含む。
「……でもこれさえ隠れれば、俺だけじゃなくて――」
コン、コン、コン。
里の指が一度止まる。
808の奥のキックが、わずかにズレた。
指先が叩き直される。
今度は少し速く、湿った音を帯びて。
コン、コン、コン、コン。
佐藤は気付かない。
誰かの秘密を、自分の秘密にすり替えた嘘。
その甘さと苦さを、熱に混ぜて吐き続ける。
「……お願いします! これさえ……これさえ、無かったことになれば……!」
額の汗が、テーブルに一滴落ちた。
里はフードの奥で息を吐いた。
「……分かった」
808の奥で、低いビートがバーの奥に沈む。
誰かの嘘が、コンクリートの壁を伝って夜の底に溶けていった。
* * *
数日後の夜。
佐藤の声は、もう震えを失っていた。
「だからさ、あいつらも馬鹿だよな。自分の秘密を抱え込んだつもりで、全部俺が呑んでやってんのにさ」
スマホの奥にいる誰かに笑いかけながら、佐藤は夜の街を歩く。
濡れたアスファルトを踏む革靴が、足元の水たまりをビートみたいに叩く。
コン、コン、コン、コン。
電話の奥から、何かを叩くような音が滲んだ。
「おい、お前どこにいるんだ? ……何の音だそれ」
コン、コン、コン、コン。
音は一定のリズムを正確に、そしてじわじわと大きく刻む。
「嘘つくなよ。絶対誰かと遊んでんだろ?」
コン、コン、コン、コン。
それは足音でも心音でもなく、
ただのビートだけが、真っ直ぐに近づいてくる。
「……おかしいな。なんだ、この音……」
佐藤が笑いながら立ち止まる。
暗がりがひとつ、路地裏に溶けていた。
「私に隠し事はするなって言っただろう」
湿った声が、背後の空気を裂いた。
振り返った瞬間、佐藤の視界から街の光が落ちた。
音は、夜に呑まれて消えていった。
* * *
ある日の早朝。
窓の外はまだ青いまま、街の喧騒が息を潜めている。
小さな台所に、一定のリズムを刻む音が響いていた。
テレビから流れるアナウンサーの声だけが、部屋の隅で乾いた残響を落とす。
「……●●日未明から消息を絶っているのは、◆◆重工の役員である佐藤――」
画面には顔写真が映るが、声と同時に、まな板の上で包丁が一定のテンポで音を刻む。
スパッ、スパッ。
小さなまな板の上には、転がる甜菜。
白い断面から滲む赤が、台所の蛍光灯に淡く照らされる。
刑部里は相棒の808を足元に置き、無言で包丁を動かしていた。
リズムはあの夜のビートと同じ。
ひとつ刻めば、ひとつ秘密が甘さに変わる。
スパッ、スパッ。
指先で赤い雫をすくって舌に乗せる。
「……うーん、甘すぎんな」
刻まれた甜菜の破片が、台所の静けさにひっそりと溶けていく。