第85話:忘れていたこと
クレアと打ち解けたフィアナさんは、トレントの爺さんの元に向かい、一緒にリンゴを収穫していた。
以前、トレントの爺さんに人を襲わないように言ってあるので、とても親切に対応してくれている。
フィアナさんとクレアが採りやすいようにと、わざわざ二人の目元まで枝を伸ばしていた。
「魔物から素材を受け取るというのは、不思議な感覚ですね」
「そう? もう慣れちゃったから、私はこれが普通に感じちゃうなー」
「クレアちゃんは、毎日こうしてトレントの果実を採取されているんですか?」
「うんっ。木のおじちゃんがリンゴをいっぱい作ってくれるからね。それで作るジュースが、とってもおいしいんだよっ」
「トレントの果実で、ジュースを……? えっ? こちらのリンゴをたくさん使って、ジュースにするんですか?」
「だって、いっぱい採れるんだもん。ねっ? 木のおじちゃん?」
返事を求められたトレントの爺さんは、クレアの言葉に応えるかのように、ポポポンッとたくさんのリンゴを実らせる。
「……」
そんなことができると思わなかったであろうフィアナさんは、開いた口が塞がらない。
これはどういう現象なんでしょうか……と言いたげな表情で、俺の方に視線を向けてきている。
「前に言ったじゃないですか。知り合いのトレントは、毎日大量に果実を実らせてくれるって」
「そうなんですが……! そうですね、そうみたいですね……」
現実を受け入れることができないのか、なぜかフィアナさんは落ち込んでしまう。
しかし、そんな彼女以上に気持ちが沈んでいるのは、軍隊蜂に囲まれたままのロベルトさんだった。
「フィアナお嬢様。果たして、私は護衛の役目を果たせているのでしょうか」
その問いに関しては、絶対に意味がないと、俺が代わりに断言してもいいところなのだが……。
ここは山暮らしの先輩であるアーリィに任せよう。
「危険な目に遭っているのは、ロベルトさんだけだと思うわ。逆にロベルトさんから離れていた方が安全な気もするわね」
「耳の痛い言葉ですな。老いぼれがこれほど体を張っているというのに」
「今、体を張る意味があるのかしら。軍隊蜂に敵意を向けなければ、すぐに受け入れてくれて、安全を確保できるわよ。ほらっ、私が近づいても警戒しないもの」
「ぬう。魔物の世界は厳しいですな……」
ロベルトさんが白旗を挙げた影響か、いつの間にか二人の立場が逆転していて、アーリィからアドバイスをもらっていた。
軍隊蜂の縄張りを調査するにしても、監視役がついているのであれば、不用意な行動は取れない。
かえって、軍隊蜂を興奮させることに繋がる恐れもあるため、慎重な対応を余儀なくされてしまう。
もう少し様子を見ないと判断することは難しいが、ロベルトさんの監視が続くのであれば、調査に時間がかかることも視野に入れるべきかもしれない。
なんとか打ち解ける方法はないんだろうか……と考えていると、森の方から蜜蝋でできたバケツを運ぶ軍隊蜂がやってくる。
その姿を見て、俺はあることを思い出した。
「ハッ! 今日は軍隊蜂にハニードロップを納品する日か。ルクレリア家のことで頭がいっぱいだったから、すっかり忘れていた」
盗賊たちの毒対策として作って以来、軍隊蜂の蜂蜜をハニードロップに加工して、彼等に渡す仕事が生まれている。
調理システムで選択するだけの簡単な仕事ではあるものの、軍隊蜂が運べるようにするため、蜜蝋で作られたバケツに入れ替えなければならない。
花の栽培から離れている俺と軍隊蜂の仲を結ぶ役割があるので、好ましい状況とは言えなかった。
急いでやらないと……と思っていると、何気ない表情を浮かべたアーリィが拠点の方を指で差す。
「トオルがいない間に来ると思ったから、私とクレアで準備しといたわよ」
「本当か? それは助かるよ」
「拠点の入り口に置いてあるわ」
危うく俺まで軍隊蜂に取り囲まれるところだった……と思いながら、アーリィとクレアが用意してくれたものを持ち出し、軍隊蜂に手渡す。
すると、軍隊蜂によるつまみ食いが始まり、ロベルトさんを監視していたものまでハニードロップに群がってきた。
「わぁ~、一つちょうだ~い」
「きゅーっ!」
一緒に釣られた者も他にいるみたいだが。
その姿を見たフィアナさんが、俺の元に近づいてくる。
「本当に軍隊蜂と取引をされていたんですね」
「あれ? 嘘だと思われていましたか?」
「いえ。ただ、実際に目の当たりにすると、印象は変わります」
多くの軍隊蜂が嬉しそうにハニードロップを食べ、クレアとウサ太まで幸せそうにしているのだから、そう思うのも無理はない。
魔物と取引しているというよりは、同じ山で暮らす仲間として、仲良く過ごしているような光景だった。
「平和という言葉の意味を、改めて学ばせていただいた気がします。カルミアの街も、こういった光景で溢れるように頑張らないといけませんね」
フィアナさんが優しいを笑みを浮かべる中、安堵の表情をしたロベルトさんがやってくる。
ハニードロップのおかげで解放されて、ホッと一息ついた様子だった。
「こういう軍隊蜂の姿を眺めている分には微笑ましいことですが、牙を向けられるのは敵いませんな」
「それはロベルトさん次第ですよ。軍隊蜂の警戒心を早く取り除きたいのであれば、周辺の草取りをすることから始めた方がいいのかもしれません」
「ほほう。この老体にそのような真似をさせてもよろしいのですかな?」
「何か問題がありましたか?」
「腰を痛めて、動けなくなるかもしれませんぞ」
なんて地味に困る反論なんだ。
さすがにこんな何もない場所で爺さんの介護をするのは、遠慮願いたいものである。
ハニードロップに満足した軍隊蜂は、ビシッと敬礼した後、それを持って森の中に帰っていった。
無論、数体の軍隊蜂がロベルトさんの監視に戻っている。
彼の存在が忘れ去られて、見逃されるようなことはなかった。
やっぱり草取りしかないか……と諦めかけていると、突然、拠点が光を放ち始める。
「あっ、まずい。拠点のレベルを上げていたんだった」
今朝、拠点のレベルを上げて外出したことを思い出したのはいいものの、これを途中で中断することはできない。
よって、アーリィやクレアの前ならともかく、フィアナさんとロベルトさんがいる前で、拠点を包んでいた光が収まり、レベルが上がってしまう。
ウッドデッキが広がっているだけではなく、二階まで増築された光景を見る限り、これまた一段と豪勢になっている。
ましてや、柵で覆われた風呂場と思われる野外施設までできているのだから、下手な言い訳はできなかった。
……さて、フィアナさんとロベルトさんにこの状況をどうやって説明しようか。
そんなことを悩んでいると、ロベルトさんが手で髭を触り、納得するように頷いていた。
「もしや、トオルさんは建造物の名がついた特殊なスキルをお持ちではありませんかな?」