第76話:シルクキャット
「シルクキャット、ですか?」
「ええ。戦いを嫌う魔物で、とても逃げ足が速いの。人間たちの間では、見かけると幸福になり、追いかけると不幸になる魔物だと知られているわね」
ニャン吉の性格や特徴とは一致しているので、間違いないとは思うんだが……。
「なんだか怪しげな話ですね」
条件付きでも不幸になる魔物だと言われると、ニャン吉をテイムした身としては、ちょっと不安な気持ちを抱いてしまった。
しかし、イリスさんが首を横に振ってくれているので、縁起の悪い魔物ではないんだろう。
「単純に、欲に溺れた人間が悪いだけの話よ。トオルさんもその子を見かけたのであれば、簡単に戦利品を得たのではないかしら」
「戦利品……あっ! 絹糸ですね」
今朝、軍隊蜂から逃亡した後、絹糸の束が残されていた。
先ほどの怪我した脚を舐めていたところを思い出してみても、ニャン吉の能力はハッキリと理解することができる。
「警戒心の強いシルクキャットが目撃されるのは、一般的に毛繕いで絹糸を生成している時なの。子供が近づくだけでも逃げると言われているから、誰でも安全に絹糸を採取できるわ」
「なるほど。そういったことが理由で、見つけると幸福になると言われるようになったんですね」
「ええ。人間が生きている限り、需要があり続ける素材だもの。今でも貴族に愛用者がいるくらいには、肌触りが良いとされているわ」
日本でも、絹糸は高級感のある素材で、肌に優しいものとされている。
ニャン吉が作り出す絹糸も、軽くて柔らかいだけでなく、しなやかで心地のいい感触だった。
生活の質が向上するという意味では、とてもありがたい素材ではあるのだが……。
こうして俺は、また一つモンスター財閥の階段を上がるんだと実感していた。
「それで、先ほどの追いかけると不幸になるというのは、なんだったんですか?」
「単純な話よ。シルクキャットを追っていくと、他の魔物の巣に誘導されてしまうの。自分で戦わない分、他の魔物に追い払わせようとする習性があるのよ」
「その結果、多くの魔物に囲まれてしまい、不幸な状況に陥ってしまうんですね」
「欲をかきすぎると失敗する、という最たる例よ。シルクキャットが悪いわけではないわ」
「じゃあ、ニャン吉が軍隊蜂の巣にやってきたのも、誰かに追われていたからでしょうか」
「わからないわ。でも、シルクキャットはこのあたりに生息しない魔物よ。やっぱり環境が変わり始めていると判断して、間違いないわね」
トレントの爺さんもそうだが、生息域が異なる魔物が集まっているのは、良い傾向とは思えない。
これにも黒幕が関与している……と考えるのは、さすがに安直かもしれないが、この地に危険が近づいているような気がした。
イリスさんも同じような心境を抱いているのか、ゆっくりと立ち上がる。
「私はそろそろお暇させていただくわ」
「あれ? 今日は泊まっていかれないんですか?」
「なーに? トオルさんは、私がいないと寂しくて眠れなくなるのかしら?」
「いえ、アーリィが寂しがるなと思いまして」
「……トオルさん、違うわ。今のは、狼狽えるところよ」
「あっ、すみません。普通に反応してしまいました」
以前にも似たようなことがあった気がする。
イリスさんは、こういうノリに人間らしさを感じるのか、意外に好きみたいだ。
単純に、心配させないようにする気遣いなのかもしれないが。
「少し気になることができたから、早めに調査しておきたいの。アーリィちゃんのことも気になるから、また顔を出すわ」
「わかりました。気をつけてくださいね」
「ええ。トオルさんもね。あっ、それとね」
何か言い忘れたことがあるのか、わざとらしくタメを作った後、イリスさんは優しい笑みを浮かべた。
「もう一つ拠点レベルを上げたら、お風呂場が作られる設定になっているわ」
「えっ? 本当ですか!? というか、それはいいんですかね。この世界だと、けっこう珍しいものになりますよね」
「でも、それが地球では当たり前だったでしょう? この世界の暮らしで窮屈な思いをしてほしくないから、早めに設定しちゃったわ」
「……ありがとうございます!」
「素材は自分たちで集めてもらわないといけないけれどね。それくらいの可愛らしい欲望であれば、お安い御用よ」
もしかしたら、料理がおいしいのも、錬金システムで作ったものが高い効果を誇っているのも、調整ミスではなかったのかもしれない。
俺はてっきり、イリスさんのおっちょこちょいだと思い込んでいたが……、考えを改めるべきだろう。
女神様の優しさを素直に受け取らないなんて、罰当たりにもほどがある!
今まで失礼なことを考えていてすみませんでした! と、心の中で謝罪していると、イリスさんが不思議そうな表情を浮かべていた。
「でも、これだけすぐに魔物と親密な関係を築くとは思わなかったわ。薄々と気づいていると思うけれど、トオルさんに与えた加護は、女神の体質の一部を複製して、譲渡したような形なのよね」
「ニャン吉がイリスさんを怖がらないのは、そういうことでしたか」
「まあね。でも、トオルさんのものは下方修正してあるから、その子もちゃんと可愛がってあげなきゃだめよ。完璧にシルクキャットを手懐けるためには、根気が大事なの」
イリスさんのアドバイスを聞いて、俺は早急に手のひらをクルリッと返すことにした。
簡単な会話でテイムできてしまったことと、すでにニャン吉に懐かれているところを考慮する限り、逆に上方修正されているような気がする。
ニャン吉は今、魔物の友好関係を築きやすくなる体質を持つイリスさんではなく、それが下方修正されたはずの俺にベッタリと懐いているのだ。
これは、調整ミスだと断言しても間違いない。
しかも、そのことにイリスさんはまったく気づいていない様子だった。
「わかりました。じゃあ、ニャン吉をもっと可愛がりますね」
「ニャーウ」
よって、下方修正されたくない俺は、話を合わせることにしたのだった。