第72話:癒しの軟膏
拠点に戻ってくると、そこにイリスさんたちの姿はなく、閑散とした雰囲気になっていた。
それが少し寂しく感じるものの、今日に限っては、心配事が減って落ち着く気もする。
「静かでよかったな」
「ニャウ」
ウサ太に驚いていたのであれば、イリスさんたちに驚いても不思議ではない。
後ろ脚を怪我しているとはいえ、驚きのあまりにまた逃亡されてしまっては、今度こそ軍隊蜂に顔向けができなかった。
そのことに気づいたのか、ウサ太は気を利かせてくれたみたいで、拠点から離れて森の方に向かっていく。
ウサ太は我が儘な印象があるが、意外に面倒見がいい。
トレントの爺さんのことも気にかけていたし、アーリィが寝込んでいた時はクレアに寄り添ってくれていた。
今回もこの白い子猫が驚いても、怒ったり騒いだりしていない。
きっと俺と付き合いが長いウサ太は、親分みたいな気持ちが芽生え始めているんだと思う。
この拠点の古株は俺だからな、と。
まあ、現実にやっていることは、面倒見のいいお兄さんであったり、ペットらしく遊んでもらったりしているだけだが。
「純粋にウサ太は、この白い子猫を守ってあげようとしていたのかもしれないな。この森であまり見かけることのないモフモフ仲間として、見過ごすことができなかったんだろう」
そんなことを思いながら、作業台の上に荷物袋を置いてやると、白い子猫は恐る恐る顔だけひょこっと出した。
「こいつ、さては自分が可愛いことを理解しているな?」
「ニャウ?」
「実際のところは、様子を見ているってところか。心配しなくても、今は誰もいないぞ」
「ニャフー」
あからさまに安堵した様子を見せているが、周囲のことが気になるみたいで、キョロキョロと首を動かしている。
脚を怪我して動き回れない分、余計に気になるのかもしれない。
早く回復アイテムを作ってやろうと思い、箱庭スキルを起動させると、衝撃的なことに気づいた。
「お前、早くもテイムされてしまったのか……?」
「ニャウ?」
本人も気づいていなかったみたいだが、箱庭スキルには、すでに白い子猫のアイコンが表示されている。
もしかしたら、俺の『少しばかり面倒を見てやるから、一緒に来ないか?』という問いに返事をしたことで、テイムが成立したのかもしれない。
今までにないパターンだが、十分に考えられる範囲だった。
今後は無意識に契約しないように心がけるとしよう。
「まあ、テイムした以上は、ちゃんと面倒を見てやらないとな」
「ニャウ♪」
「軍隊蜂の迷惑にならないようにして、俺やウサ太の言うことはちゃんと聞くんだぞ?」
「ニャ、ニャウー……」
やっぱりウサ太が怖いのか、頑張ります……と、弱気な声で鳴いているように見えた。
花を傷つける気がないのであれば、いったん様子を見ることにしよう。
躾よりも先に、まずは怪我を治してやらないといけないからな。
「回復アイテムといっても、魔物にポーションをがぶ飲みさせるわけにはいかないよな。ちょうどルクレリア家にクリームの材料となる蜜蝋を納品する予定だったし、試しに癒しの軟膏を作ってみるとするか」
すでに材料になる椿の種子や軍隊蜂の蜂蜜と蜜蝋がアイテムボックスにあるため、レシピを選択するだけで容易に作り出すことができる。
少しだけ時間がかかるので、その間に俺は、自身のインスピレーションに任せて、白い子猫に名前をつけることにした。
「……よしっ、決まった。ニャン吉だな」
「ニャウ……?」
「い、嫌なのか?」
「ニャウ、ニャウニャウ」
「そうじゃなくて、不思議な名前で驚いただけだと?」
「ニャフ!」
「じゃあ、ニャン吉に決定だな」
「ニャウーッ!」
そんなやり取りをしているのも束の間、少量だった影響か、すぐに癒しの軟膏が完成する。
軍隊蜂の蜂蜜の薬用成分がたっぷり含まれているみたいで、クリームの色は淡い黄色だった。
「これを怪我した部位に塗れば、少しは楽になるぞ。荷物袋から出てきてくれるか?」
癒しの軟膏の香りを嗅がせると、危険なものではないと判断したのか、ゆっくりと出てきてくれた。
「よしっ、いい子だな」
クリームを手ですくった俺は、痛がらないように、ニャン吉の脚に優しく塗りこんでいく。
「大丈夫か?」
「ニャウ?」
「問題なさそうだな」
癒しの軟膏はすぐに浸透するみたいで、ベタベタするようなことはない。
ニャン吉が大人しくしてくれたおかげもあり、苦労することなく、癒しの軟膏を塗り終える。
「よしっ。後は綺麗な布を巻いて、様子を見よう。ちょっと待っていてくれ」
ニャン吉の元を離れて、アイテムボックスに近づき、小さめの布を取り出していると――。
「あっ、まだ軟膏を塗ったばかりだから、舐めないでくれ」
怪我した部位が気になるのか、ニャン吉は小さな下でチロチロと舐めていた。
そういうところは伝わらないんだな、と思っていると、不思議な光景を目の当たりにする。
ニャン吉の怪我した部位が、早くも毛で覆われているのだ。
正確にいえば、ニャン吉が毛を舐めることで、急速にそれが成長しているように見える。
「そういえば、朝はニャン吉が去った場所に絹糸が落ちていたな。やっぱりニャン吉は、そういう力を持った魔物――」
ニャン吉の能力を理解した瞬間、拠点の扉が勢いよく開く。
「トオル~! 外に来て! 良いお知らせだよー!」
「ニャニャニャウ!!」
クレアの大きな声にビックリしたニャン吉は、当然のように慌てふためき、ものすごい勢いで拠点の奥に逃げていった。
「あれ? ウサちゃん、小さくなった?」
「いや、新しい猫の魔物を連れてきたんだが……。驚いてしまったみたいだな」
幸いなことに、外に逃げ出していったわけではない。
傷口が開かないことを祈りつつ、俺はクレアの朗報に耳を傾けることにした。
「ところで、そんなに慌ててどうしたんだ?」
「あのね、お湯がたくさん作れるようになったよ!」