06話 エセル
「本当は、声をかけようと思ったんだ。でも、きみが、あまりにも気持ちよさそうに眠っていたから、その、この木に登って――」
「覗いてた、ってことね?」
私がエセルの下からずい、と顔を近づけると、エセルは、うっ、と声をあげて目を逸らした。
「やだなー、恥ずかしい。私、殿方に寝姿を見られるのって、初めてかも」
「そ、そうなの? じゃあ僕がきみの最初だ」
嬉しそうに笑うエセル。
その屈託のない表情に、愛嬌あるなあ、と思わさせられた。
「私の初めてなんか、奪って嬉しいの?」
「そんな、初めてって……その、ただ、きみと、友達になりたいと思っただけなんだ」
「私と?」
「うん」
「ふふっ、物好きなんだから。こんな得体の知れない女の子がいいの?」
「勿論さ。きみは凄く綺麗だよ。その髪も、宝石みたいな瞳もね」
「む、ぐぅ……」
なんて真っ直ぐなんだろう。
さすがに茶化した私の方が、照れさせられた。
「ねえ、友達になってよ。僕は、エセル・ドレンっていうんだ。きみは?」
質問しながら、私の手を取って上下に振る。
順序が逆じゃない?
「私はイーヴァ・ケイン。村長さ……お父さまの家でお世話になってるの。よろしくね」
「イーヴァ!? そっかあ……それは、いい名前をもらったね!」
「もらった?」
不思議に思って訊き返すと、エセルは笑って誤魔化した。
「それよりさ、今日は僕、休みの日なんだ。一緒に魚釣りに行かない?」
「え、さかなつり?」
「うん。い、嫌、かな?」
魚釣り、かあ……やってみたい。
「全然嫌じゃない。行きたい!」
「そっかあ! 良かったぁ。じゃあ僕は、家から道具を取ってから行くから、湖で落ち合おうよ」
「うん!」
エセルは満面の笑顔を浮かべると、踵を返して走って行った。
「ふふ、面白い子」
私は風に靡く紅い髪をかき上げて、家へと向かった。
帰りはさすがに窓ではなく、扉から入った。
「おやイーヴァ、部屋にいたんじゃ?」
お母さまが私の姿を見て、驚きの声をあげる。
「あ、ええ。ちょっとありまして」
「やめとくれよ、そんな他人行儀なしゃべり方。まあ、いきなりは無理かねぇ」
「あはは、頑張ります」
「頑張らなくていいんだよ。ま、時間はあるから、ゆっくり距離を縮めていこうかねぇ」
お母さまの笑顔は、不思議と人を安心させてくれる、なにかがあった。
「はい、ありがとうございます。それで、その……」
「どうしたんだい?」
「あの、さっきエセルがきて、ですね。お魚釣りに、誘われました」
「あら! あの子ったら手が早い!」
お母さまは驚いて、目を剥いた。
「それでその、行っても、よろしいですか?」
その時、部屋の奥からお父さまが歩いてきた。
「んー、話は聞かせてもらったんじゃが、写本はどうする? 今から魚釣りに行くとなると、帰ってくるのは夕方になってしまうぞ」
「あ、それならもう終わりました。写本は私の部屋にあります」
「な、なんだって!?」
お父さまが、慌てて部屋から出ていく。
きっと、私の部屋に行ったんだろう。
「あ、あの何十冊もある本を、半日で写したっていうのかい!?」
お母さまも、本の存在は知っているようだ。
「はい。それもただ写しただけではありません。誤字脱字を修正し、より新しく、正確なものに書き換えてあります」
「まあ、そんなことまで……それをよく、午前中に終わらせたものだねぇ」
「が、頑張りましたので」
いくら父母とはいえ、部屋で起きた、あの出来事は話せない。
まだ自分でもうまく飲み込めていない。余計な心配をかけてしまうかもしれないので、まだ胸にしまっておこう。
その時、私の部屋から「おおおおおお!」という、お父さまの声が聞こえてきた。
怒りの叫びじゃない。驚嘆の声だった。
きっと写本の出来に、喜んでくれているに違いない。
マナを使った不思議な現象がなんだったのかはわからないけれど、私が考えていたことを、信じられないくらいの短時間で成し遂げた。
もしこの力を、自在に使い熟せたら。
私がそんなことを考えていると、額をこつん、と小突かれた。
「これからエセルとデートに行くんだろ? そんな険しい顔をしていたら、折角の美人さんが台無しだよ」
「なっ、ちっ、違います。デートとかじゃ……」
急にお母さまにそんなことを言われ、動揺する。
「あっはっは、若い男女が魚釣りに誘うっていうのは、ここいらじゃデートの申し込みなんだよ」
「へっ! そそ、そうなのですか!?」
「まあいいさね、行っておいでよ。でも暗くなる前には帰るんだよ。もしイーヴァが帰ってこなかったら、エセルの奴を――」
「ありがとうございます行ってきます!」
なんだか怖いことを言われそうだったので、私は話を遮って外へと飛び出した。
まさか、魚釣りにそんな深い理由があるとは知らなかった。
私は湖に向かって走りながら、昨日からの怒濤の時間を思い返す。
真夜中に、ずぶ濡れで倒れてて、記憶もなくて、坂道を下って村長であるお父さま、お母さまの家に保護されて、娘になって、今日は村を案内された。
今日は一日かけて写本をやろうと思っていたら、なにがなんだかわからないうちに終わって、エセルがきて、友達になって。
さ、魚釣りに誘われた。
それでも、まだ私は自分が誰なのかわからない。
どこに住んでいたのか、何歳なのかも、全然思い出せない。
ただ言えるのは、昨日からずっと胸の奥底に溜まった澱のような違和感が、私を不安にさせているということだけだ。
これは一体、なんなんだろう。
そんなことを考えていると、もうマールの湖に着いてしまった。
そこには私と同じくらいの年代の子が十数人、魚釣りに興じていた。
はあはあ、と息を切らせていると、周囲の視線が私に集まっていることに気づいた。
そしてここには、特に多くの青いマナが浮いている。
そっか、青いマナは水の象徴なんだ。
辺りを見回すと、エセルの姿がない。
私は仕方なく木陰に行って座り、所在なさげに俯く。
はらり、と紅い髪が視界に入った。
「私は……?」
またそんなことを考え出す。
あの古語で書かれた文献を、瞬時に写した法術。
やっぱりあれを、いつでも使えるようにしたい。
でも、あの時の私は意識が遠のいていて、どうやってマナを操っていたのか、全くわからない。
嘆息していると、ざっ、という足音が複数、耳に入った。
いつのまにか、私は三人の男の子に囲まれていた。