03話 マナ
イーヴァという美しい名をもらった、その日の朝。
お母さまから食事と、綺麗な白いシャツに下着、そして黒いローブを与えられた後、父が村を案内してくれた。
マールの村は、本当に美しいところだった。
周囲を森に囲まれ、空気が澄んでいてとても美味しい。遠くには高い山々が連なり、このマールの村をぐるっと囲んでいる。
そして“マールの湖”と名づけられたその広い湖は、透明度がとても高く、魚釣りを楽しんでいる子供たちが可愛い。
笑顔で小さく手を振ると、子供たちは一瞬、不思議そうな顔をしたけれど、すぐに大きな声と手振りで応えてくれた。
畑に行くと、私と同じくらいの男の子が数人と、その父親と思しき男性が土を耕していた。決して広いとは言い難い農園だけれど、外界から隔絶されているこの村では、村の人たちが助け合って生活しているのだろう。
そんな畑で、一人の男の子が私に顔を向けて、目を見開いていた。
同じ年頃だろうか。亜麻色の髪についた土がまるで飾りのようで、とても快活そうな男の子だった。
「ん? あれが気になるか。あれはドレンのところのエセルだな。年は十五歳だから、イーヴァと同じくらいじゃないか。この村にはイーヴァと同世代の若者が多い。これから少しずつ、仲良くしていけばいいだろう」
「はい、そうします」
お父さまに言われて、私はエセルに目を細めて大きく手を振る。
するとエセルは身体を震わせて尻餅をつき、そのまま仰向けに倒れた。その姿がまるで硬直した蛙のようで、思わず笑ってしまった。
「とはいえ、イーヴァほど可愛いお嬢さんはここにはいないな。真紅の髪と宝石のような瞳に、透き通るような肌。まるで彫像と一緒に並んで歩いているようだ。儂まで誇らしくなってくるよ」
はっはっは、と目を細めるお父さまに「そんなこと、ないです」と、顔を熱くして恐縮した。
「しかしイーヴァは、なにもかも忘れてしまっているんだろう?」
「……はい」
「では、今が双月暦、何年かもわからないのかな?」
「そうですね。何年なのでしょう?」
ふむ、とお父さまは口髭を指で均して教えてくれた。
「今日は双月暦五一四年、五月十日だ」
「……ッ!!」
その時。
頭がずきんと痛み、その場にしゃがみ込んだ。
「どうした、大丈夫か!?」
お父さまが気遣わしそうに、背中に手を置いてくれた。
「だ、大丈夫です」
「そうか。具合が悪くなったら、いつでも言うんだぞ」
「はい」
安堵の溜息を漏らす、お父さま。
私は……嘘をついた。
双月暦、五一四年。その数字を耳にした時、もの凄い違和感を覚えた。
そして、お父さまも、ほかの誰にも見えていないようだけど、私にはっきりと見えていた。
こんな昼でも瞬く蛍のように輝いている、様々な色をした小さな光の玉が、あちこちに浮いているのだ。マールの湖では青色、そしてここでは土を象徴している茶色だ。畑にいるから、かな?
「これは……マナ?」
「うん、なんだって?」
「あ、いえ、なんでもありません。ところでお父さま、市場はどこでしょうか? これから色んなお手伝いをしたいと思っておりますので、場所を知っておきたいのです」
「おお、それは殊勝な。市場はこっちだ」
思わず口をついてしまって、慌てて誤魔化した。
(お父さまにはマナが見えてない? わからないのかな……あれ? そもそも私はなんで、あれがマナだと知っているんだろう?)
困惑に困惑が重なり、市場の場所はなんとか覚えたけれど、それ以外のことは全く頭に入ってこなかった。
日暮れの帰り道。
お父さまの家は、村の奥、坂道がある場所の手前に建っていた。あの坂道の奥から降りてきて、お父さまとお母さまの家に保護されたんだっけ。
「お父さま。あの坂の先には、なにがあるんですか?」
単純にそう思ったので訊いただけだったけど、お父さまは難しそうな顔をして首を傾げた。
「さあなあ。なぜだか理由はわからんが、先代村長だった儂の父が、あの坂の上に行くことを固く禁じたのだ。だから、あの坂に行くものは誰もいない。無論、儂も知らないんだ」
「なるほど」
では何故、私はそんなところに倒れていたんだろう。
村を一回りさせてもらったけれど、本当に湖にでも落ちない限り、あそこまでずぶ濡れになることはない。
禁じられた坂道で、ずぶ濡れで倒れていた上に、記憶喪失。
自分の謎は、深まるばかりだった。
この日の夜。
お父さまとお母さまから、マールの村の成り立ちを教えてもらった。
「先にも言ったが、この村は儂の父が引き連れていた商隊が、大都市カリーンから北東に進み、ラミナの街に到着して、そこから誤って北上してしまい、運悪く“幻惑の森”に入ってしまったのがきっかけだったんだ」
「幻惑の森、ですか?」
「うむ」
その時、お母さまがティーセットを持ってやってきた。
「この村に住んでいるのはみな、元はといえば義父の商隊にいた人たちなのよ。幻惑の森に入るとね、運が良ければ抜けられるけれど、そうでなければずっと森の中を彷徨うか、入った場所に戻されるんだ。
幻惑の森を抜けて、外界に抜けられなくなって、仕方がないからここで暮らそうってなった時に、道具も穀物の種も売るほどあったのが幸いしたのさ。なんたって、あたしらの義父は商品をたんまり積んだでたからね」
「これ、儂がイーヴァに話して聞かせようと思っていたところだったのに!」
「あらあら、それは失礼」
お母さまはころころと笑い、お茶の準備をしてくれた。