02話 イーヴァ
目を開ける。
はじめに視界に入ってきたのは、木の天井だった。
ベッドに寝かされていた。
少し固めだったけれど、なんだか久しぶりにベッドで眠った気がする。
ゆっくりと上体を起こす。
はらり、と、緋色の長い髪が、頬から流れた。
「紅い、髪?」
ぴき、と頭に痛みが走る。
眉間に力が入り、思わず頭を抱えた。
なんだろう、これ。
よくわからない。
相変わらず、名前も思い出せない。
父や母、兄弟がいたのかすら、全くわからない。
「怖い……」
まるでこの世界に、ぽっと放り出されたかのような感覚に陥り、私は腕を交差させ、両肩を掴む。
その時。
「おお、目が覚めたかね?」
優しい声の方に顔を向けると、恰幅のいい、人の良さそうな女性が立っていた。
「あの、私……」
やや、掠れ気味の声になる。
寝起きの開口一番だから、仕方ない。
「いいのいいの。あんたみたいな若い女の子が、夜遅くになにがあったのかはわからないけれど、まあ災難だったねぇ」
「すいません、ここは?」
掛け布団を握りしめながら訊ねる。
「ここはマールの村。見ての通り小さい村でね、まだまだやらなくちゃならないことがたくさんあるんだけど、いつか立派な村にしてみせるって、旦那がね」
「ということは、旦那さまが村長さんなんですね?」
「おやまあ、こりゃ随分と賢い娘さんだ。その通り、ここはこの村長、デック・ケインの家だよ。そんであたしは女房のフレース。見たとおり、いい年なもんで子供もいなくて……まあ、よろしくね」
フレースさんが手を差し出してきたので、私はおずおずとその手を握る。
長年の労苦が刻まれた、重みのある手のひらだった。
そしてフレースさんは私のことを、名前で呼んでくれなかった。
つまり私は、この村の住人ではないという可能性が高い。
「それで、あんた名前は? それに、なんでずぶ濡れだったんだい。ここんとこ晴れ続きで、作物の心配をしているくらいなのに。あんな夜中に、マールの湖にでも落ちたのかい?」
うっ、と言葉に詰まる。
それはむしろ、私が知りたいことだったから。
「それが、その、全然、わからないんです」
「わからない?」
「はい」
「名前も?」
「はい。名前だけじゃなくて、ここがどこなのかとか、両親のこととか……」
「あんれまぁ、そりゃ記憶喪失ってやつかい!?」
「……たぶん、そうかと存じます」
「そうかね、それは参ったねぇ」
フレースさんは眉根を下げて、唇をきゅっと引き締める。
「ちょっと待ってなさい」
そう言い残して、フレースさんは部屋から出て行った。
「マールの村……?」
ぽつり、と呟く。
その場所に、聞き覚えが全くなかったから。
それどころか、この世界のどこになにがあるのかすら、全くわからない。
頭を抱えて懸命に、なにか手がかりはないかと考えてみたが、結局、掠りもしなかった。
「おお、お嬢さん。気づきなさったらしいな」
その時、部屋に温和そうで、大きなお腹が特徴的な男性が入ってきた。
年の頃は五十~六十くらい。
白い頭髪が彼の歴史を感じさせ、整った口髭が、見たものに清潔さと誠実さを感じさせる。
このおじさんも、悪い人ではなさそうだ。
「妻から聞いたよ。災難だったね」
明るい声と朗らかな眼差しが、警戒した私の心を溶かしていく。
「いやあ、本当に驚いた。昨晩、あんな遅い時間に君のような可愛らしい女の子が、ずぶ濡れでドアの前に倒れていたからなあ。よもや村の若いもんが、またなにか悪さをしたのかと思ったが……そもそも儂が君を知らんのが不思議だのだ」
「私を知らない?」
「この村のことは、村長である儂が一番よく知っている。だから君がこの村のものではないことくらい、一目でわかる。しかも、ここには旅人など、そうそう入れないのだが……君は、どこからきなさった?」
「それは――」
ベッドの上で困惑していると、いつの間にか村長さんの後ろに立っていたフレースさんが、村長さんの後頭部をコツンと、軽く拳で叩いた。
「あんた馬鹿かね! 記憶喪失の子が、そんなことを知ってるわけないだろう?」
「おお、そうだな、そうだよな」
フレースさんに叱られて、村長さんはその大きな身体を丸める。
どうやら村長さんは、フレースさんに頭が上がらないようだ。
「それでは、名前もわからんのかね?」
「はい……思い出そうとしては、いるのですが」
沈痛な瞳を床に落とすと、フレースさんがどかどかと近づいてきて、私の両肩をバシッと掴んだ。
痛い。
「イーヴァ」
「はい?」
唐突に言われ、目が丸くなる。
「あんたの名前だよ。ここで暮らすにしても、どこに行くにしても名前は必要だろうに。あんたは今からイーヴァ・ケインだ。ここはあたしと旦那しかいないから、記憶が戻るまで、いや記憶が戻っても、あたしたちの子として、ここにいてくれないかい?」
フレースさんの突然の申し入れに、目を瞬かせる。
「お、おい、お前、その名前は――」
村長さんが、何故か狼狽えた。
「いいんだよ。こんなに可愛くて、綺麗な真紅の髪と瞳を持ってる女の子だなんて、素敵じゃないか。あっという間に、村の若い男どもがイーヴァを見ようと、引っ切りなしに集まってくるよ!」
「まあ、それは、そうだろうな。お前がいいというのなら儂も大歓迎だが……どうするね、お嬢さん。君はマールの村のイーヴァでいいかね?」
村長さんに優しく言われて、涙が溢れた。
自分のことも、この場所も、なにもかもわからない。
そんな私を、温かく迎えてくれようとしてる。
それが、嬉しかったんだ。
「お父さま、お母さま。イーヴァを、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた。
溢れさせた涙は、こんな私の親になってくれたお父さまとお母さまによって、掬われた。