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空を飛ぶ妖精達のお話

作者: 七羽思案


「シエル。あんたまたやったの……?」

 太陽が沈んで、代わりに月と星が空を照らす頃。建付けの悪いドアがぎぃと鳴ると同時に、呆れた声が飛び込んできた。

「あぁ、いやその……」

咄嗟に言い訳をしようと振り返ると、僕よりも高いところにある顔は書いて字の通りの膨れっ面で、これはごまかせないなぁと悟った。

「はい……またです」

言い訳を諦めて肩を縮こめながら答えると、相手はこれ見よがしなため息と共にドアを潜って部屋に入ってきた。灯りがないから、僅かな月光しか差さない、狭くて暗いこの部屋でも、それ自体が光っているように輝く金髪。薄汚れて袖なんて殆どない僕の服と違って、真っ白でゆったりとした服に、カーディガンを羽織っている。

「何見てんの」

「いや!なんでもないよ!」

じとーっと細められた目は大きな緑色。宝石みたいだって以前言ったら、何言ってんの!って怒られたっけ。

 彼女は、アルス。この施設の偉い人の娘——つまりはお嬢様だ。僕らがお嬢様を名前で呼ぶと大人に怒られるから、僕らはみんな、彼女をお嬢様とか、お姫様って呼ぶ。

僕の隣までやってきたお嬢様は、手に下げていた箱を地面に置いて、腰を下ろした。

「ほら、手当てしてあげるから。そのボロボロの服脱いで」

「はーい。それにしてもすぐボロボロになるんだもんなぁ、この服」

言われるままに服を脱ぎつつ文句を呟くと、あんたのせいでしょ。と鋭い突っ込みが飛んできた。

「何度も経験してるじゃない。この施設の上空に貼ってあるワイヤーには電気が流れてるって」

「そうだけど……」

「それに、ただ電気で痺れるだけじゃなくて、大人達にも、その……叩かれたりするんでしょう?」

「うん。でももう慣れちゃったから平気だよ?」

「慣れたって……」

呟いたきり黙ってしまったお嬢様の、治療の手をなんとなく見守る。腕や顔の傷を拭いたり、布を当てたり。テキパキと動く手は最初のころと比べてずいぶん早くなったように感じる。

「ねぇ」

「え?何?」

「どうして、そんなに空を飛びたいの?」

静かな声だったけど、その質問にはふざけて返しちゃいけないような気がした。

「えーと」

なんて言ったらいいかを少し考えて、思いつかなかったから思ったままを口にすることにして、口を開く。

「飛ぶのは楽しいんだ。風に包まれて、自分の体が持ち上げられるあの感覚。体がふわーって軽くなったみたいで、胸が弾むんだ。それに」

「……それに?」

「空は、自由なんだ」

ピタリとそれを聞いたお嬢様の手が止まる。

「自由……?」

「うん。飛んでいる時の僕の周りには、光と風だけしかないんだ。怒ってばっかりの大人も、体が痺れるワイヤーも無い……」

「……もし、そんなものが本当に、あるんだったら……」

そうやって話しているうちに治療を終えたらしく、お嬢様は、持ってきた箱に道具を締まった。パチンと音を立てて箱が閉じると同時に、お嬢様がぽつりとつぶやく。

「私もいつか……空を飛んでみたい……」

凄く悲しい声だった。いつも腰に手を当てて怒ってばっかりのお嬢様の、こんなにも、箱が閉じる音にすら掻き消されそうな小さな声は、初めて聴いた。元気づけてあげたい。そんな想いが溢れて、ゆっくりと離れていくお嬢様の白い手を、思わず握ってしまった。

「え……?ちょ、シエル!?」

慌てるお嬢様の目を。宝石みたいなその目をまっすぐに見て、僕は思い浮かんだ言葉をそのまま口に出す。

「じゃあ、一緒に飛ぼう!僕がお嬢様を抱えてさ、二人で飛ぶんだ!きっと楽しいよ!」

「た、楽しいよってあんた……」

「重くても大丈夫だよ!太陽が出てればお嬢様なんて軽々持ち上げられるよ!」

「重くてって……あんたねぇ!」

ポカンとした顔から一気にいつもの怒り顔になったお嬢様を見て、なんだかおかしくなって僕は笑う。それに毒気を抜かれたのか、お嬢様はため息を一つ吐いて、困ったように笑った。

「じゃあ、約束ね」

お嬢様の手を放して小指を立てると、

「わかった。じゃあその時はお願いね」

いつもの調子に戻ったお嬢様が小指を絡めて来る。

「指切った!」

二人で声を合わせて言うと、なんだかくすぐったくて。僕らは小さく笑顔を交換した。

「お嬢!いつまでかかってるんです?治療が終わったらすぐ出てこいっていつも言ってるでしょう!」

そんな暖かい空気を、野太い声がぶち壊した。施設の大人達だ。

「ごめんシエル。私もう行くね」

「うん。ごめん引き止めちゃった。手当してくれてありがとう!」

「いいのよ」

小さく、早口で言葉を交わしてお嬢様は小走りに部屋を出て行った。大人とお嬢様の会話が少し聞こえて、やがて消えた。あっという間に部屋は静寂に包まれて、なんだか肌寒い。

でも。

「いつになるかなぁ。お嬢様と空を飛ぶの」

 約束を結んだ小指だけはまだ暖かくて、心までも暖めてくれるようだった。



「遅かったな」

父の待つ部屋に入るなり、父はこちらを見向きもせずにそういった。

「ごめんなさい……ちょっと、今日は傷が多かったの……」

その威圧感にもごもごと答えると、父は鼻で笑った。

「つまらん嘘を吐くな……おい」

「うす」

合図を受けた大人が、噴霧器のようなものを持ってくる。それを受け取った父はその噴口を私に向け、無造作に引き金を引いた。薬のような匂いのする霧が飛んできて、服や髪を濡らしていく。父は眉一つ動かさずにその霧を何度も何度も発射して、服から水滴が落ちるくらいになってようやく霧の発射を止めた。

「濡れた床は掃除しておけ」

冷たい。いや、温度の全くない声で父が吐き捨て、部屋から出ていく。それについていく大人が、びしょ濡れの私に向ける嫌な視線のほうが余程可愛げがあった。

「雑巾……今持ってないや……」

仕方なく着ていたカーディガンで床を濡らす消毒液を拭く。カーディガンだって濡れているから、焼け石に水でしかないけれど。父はそれもわかってやったんだろう。完全に嫌がらせだ。わかっていても、何度やられても。

 頬を涙が伝ってしまうのを、止められる気はしなかった。


父は、この施設の研究者で、研究対象はシエル達妖精だ。私がまだ小さい頃にできたこの施設は、父がなにやら強引な手段で作ったらしく、父は表舞台から弾き出されたらしい。母はそんな生活に嫌気が差して出て行って、置いて行かれた私は妖精達と一緒にこの施設で生活している。父は私を愛情故にこの施設に置いているわけじゃない。自分たちは得体のしれない妖精に触れたくないからと押し付けられた、妖精達の治療係。それが私の役割だった。

 この施設に居る大人たちは、蛮族のような人ばかりだ。子供のような外見の妖精を平気で叩き、蹴り、苦しい実験を行っては私に治療を押し付ける。治療なんて言ったって、薬があるわけじゃない。簡素な布あてと消毒くらいが関の山で、手当てなんて名ばかりだ。それでも、妖精たちの怪我はすぐに治るし、いつだってニコニコと笑っている。大人たちはそんな妖精達を家畜のように扱い、棒で叩いて遊び、それでも笑っている妖精達を馬鹿にして嗤う。不愉快だったし、なによりも怖かった。

「自由に……」

なれたなら。私は子供で、この施設から出ることも、出た先で行くところもない。表舞台から弾き出された父は警察に追われていたし、その娘である私もきっとただじゃ済まない。

「みんなみたいに、私も空を飛べたら……」

シエルと指切りをした感触が小指に蘇って、また涙があふれてきてしまう。

「もう……」

床の掃除が終わらないじゃない。




「ねぇ……またなの……?」

「あ、はは……」

昨日と違い、カーディガンでも、ゆったりとした服でもなく、簡素なシャツに身を包むお嬢様は、目を真ん丸くして呆れた顔をしていた。僕は苦笑いで応えるしかなかった。昨日の夜の約束が嬉しくて、どうしてもまた空を飛びたくなった僕は、電気の流れるワイヤーの隙間を探して飛び回った。お陰で何回もワイヤーに触れてしまって、髪の毛がなんだか焦げ臭い。

「その髪……どうしたの?」

「なんか電気で焦げちゃったのかなぁ?」

「電気って……ワイヤーに何度も触らないとそうはならないわよ!それとも大人にやられたの……?」

「うーんと、1、2、3……」

ワイヤーに触れた回数を指を折って数えていると、お嬢様は小走りで駆け寄ってきて僕の手を包んだ。

「やめて。なんでそんなに……。あなただって痛いでしょう!?あのワイヤー、人が触れたら怪我じゃ済まないって聞いてるのに」

「うーん痛いけど……。でもやっぱり空を飛びたいよ。それにね、今日見つけたんだ!なんとか潜れそうなワイヤーの隙間!そこを通れば、お嬢様と一緒に飛べる!」

治療道具の入った箱をガサゴソとやっていたお嬢様の手がピタリと止まる。まずいことを言ったかと冷や汗が出てきて、何か言い訳をしようと言葉を探す。しかし、僕が言葉を見つけるよりも先に、お嬢様が口を開いた。

「私も……」

「ん?」

「私も、飛びたい」

ぽたぽた、と。雨粒が落ちるようにお嬢様の目から涙が一つ、二つと零れ落ちた。

「ねぇシエル。私も、私も自由になりたい」

ぽたぽた。ぽたぽた。僕の手を包んだままの両手から震えが伝わってきて、よく見ると震えているのは手だけじゃないことが見て取れた。いつも僕たち妖精を窘めて、治療してくれる、まるで母親か姉のように頼もしい姿はそこになく、一人の寂しく泣く、女の子がいるだけだった。

「うん、僕も。自由に空を飛びたい」

そっと手を握り返すと、お嬢様はビクっと一瞬体を跳ねさせたけれど、振りほどこうとはしなかった。

「明日、太陽が出たら、僕のところにきて。一緒に空を飛ぼう」

「うん……約束だよ……」

「任せてよ」

手を放し、昨日の夜と同じように小指を立てると、お嬢様は涙を流したままだけど、ようやく笑ってくれた。




 最悪だ。

 お嬢様と空を飛ぶ約束をしたというのに、今日は生憎の雨だった。

 僕たち妖精は日光から力を貰っているから、こんな風に昼だというのに暗い暗い雨の日では、力が全然出てこなかった。

「お嬢様……大丈夫かな……」

小さくて高いところにある窓に、怒ったようにぶつかる雨粒を見て、僕はお嬢様の身を案じずには居られなかった。

結局雨は止まないままに、午前の実験が終わった。実験と言っても今日はなんだかやけに怒った様子の大人に棒で叩かれただけだったけど。顔を真っ赤にして、よくわからない言葉で話して、目が回っているようなその大人は、いつもよりも力が弱くて、あんまり痛くなかったのはラッキーだった。

「お嬢様、いないかなぁ」

そんな様子の大人の目を盗むのは簡単だった。そっと部屋を抜け出して、施設の中をぶらぶらと歩きまわる。あの金色の髪は遠くからでもはっきりわかるから、お嬢様はすぐに見つかるかと思っていたけど、そんなことは無かった。

「広いんだなぁこの場所」

今まで自分の部屋と、実験に使うって言われてる部屋、あとは外くらいしか知らなかったkら、こんなに沢山の部屋があるとは知らなかった。

「——!」

その時、何処からか誰かの怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。

「あっちかな?」

興味本位でその声が聞こえてきた方を目指す。誰にも見つからないように忍び足で進むうちにも、何回かその声が聞こえてきて、ガシャン!と何かが壊れるような音も聞こえてきた。この施設ではそんな音なんていつものことだけど、何度聞いても嫌な音だ。

 いよいよ声が近くなって、どうにか言葉が聞き取れるようになってきた。声が聞こえる部屋はドアが少しだけ空いていて、だから廊下にも響いているらしい。薄暗い廊下に漏れる部屋の明かりに誘われるように、僕はゆっくりと近づいていく。

「お前を見ているとあの女を思い出す!」

「え?」

聞き取れた言葉の意味はイマイチ分からなかった。女?思い出す?何のことだろう。もうはっきりと聞こえる距離にまで近づいて、僕は聞き耳を立てる。

「忌々しい。お前なんて捨ててくればよかったんだ!」

「せっかく明日研究成果の発表ができるというのに!警察なんぞに目を付けられて……!今更になって子供の保険がなんだと騒ぎおったあいつのせいだ!」

ガシャン。パリン。何かが何かとぶつかって、壊れる音。それに微かに混じった、押し殺したような甲高い悲鳴。全身にぶわっと鳥肌が立った。それは、聞き覚えのある声だったから。

居ても立っても居られず、ドアの隙間から部屋の中を覗き込む。部屋はぐちゃぐちゃに荒れていた。紙が何枚も何枚も床に散らばり、割れた光る板がそれらをむなしく照らす。ガラスの欠片がそこら中に飛び散っていて、中に入っていたらしい液体が部屋をぐしゃりと濡らしていた。その荒れ模様の中心で、こちらに背を向けて立っている男は肩で息をしていて、視線の先にある何かに向けて怒鳴り声をあげていたんだとわかった。そこから先は小さな隙間からでは見えず、もどかしい。少しづつ、少しづつドアの隙間を広げていく最中、男が再び怒鳴った。

「どれだけこの研究に費やしてきたと思ってる!国を欺き、世間から隠れ!ようやくここまで来たんだぞ!?」

怒りに任せて男はどんどんと地団太を踏んだ。太っている彼の地団太はドアまでが揺れるほどで、また小さく悲鳴が聞こえた。揺れて、都合よくドアが開いた先。微かに見えたのは、乱れた金色の髪。

「お嬢様!」

「あぁ!全く、お前なぞ生まれてこなければよかったんだ!!」

思わず叫んだ僕の声は、男の怒鳴り声によって掻き消された。生まれてこなければ。その言葉を聞いたお嬢様の目が、零れ落ちそうなほど見開かれ、そして、黒く濁っていくのが見て取れた。

——あれ、なんだろう、これ。

頭の中があつい。心臓がどくどくとなっている。

——僕、どうしちゃったんだろう。

視界の先では、男がお嬢様を責め立てていて、お嬢様はまるで人形みたいに無表情で。なんだか、そんな光景をもうこれ以上見ていたくなかった。

「お嬢様!」

ドアを開け放って、男に掻き消されないようにお腹の底から声を出す。驚いて振り返る男と反対に、お嬢様はゆっくりとした動作で首だけを動かして僕の方を見た。真っ黒に濁りきった目は、目が合ったのか咄嗟にわからなくて、また心臓がどくどくと鳴り響く。

「お前!?どうしてここに!」

男がこちらに手を広げて向かってくる。太っていて動きは遅いけれど、体の大きさは僕の何倍もある。あっという間に視界は全部男に塞がれて、お嬢様の姿が見えなくなる。それが、無性に嫌だった。

「どいて!」

どん、とその体を押す。すると、男は嘘みたいに横に吹っ飛んで、壁にどすんとぶつかった。

「何!?太陽の光は届いていないはず……!?」

何かぶつぶつ言っている男を放っておいて、お嬢様に駆け寄る。

「お嬢!お嬢!迎えに来たよ!約束!」

肩を揺すって声をかけると、お嬢様の目が少し開いた——実際には目はずっと開いていたが、そんな気がした。

「あ……シエル……?」

「うん!僕だよ!」

肩を揺する僕の手に、お嬢様の手が触れる。震えていて、冷たいその手が僕の腕をゆっくり掴んで。その瞬間に、お嬢様は堰切ったように泣き出してしまった。僕の腕は、お嬢様の爪が食い込むくらいに強く握られて、まるで何かに縋り付くようだった。

よく見ると、綺麗な白い肌には何個も赤い傷がついていて、僕まで涙が出てきそうだった。

「お前……約束だと!?何をする気だ!」

男が怒鳴る。もう、うるさいな。

「お嬢様ごめん、担ぐよ!」

「……え?きゃっ!」

泣きじゃくるお嬢様を肩に担ぎ上げて、何やら叫ぶ男の横を通り過ぎて、部屋を飛び出した。

「シ、シエル!?何する気なの!?」

「逃げるんだ!ここから!飛ぼう!一緒に、空を!!」

どくどくとなる心臓が高めた感情に任せて、僕は叫んだ。今も外は雨が降っているし、僕とお嬢様の行動は最初から見つかっている。きっと大人がすぐに追いかけて来る。でも、我慢ならなかった。

「お嬢様がいじめられるのは嫌だ!もうそんなの見たくない!」

「いじめられるって……あなた、怒ってるの?」

「怒る……?」

あぁ、そうか。言われてから気が付いた。頭が燃えるように熱いのも、心臓がどくんどくんと叫んでいるのも、怒っているからなんだ。

「うん。そうだよ。僕は怒ってるんだ。お嬢様にあいつは酷いことを言ったんだ!」

「ひどいこと……」

「そうだよ!生まれてこなきゃ良かったなんて、そんなわけない!僕はお嬢に会えてうれしかったから!」

「シエル……」

「だから、行こう。自由に、空に!」

「……うん……うん!」

涙声で、何度も。噛み締めるように返事をしてくれたお嬢様は、一度ぐじっと鼻を鳴らして深呼吸を一つした。

「シエル、下ろして。私も走る」

「あ、うん。わかった!」

ゆっくりと肩から下ろすとお嬢様は、濡れたその顔を服でグイと拭って、小さく笑って見せた。

「おいていかないでね」

冗談めかしたその言葉に、僕はお嬢様の手を握って答えた。

「もちろん!」

お嬢様は照れ臭そうにはにかんだ。



「出るよ!外だ!」

「えぇ!」

いつも僕が使っている抜け道を通って、僕とお嬢様は施設の外へと飛び出した。しかし、こんな短期間では雨は止まず、未だに太陽は分厚い雲に隠されてしまっている。

「シエル、本当に飛べるの?」

隣を走る、不安そうなお嬢様の声に、僕は握る手に力を込めて応える。

「わかんない、でも、飛ぶよ」

「わかった。信じてる」

きゅっと強く握り返される手が、お嬢様の信頼に思えて、思わず僕は笑みがこぼれた。

「っ!シエル!大人が……!」

そんな喜びもつかの間、お嬢様が慌てた声を上げる。振り返ると、必死の形相で僕らを追ってくる大人の姿が目に入った。

「シエル!このままじゃ追いつかれる!」

「わかった!」

走りながらも目を閉じて集中。背中の羽をピンと伸ばす。

妖精は明るい日光の下でしか飛べない。それは妖精の仲間から聞いた言葉。実際、今までどれだけやっても羽が風を捉えてくれなくて、一度だって飛べたことは無い。

「シエル!」

お嬢様の必死な声。次いでドカドカと大きな足音。きっと振り返ったらすぐそこに大人がいるんだろう。


 飛ぶんだ。今は、それだけでいい。


風を感じる。今日の風は少し強い。そんな体を押す風の力を、背中の羽に。

 何かが、僕の体を包む。ふわりと体が軽く感じる。


一際強い風を掴んだ瞬間。僕の体はふわりと宙に浮きあがり、手を繋いだお嬢様も、また。


「あぁ!クソ!」

大人の汚い声がする。今更ながらに振り返って見ると、本当に手を伸ばせば捕まりそうな距離に、その人はいた。


「危なかった……!」

「シエル……!?私達、飛んで……!?」

安心したのもつかの間、背中の羽が急に風を掴めなくなった。僕を包んでいた力も何処かに行って、ほんの少しの飛行は終わりを告げた。バタバタと地面に足をつけて着陸。

「やっぱり、雨じゃ……」

距離にして数m。時間にして五秒程度。これっぽっちの飛行では、施設から出るどころか、さっきの大人からも逃げられやしない。

「捕まえたぁ!」

「いやっ!シエル!」

大人の声が聞こえたと思った瞬間、お嬢様と繋いでいた手が空を切った。見上げると、大人の右腕にお嬢様はつかまっていた。

「お嬢様!!」

「何逃げようとしてんだお前は!」

ガツン。視界に星がチラつくような衝撃が頭を襲った。平衡感覚が失われて、地面に崩れ落ちる。

「シエル!シエル!!あなた、妖精に素手で触っているのよ!?いいの!?」

「あ?いいに決まってんだろ……あぁ、あれか。なんかの病気にかかるみたいな話か?あんなもん嘘に決まってんだろ!」

「なっ……嘘……?」

「そんなもんあるわけねぇだろうが、よ!」

ドスン。お腹に大人の足が刺さって、鈍い痛みが体の中を走り回る。

「なんで……?消毒って……」

「あん?何言ってんだお前」

お嬢様と話しながらも、大人は何度も僕の体を蹴る。痛い。痛いけど、慣れっこだ。

薄く目を開けると、お嬢様は抵抗するどころか、さっき見た真っ暗な目をしていた。僕にはわからないことだけど、大人に酷いことを言われたんだろう。また僕の心臓がどくんと跳ねる。これは、怒りだってお嬢様がさっき教えてくれた。

「おじょう……さま……!」

「おい。お前はおとなしく寝てろ!」

立ち上がろうとして突っ張った手を払われる。呆気なく僕の体は再び地面に落ちて、大人の耳障りな笑い声が響いた。

「シエル……」

 細く、小さな声が耳に届いた。

ハッと顔を上げると、お嬢様が悲しげな表情で首を横に振っていた。

「も う い い よ」

口の形だけでそう告げるお嬢様を見て、僕の中で何かが一気に湧き上がった。

「ダメだ!約束した!一緒に飛ぶんだって!」

「うるせえな!ピーピー喚くな!」

ガツンと顔を蹴られる。でも、目線はお嬢様と合わせたまま動かさない。

「お嬢様!行こう!きっと何とかなる!」

大人が叫び、蹴る。僕が叫び返す。お嬢様は、そんな僕を見ていられないとばかりに、ギュっと目を瞑ってしまった。

ギリ。と奥歯が音を立てるくらいに歯を食いしばる。怒りが、もどかしさが、空へのあこがれが。お嬢様への想いが。

全部溢れて、僕は声を限りに叫んだ。

「アルス!!」

ハッとお嬢様の目が見開かれて、僕を見た。

「僕は君を置いていかない!一緒に自由に飛ぶんだ!!」

ジワリとお嬢様の目に涙が溜まって、次いでお嬢様が覚悟を決めたように引き結ばれた表情に変わる。お嬢様は口を大きく開いて、大人の腕にかみついた。

「いってぇ!?」

怯んだ大人の腕からするりと抜け出して、お嬢様が僕に手を伸ばす。僕もそれを見て、なんとか立ち上がり、手を取る。

「あ!てめぇこの!!」

大人が何か叫ぶより早く。ふいにお嬢様の金色の髪が光を帯びた。

「お嬢様……?」

「シエル、お願い!」

今しかない。そう思ったのは空を求める本能からか、お嬢様の真っすぐな瞳に突き動かされたか。

背中の羽を伸ばす。全身に風の力を感じる。


さっきよりも少しだけ強くなった風。それが僕らを包んで持ち上げていくような感覚。


風の力が羽に集まる。そして、まぶしくて、あったかい光も、また。



——来た。



羽が力強く鳴り、風を完全に捉えた。

 体にあたる風をより強く感じる。一歩間違えば全身がバラバラになってしまいそうな程の力。それを、背中の羽でコントロールする。


ふわり。足が地面から離れる。

チラリと隣を見ると、お嬢様もまた宙に浮いていた。



「飛ぶよ」

「えぇ」


指を、互い違いに組み合わせ、お互いをしっかりと繋ぎ止める。決して離さないように。離れないように。



 羽を打ち鳴らす。シャン、と鈴のような音と共に、僕らの体は一気に空を駆けた。

 雨粒を切り裂き、大人なんて置き去りにして。優しく僕らを包む風のように、僕らは飛んだ。

「凄い!シエル!私達、飛んでる!」

「一緒にね!凄いや、雨の中なんて飛んだことないよ!」

お嬢様は今まで見たことがない程に顔をキラキラとさせていた。ふと見やると、風になびく髪はただの金髪。先ほどみた光は気のせいだったのかと一瞬考えて、すぐにやめた。そんなのどうだっていい。今は、僕たちが二人で飛んでいることのほうが大事だ。


「お嬢様!ワイヤーの隙間を抜けるよ!」

「隙間って、二人で通れるの!?」

言われてからはっとする。ちょっと考えて、結論。

「多分無理!」

お嬢様は驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑って見せた。

「なんとかするんでしょう?信じてる」

全幅の信頼を少しこそばゆく思いながら、僕は手を広げてお嬢様に向き直った。

「じゃあ、こうする!」

勢いよくお嬢様の体を抱き寄せる。思ったよりずっと軽くて、柔らかな感触と、何よりも暖かい体温を感じると共に、僕らはワイヤーの隙間を潜り抜けた。

「抜けたよ!お嬢様!成功だ!!」

嬉しさのあまりクルクルと空中で身を回転させると、お嬢様は腕の中で小さく悲鳴をあげた。

「もう!シエル!苦しいから!」

「あ、ごめん!すぐ離すよ」

「あ」

「え?」

抱きしめていた腕の力を抜こうとすると、お嬢様が小さく声を上げる。不思議に思ってお嬢様の顔を見ると、白い頬が赤く染まって見えた。

「その……」

目を逸らしながら。口元を手で隠しながら。

「もう少し、このままで、お願い……」

お嬢様は、消え入りそうな声でそう言った。





「そういえばシエル」

「何?お嬢様」

どれくらい飛んだだろうか。雨雲に覆われた施設を抜け出し、今やさんさんと降り注ぐ日光の下で、お嬢様は不意に切り出した。

「さっき、私のこと名前で呼んだわよね」

「え!?あ、そうかも……ごめんなさい!でもあの時は夢中で……」

慌てて謝ると、お嬢様は空中で器用に肩を竦めて見せた。

「いいのよ。謝って欲しいんじゃないの。これからは私のことを名前で呼んでほしくて」

「え?いいの?」

「えぇ。お嬢って呼び方は、あの施設の大人たちが勝手にそう呼び出して定着したものだし……それに、あなたには名前で呼んで欲しいの」

「そっかぁ。わかったよアルス!……って、改めて呼ぶとなんか恥ずかしいね」

「なんでそっちが照れるのよ!」

お嬢様……いや、アルスの突っ込みから一泊遅れて、僕らは同時に噴きだした。二人の笑い声が風に乗って何処かに飛んでいった。







「それから、二人は色んな所を飛び回りました。緑色がどこまでも広がる草原の上を、キラキラとまぶしい海の上を、楽し気な人が行き交う街を、鮮やかに咲く花畑の上を。

 二人は、自由に。誰にも縛られることなく、その旅をいつまでも幸せに続けました。

 おしまい」

「いいなー!私も空飛んでみたい!」

「ばーか無理だよ!」

「あら、本当にそうかしら?」

好き勝手に盛り上がっていた子供たちは、ピタっとその会話を止めて声の主の方を振り返る。

「奇跡が起きるかもしれない。いつか、私達人間も空を飛ぶのかもしれない。そのほうが素敵じゃない?」

「えー!そんなのあるわけないじゃん!」

「あら、そう?」

女性はそんな少年の言葉にふふふ、と笑い。

 緑色の双眸を優しく細めた。


 ここまで読んでいただきありがとうございます!突然やたら解像度の高い空を飛ぶ夢を見たので衝動で書きました。去年行った某夢の国の某アトラクションの影響だと思われます(笑)

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