騎士団長の座は渡しません2
うららかな日差しの差し込む国王の執務室にて婚約破棄の調印は行われた。
始終無口だったサミュエル王子は、しかし物言いたげに藍色の瞳をエリーゼに向けている。
彼の視線に気付かないフリをして彼女は自分の名前を書類に書き込むと側に控えている父親を見上げた。
「これで婚約破棄は成立しました」
父親は国王の側近という仕事上の顔で宣言した。
サミュエルは背を向けて部屋を出ていった。
「エリーゼ、本当に良かったのか」
何度も話し合った結果だが、父親の言葉の意味は分かっている。これからエリーゼは国境へ向かう。隣国への留学という名目での出立だが、実際は好きに人生を送るための旅立ちだ。
「お父様、心配なさることはありません。私はこれが良かったのです」
にっこり微笑んで言うと、国王がニタリと微笑んだ。
「援助は惜しげもなくすると約束しよう。君がどこにいようと、何を成そうとしようとも、それが我が王国の利益に反しない限り、君を生涯に渡り助ける」
「ありがとうございます、王陛下」
エリーゼはある意味最強のスポンサーを手に入れた。
まだ道は決めていないが、自由を手にしたことはこの上ないチャンスだ。何者にもなれる自分がいる。
胸が興奮で張り裂けそうになっている。
「エリーゼ、君の父上だけでなく私にも便りを寄越しなさい。友人として楽しみに待っているぞ」
最後に課された義務は重荷にはならない。
エリーゼは大きく頷いて部屋を退出した。
その足で伯爵家の馬車に乗り国境へ向かう。
出立準備は父や国王からの支援で不自由なく整えられ、隣国ウィルムスの宰相という人の家にホームステイをする口聞きまでしてもらっている。そこからは本当に学校に通ったり、自分の好きなことを模索していく毎日だ。
何も制限がかけられないというのは何という贅沢なのだろうかとエリーゼは知らず身震いがしてくる。
今までは王子の婚約者と言う立場上、やりたいことも我慢することが多かった。その上、お茶会や舞踏会など拘束される時間も多く、他人から見られる視線にも気を配らなねばならなかったのだ。
それがどうだろうか。
今は誰の目も気にせず、馬車の中で寝転んで本を読んだりしても怒られることがない。
国境までは長い道のりだ。
エリーゼは一緒に国を出ると断固として聞かなかった侍女のナンを想う。彼女は姉の侍女として仕えることになったが、一緒に来ていたら道中楽しかったに違いない。
それでも、自分の身一つで頑張りたいと思ったのだ。
誰の迷惑にもならず、好きなことをする。それが達成された時、自分の人生はどのように変化しているのだろうか。期待と不安が入り混じったエリーゼの耳に馬のいななきが聞こえてきた。
「どうかしたの」
御者のヘンデスに小窓を開けて尋ねてみる。
「お嬢様、私が良いと言うまで中にいて下さい。どうやら前を走る馬車が襲撃されているようです」
「え」
襲撃なんて穏やかじゃない。
エリーゼは動きを止めた馬車の中で耳を澄ます。
結構な荒事が起こっている。
じっとしていられなくて、エリーゼは意を決して扉を開けた。
「お嬢様、いけません」
小さな頃から面倒を見てくれていたヘンデスの制止も耳に入らない。
視線は前方に向けられている。
およそ百メートルほど先にいる馬車の周りを武器を手にした黒ずくめの男たちが取り囲み、貴族らしい姿の青年が応戦している。他の従者たちは怪我をして倒れているようだった。
エリーゼはすぐに隠してあった細身の剣を手にし、飛び出した。
「いけません、お嬢様」
ヘンデスの悲痛な叫び声が背後でこだまする。
エリーゼは疾走した。
着慣れたワンピースのお陰で動きやすいが、これが王子の婚約者用のドレスだったらモサモサと走ることになって格好悪かったわ、と考えながら剣の柄を握り直す。
新たに現れた剣を持つ女に黒ずくめの男たちも襲撃を受けている青年も敵か味方か分からずに一瞬隙ができた。それを見逃さず、エリーゼは男たちに切り掛かった。
「助太刀します」
青年に声をかけると驚いたように目を見張り、感謝する、と短く応じて自分も敵に向かっていく。
エリーゼの気迫と剣捌きに黒ずくめの男たちは劣勢に立たされる。
思ってもみなかった不利な状況に倒れた仲間を回収しながら男たちは撤収していった。
ふう、と息をついて、エリーゼは青年に向き直る。
「お怪我は?」
「俺は大丈夫だ。しかし臣下に怪我人がいる。助けられた上心苦しいのだが、あなたの馬車に怪我人を乗せて国まで運んでもらえないだろうか」
「もちろん、構いません」
エリーゼは辺りを見まわし、一番重症そうな黒髪の青年の元に膝をつく。
「少し触れますよ」
エリーゼは出血の激しい切り傷に手を当てて、口の中で呪文を唱える。
「魔法が使えるのか」
心底驚いたように青年が呟き、エリーゼの触れた手から光が溢れ出し、傷が塞がっていく瞬間を食い入るように見つめた。
「応急処置です。すみませんが、全ての方を治すほどの魔力を私は持っていません。ですから、命の危険がありそうな方だけ治療して馬車に乗せます」
エリーゼの言葉に青年は頷いた。
「ありがたい。本当に、あなたは女神のようだな」
「はい?」
思わぬ言葉にエリーゼは目を丸くしたが、怪我人の治癒が先だ。
怪我がひどそうな従者たちの傷をあらかた塞ぐと、エリーゼにも疲労の色が出てくる。
ヘンデスの手伝いを受けながら、やっと二台の馬車に怪我人を運び終える。
「うちの馬たちが逃げてしまい、面倒をかける」
青年が申し訳なさそうにエリーゼの手を取った。
「剣士の手だな」
スルスルとエリーゼの手を撫でながら、彼は微笑んだ。
エリーゼはしまった、という顔で自分の手を見る。王子の婚約者は剣など嗜まない。そして貴婦人の手は繊細で柔らかいものだ。自分の手はそうじゃない。
散々憎まれ口を叩かれた自分の手に劣等感がある。
それなのに、目の前の彼に触れられると、何だか自分の手が誇らしいものに見えてきた。
「俺の名はガートランド。ローランド・ガートランドだ。ウィルムス公国の者で国へ帰る途中に襲撃された。助けられた恩義があるから素直に言うが、俺は後継者争いで命を狙われている。君が助けてくれなければ危うくここで命運が果てるところだった。この恩は必ず返すと誓う。だが、今は難しい。国へ戻っても、襲ってくるやつは後を絶たないだろう。というか、無事に国へ帰れるかどうかも怪しい」
ローランドと名乗った青年はエリーゼの手の剣だこを見つめて、それから目を上げた。
「どうかあなたの力を貸してくれないか。俺の騎士として、あなたを迎えたい」
突然の申し出にエリーゼは頭が真っ白になった。
だいたい騎士というものは男がなるものではないのだろうか。隣国ウィルムスでは違うのだろうか。
それに、会って間もない自分を信用できるものだろうか。いいや、それだけ切羽詰まっているのかもしれない。
「お言葉は嬉しいのですが、あいにく私は貴国へ留学する身なのです。突然の申し出ですので、お世話になる家の方にも説明しないといけないし、第一、私はあなたがたに取っては外国人ですから、ウィルムスの文化にも慣れていないし、失礼を働くかもしれません。そうなると、あなたにご迷惑がかかることになるし、えっと」
言葉を尽くしてみたが、やっぱり駄目だ。
「いいえ、今のは忘れて下さい。騎士というものに興味があります。なりたいです、あなたの騎士に。でも、私の剣の腕は頼りないと思うので、どこかで修行をさせてもらえますか。っていうか、見ず知らずの私で良いの?」
丁寧な言葉を話すのも面倒になって、エリーゼは勢いのままローランドの手を握って言った。
「ぷ」
「ぷ?」
首を傾げるエリーゼの前でローランドは大爆笑した。意識のある彼の臣下たちが目を剥いてその光景を見ている。
「あの、そんなに笑われるとは思わなかったんだけど。っていうか、揶揄われてたの、私」
しゅんとしてエリーゼは項垂れた。
「いいや、揶揄ってなどいない。笑ってすまなかったな。改めてお願いする。俺の騎士になってくれるか」
「はい」
嬉しそうに返事をするエリーゼに微笑んで、彼は少し思案した。
「突然の申し出であることに変わりはない。国に戻るまでは護衛を頼むが、一旦あなたも留学先の面倒を見てくれるという家へ行った方が良いだろう。その上で、落ち着いたら連絡をくれるか。迎えをやる。うちは序列に煩いところがあるから、見習いから始めてもらうことになるだろう。別に俺の一存ですぐに一の騎士に任命しても良いのだが、既にいる一の騎士がヘソを曲げるかもしれないしな。そうなるとかなり面倒なことになる。あなたも恨まれるのは避けたいだろうし。あ、別にあなたの剣の腕を評価していない訳じゃない。俺から見ても、あなたの腕は一流だ。自信を持って欲しい。兎にも角にも、早急に国へ帰る必要があるから、出発しようか。馬車の中で詳しい話をさせてもらえるか」
ローランドの言葉にコクコクと頷いて、エリーゼは馬車に乗り込んだ。怪我人を座席に優先させて乗せ、満員になっている馬車は窮屈だったが、エリーゼに不満はない。
こうして助けられた命があるというのは素晴らしいことだ。
「あなたの名前は何という」
「あ、自己紹介が遅れまして申し訳ございません。私はエリーゼ・コンスタンテですわ」
自己紹介となると癖が出る。王子の婚約者として培った令嬢としての最高の形で言いそうになって、慌てて畏まらない形に落とし込む。
「エリーゼか。それで留学というのはどうして?」
「自由を手にしたかったので、すべて捨てて勝ち取った、と言いますか」
モゴモゴ。
婚約破棄されてとんずらしました、とは言えないエリーゼだった。