それぞれの思い。
温かい中に、自分は、いた。胎内の様な安心感があった。周りは、優しいピンクに包まれ、それは、満開の桜のようでもあった。体をゆっくりと動かす・・。指先の感触を確かめるように、手の平を開き、また、こぶしを握ったりしてみた。誰かが、自分を呼んでいる・・・。懐かしい声。両脚を抱き、両膝に頬を摺り寄せた。
・・・誰だろう・・・
莉音は、声のする方を、見上げようとしたが、何も、見えなかった。と、いうより、体が、動かなかった。遠い声を、思い出せと、心が、叫んでいた。思い出さなければ、いけない。大切な人。誰かが、自分を待っている。
切ない夢だった。
美央は、明け方、目が覚めた。出社するには、まだ、早い。時計を見やりながら、ノンカフェインのコーヒーを入れ始めた。携帯の、メールのチェックした。嶺からは、特にない。あれ以来、嶺は、心が、壊れてしまったかのようだった。ささやかな、式を挙げる予定だったが、嶺のあんな様子で、すっかり、遅れてしまっている。少しずつ、大きくなってくるお腹を、気にしつつも、嶺の心に、自分の入りこむ隙もない事も、この子の事を、心配してくれる事もないのを感じ取っていた。自分は、本当に、嶺を愛しているのだろうか・・・。これは、愛では、なく。執着では、ないのか。このお腹の子さえ、いれば、三人幸せになれると思っていたのは、間違いなのか。今の嶺は、魂の抜け殻だ・・・。あの、莉音は、嶺の意識まで、自分と一緒に、記憶の奥底に沈めてしまった。
・・・嶺・・・
美央は、泣き出した。このままでは、自分は、幸せになれない。嶺と、一緒にいたい。そう、思っていた。だが、今の嶺は・・・・。
・・・もう、戻れない・・・
美央は、嶺に、メールを打ち始めた。
嶺も、切ない夢を見ていた。あれから、自分の時間が、すっかり止まっていた。手術室に、駆けつけた嶺が、思わず、泣いてしまっても、会社側は、何も、気づかなかったが、莉音の夫、陸斗には、すっかり悟られてしまった。あの、屋上であった日を最後に、莉音には、逢えてなかった。もう、別れると、決めたあの日に、莉音との思い出の物は、全て、処分してしまっていたから、何一つ、莉音の思い出の物は、なかった。莉音のあの、笑顔を思い出そうとしても、目に浮かぶのは、人形の瞳をした、表情のない莉音だった。
・・・莉音・・・
夢の中に、莉音は、いた。長い髪をまとめ上げ、浴衣を着たあの日の、莉音のままだった。顔がよく見えない。
・・・莉音!・・・
声をかけようとしたが、莉音は、すっと、消えていなくなってしまった。声をあげて、泣いてしまいたい。哀しくて、哀しくて。莉音を自分の傍に置こうと、出来なかった自分の非力さをのろった。
「莉音」
声が、漏れた。誰の声かと思ったが、自分の声だった。目をあけると、目尻から、温かいものが、零れ落ちるのが、わかった。涙だった。
・・・いつも、この夢をみる・・・
心が、莉音を求めていた。起きて、窓を開けてみた。冷気が、入り込んできた。春とは、いえ、まだ、朝は、寒かった。と、携帯が、メールを告げた。美央から、だった。
・・・今日、時間があいてる?・・・
美央と、逢っていても、心は、虚ろだった。一度は、一緒に生きようと考えていたが、もう、心が、折れてしまった。今は、莉音に恂じたい。
・・・逢えない・・・
・・・これからの、事を考えて!・・・
・・・こんな気持ちのまま、先には、進めない。こんな俺で、気にならないの・・・
・・・それでも、この子には、生きる資格は、あるでしょ?・・・
・・・わかった・・・
そうだ。先に進まなくては、ならないのだろう。自分の気持ちも。莉音への気持ちも。置いたまま、時間は、流れていく。自分の、気持ちは、もう、莉音と一緒に、どこかへ、消えてしまった。こんな抜け殻のような男を、必要として、生まれてくる子が、いるのか。
・・・美央。君の意思にまかせるよ。全ては、君のままに・・・
嶺は、美央と逢うため、仕事を今日も休む事にした。
莉音は、眠っていた。ずーと、あれから、ほとんど、眠っている。意識をとりだしたような、目を開けるのは、一日のうちの、ほんの僅かな時間だった。それは、嶺のくる時間。何故か、嶺の来る少し前になると、待っていたかのように、目を覚ますのだった。だが、最近。嶺の訪問を陸斗が、断ってから、その時間も、少なくなっていた。気のせいか、どんどん莉音は、痩せ衰えていった。
「莉音」
陸斗は、懸命に、莉音の看病をしていたが、結果は、余りいいものでは、なかった。
「俺じゃ、ダメなのか・・・。莉音」
莉音の、目は、閉じられたままであった。