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お兄様達が私をお転婆呼ばわりしたのも無理なかった気がしてきた。あの母にしてこの娘ありと思われたんだろう。
「もしかしたら、母を見逃して下さったのですか?」
「……それほどまでに強い想いをお持ちだったのです。私共に止めることなどどうしてできるでしょうか?」
何だかいい話風に言ってくださるけれど貴族令嬢が梯で柵を乗り越えたのだ。つまるところ護衛騎士の皆さんも茫然自失だったのだろう。
「靴擦れで足を血塗れにしてケビンの元に辿り着いたお嬢様は、直ぐに戻るようにというケビンの説得に決して応じませんでした。それどころか自分を連れて逃げろとケビンを脅迫なさったのです。さもなくば窓から飛び降りるとか舌を噛み切るとか、最後にはいきなり服を脱ぎ捨て、今から王城の庭園でケビンに弄ばれた挙げ句に捨てられたと言ってやるとまで仰ったそうで」
「は?」
お母様……なんか怖いんだけど。思いの外激しい性格だったらしいが、白銀の妖精とか呼ばれていたのにそんなにメンヘラでホラーな一面があったなんて。何だかお父様が心配になっちゃうわ。
「とうとうケビンはアイリーンお嬢様と駆け落ちをしようと決断しました」
「えっ、なんで?」
驚いて素っ頓狂な声を上げた私をアイザックが不思議そうに見つめている。だけど不思議なのは私の方だ。うちのお母様って相当ヤバい匂いがするのに駆け落ちしちゃうの?どっちかと言えばお母様から逃げたくなりませんこと?
「それ程までに自分を想ってくれるアイリーンお嬢様が愛しくてならないのだ……とケビンは言っていましたが?」
「…………まぁ、受け取り方は人それぞれなんでしょうねぇ」
ちょっと私には理解できないのですわ、その思考。そして納得しちゃうアイザックの思考回路も理解不能だ。そんな私の戸惑いを読み取ったのかアイザックは諭すように静かに言った。
「彼らは魂で結び付いていたのです。だから恋に落ちたのは必然だったのですよ。元より二人を止めることなど不可能だった、それを無理に押さえ込もうとしたから破裂してしまったのでしょう。あの恋はそれほど熱く狂おしいものでしたから」
「けれども二人は所謂恋愛関係ではなかったのでしょう?」
「えぇ。それすらも必要なかったのでしょうね」
それなのに駆け落ちするなんてよっぽど思い込みが激しくてムードに流されやすい二人だったかそうでなければ……
「ありがとうございました」
「は?」
「あなたは深く愛し合う両親が逃げるのを手助けしてくれた。詳しい事情を知っているのはそれ故なのでしょう?」
アイザックは頭を掻きながら照れ臭そうに笑った。
「両親は不幸な事故で若くして亡くなり、赤ん坊だった私にはほんの僅かな記憶すら残っていません。けれども二人は幸せそのものだったと沢山の人々が私に教えてくれました。貧しくとも……あ、いえ、父は真面目に働いていたので暮らしに困ることなんて無かったのですが、不馴れな暮らしではあっても母はそれを楽しんでいたし、そんな母を父はとても大切にしていたようです。初めて宿した子が流れてしまった時には、あまりの悲しみの深さに立ち直れるのだろうかと周囲は気が気ではなかったそうですが、両親は労り慰め励まし合いながらその悲しみを乗り越えたと聞きました」
「そんなことがありましたか……」
「ようやく腕に抱いた私を遺して逝くのはさぞかし無念だったと思います。でも近所の皆さんは身寄りのない両親を手厚く弔い、私を何処に託せば良いのか何日もかけて話し合ってくれました。両親は周りの人々からも愛された幸福な夫婦だったんです。ですからあなたがなさった判断は間違ってはいませんでした。本当にありがとう」
アイザックが心の底から安堵したように深い溜息をついた。
「自分とてあれが本当に彼らの為になったのかと不安になることもありました。しかも二人が若くしてこの世を去っていたと知った時は、己の考えの浅さに後悔するばかりでした。しかしお嬢様にお会いして思ったのです。きっと二人は出会うべくして出会い運命の恋に落ちた。そして至宝である愛の結晶を残して儚く散って行ったのだと」
「私にそう言って貰えるほどの価値はありませんよ?」
「いいえ!」
一言強く否定してからアイザックは懐かしむように私を見つめた。私の中に確かにいる、父と母の面影を見出したように。
「お嬢様に出会われてから旦那様がどんなに穏やかになられたことか。決して取り払うことの出来なかった寂しさの影を、お嬢様は消し去ってしまわれたのですよ」
グスンと鼻を啜ったチェルシーがコクコクと首を振っている。そういえばチェルシーいたんだよね?私達の話に号泣してくれていたのに存在を忘れててごめんね。
「本当に、旦那様のお変わりようには皆驚いておりますよ。お嬢様は癒やしの魔法使いなのではないかしらと思うくらいだと」
私は完璧に温泉に浸かるカピバラだったもの。癒やし効果がありそうなのは否定しないけれど何をしたって訳じゃない。やっぱり私は単なるカピバラ的存在だということだろう。だったらウォルターの突然の路線変更はやっぱり和みを恋愛感情を勘違いしたことによる思い込みじゃないだろうか?
ウォルターの優しさが苦くて、私はアイザックに問い掛けた。
「ウォルター様はご存知だったのですね。だからあなたをお選びになった……」
ウォルターに打ち明けた今生の両親の記憶を持たぬ私は、一体何者なのかという悩みと苦しみ。彼はきっとそれを少しでも和らげようと両親を知るアイザックを護衛騎士に選んだのだ。涙で滲むアイザックに笑い掛けて私は言葉を続けた。
「母方の伯父に引き取られ、私は初めて母を失った家族の慟哭と悲しみを目の当たりにするようになりました。それで、父に対してずっと不信感を持っていたんです。父は世間知らずの母を諌めもせずに、どうして連れて逃げてしまったのかと。けれどもあなたは何故父が母の手を取ったのかを教えてくれた。それは父への不信感を取り払ってくれただけのことではないのです。今の私にとってほんの数行の文章でしか無かった父という存在に、血を通わせてくれたのですから」
どんなに祖父がワンマンだったからって、家族を捨てて逃げた母は伯父夫妻を深く悲しませた。そうなる事がわかっていながら何故父は母と駆け落ちをしたのか、私にはどうしても理解出来なかったのだ。特に意識したことはなかったものの、私は心の深い所で父に対する不信感を募らせていたらしい。けれどもその心のわだかまりをアイザックは取り除いてくれた。きっとウォルターはこの為に両親を、とりわけ父をよく知るアイザックを選んでくれたのだ。




