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アイザックは素早く剣を構え、何処に居たのか忽ち現れた数人の騎士が私たちを取り囲む。息をするのも忘れるほど緊迫したその空気の中、もう一度悲鳴を轟かせたチェルシーが今度はベンチに飛び乗った。
足下の枯れ草の間で何かがニュルンと動いている。
「あぁ、カナヘビよ?」
「へ、蛇っ?!」
ますます身体を竦めるチェルシーに、私は慌てて両手をヒラヒラと振って見せた。
「ううん、蛇ではなくて蜥蜴の仲間。大丈夫、噛んだり引っ掻いたりしないから」
私は気配を消し息を殺しながらそっとカナヘビに近づいた。そしてタイミングを見計らってシュパッと伸ばした手でカナヘビを包み込んだ。
「お嬢様、何をなさいますかっ!!」
「今日は暖かいから春が来たのだと勘違いして土から出てきたのだと思うわ。元居た辺りに戻したいのだけれど……」
周りを見回すと南向きの薔薇園の下がほんの少し斜面になっている。近づいて手を広げると、カナヘビはニュルンと地面に降りて直ぐに草陰に消えて行った。
立ち上がった時にはもうあの騎士達は消えていて、チェルシーとアイザックだけが立っていた。チェルシーは茫然としていたが突然我に帰ったのだろう。急いで私に駆け寄ってくると私の手を念入りに調べた。
「本当に大丈夫。カナヘビはね、結構人懐こいのよ」
「ひぇっ!」
チェルシーの唇がガクガクと震えている。何だか申し訳ないことをしてしまったみたいだとしょんぼりした私に、珍しくアイザックが話し掛けてきた。
「……お父上譲りですね」
「え?」
アイザックが懐かしそうに微笑んで私を見下ろしている。
「ヤモリは家の守り神だから傷付けてはならないのだと教えてくれたのは、お嬢様のお父上です」
「……父を……ご存知なの?」
アイザックは静かに頷いた。
「自分はかつてお父上……ケビン・バルドーバーと同じフランプトン伯爵家の護衛騎士でした」
ケビン・バルドーバー……お父様ってそういう名前だったんだって今更ながら思うくらい、私の中で父の存在は薄かった。母については周りがあれこれ五月蝿いくらい話すけれど、そう言えば父の話しはほとんど聞いたことがない。修道院に居た頃に昔の仕事仲間や近所に住んでいたという人達から『誠実な人だった』と聞かされるくらいで。小さな頃から両親に特別な思入れなんて無かったから、それ以上興味も関心も示さなかったのだ。
「母と駆け落ちをしたことも?」
「はい。もちろんです」
「そう……差し支えなければ教えて頂けないかしら?私は父のことを何も知らないの」
「お嬢様がお望みならば」
アイザックはしばらく空を見上げていたが、やがて私に視線を移し話し出した。
「ケビンはアイリーンお嬢様の専属護衛騎士でした。彼は腕の立つ男で王城の騎士にならないかと何度も誘いを受けていた、けれども決して首を縦には振らなかったのです。恐らくアイリーンお嬢様のお側にいたい、そう願ったからでしょう」
貴族に仕える騎士よりも王城の騎士の方がずっと格上だ。お給料に関してはまた別問題だけれど。王家主宰の剣術大会は父のような私設騎士団の騎士も参加できるから、そこで好成績を残すとヘッドハンティングが来るのだそうだ。でも父は三回誘われて三回とも断ったらしい。
「アイリーンお嬢様には幾つも縁談が持ち込まれ、けれどもお嬢様は全てお断りになられました。とうとういい加減にしろと先代様が激怒され、今来ている縁談から相手を選ぶように命じられ……」
「それに反発したのですか?」
「はい。先代様は益々お怒りになり、誰も彼も嫌だと言うなら誰なら良いんだと怒鳴られたのですが、アイリーンお嬢様がケビンと結婚したい、ケビン以外の誰かの妻になるなんて死んでも嫌だと申されて……先代様や奥様が驚かれたのは勿論でしたが、ケビンとて青天の霹靂だったのです。彼は叶わぬ片想いと諦めながら、それでもアイリーンお嬢様のお側を離れがたく騎士を務めていたのですから。当然ケビンはそれはできないとお嬢様に告げました。自分にはお嬢様を幸せにする術がないからと。けれどもお嬢様はそれなら一生結婚なんかしない、修道院に行くと仰いまして……とうとう先代様はケビンが王城の騎士になれば許すと申されました」
修道院にねぇ。貴族令嬢あるあるの脅し文句ですなぁ。それをぶちかまし何の因果か遺した我が子がお世話になるなんて、母はきっと草葉の陰で驚いていたことだろう。
「それで父は?」
「王城騎士団に入団しました。ケビンは直ぐに頭角を現し、はじめは遠巻きに見ていた他の騎士達からも一目置かれる存在になりました」
「それならどうして駆け落ちなんて……」
「それが……ケビンが屋敷を離れた間に、先代様が強引にモンクリーフ侯爵家の嫡男との縁談を進めようとなさったのです。ケビンもアイリーンお嬢様も先代様に一杯食わされたと言うわけです」
うわぁ!よりによってキャロルパパ出てきたっ!でもキャロルパパはキャロルママと結婚したってことは……
「アイリーンお嬢様はあんな高圧的で他人を見下してそのくせ上の者には媚びへつらって、意地悪で周囲の迷惑を省みず好き勝手をして妬みっぽくてひがみっぽい男なんか、死んでも嫌だと」
「………………よくぞ記憶できましたね」
お母様もそこまで言うか!だけどアイザックが優秀過ぎて、私、瞬殺で虜になりました。そんな私の尊敬の眼に照れたのかアイザックはモジモジ恥ずかしそうにしていたが、こほんと咳払いをして気持ちを入れ替えまた口を開いた。
「先代様の意思は固く、アイリーンお嬢様が泣こうが喚こうが決まった事だと言うばかりでした。お嬢様は嘆き悲しまれ見る見るうちに窶れてしまわれた。それでも先代様のお考えが変わることはありませんでした。そんなある日、アイリーンお嬢様が屋敷を抜け出してしまわれたのです」
「父に会いに行ったのですね」
アイザックは急に懐かしむような遠い目をして微笑んだ。
「今もまだあの光景が目に焼き付いております。お嬢様が木の上で作業している庭師の梯を持ち去り、柵を乗り越えたあのお姿が。ヒラリと身を躱し着地したあの御方は、地上に降りた天使そのものでした」
くすねた梯で柵を乗り越えたのに?アイザックさん、どんなフィルターを掛けて母を見ていたのだろう?そして庭師さんごめんなさい。きっと梯を外されて木から降りられずにお困りになったことでしょう。心の中ではありますが母に代わってお詫びしますわ。




