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「読み進めているうちに、私すっかりはまっちゃったのよ」
寿子は自分に呆れたように小さな笑い声を漏らした。
「溺愛なんてアホらしいと思っていたけれど、何だかずっと昔に忘れていた夢や憧れが心に舞い戻ってきたみたいにワクワクして。思わずムズムズしてくるような馬鹿馬鹿しいほどのウォルターの溺愛にときめきを感じたわ。一度だけじゃ物足りなくて何度も何度も夢中で読み返した。我慢できずに作家先生にコメントを入れたら先生は大喜びで返信をくれて、あの日は眠れなかったわ。そして私、一日の全ての隙間時間をこの小説を読むことに費やすようになったのよ」
私にとってはありきたりの内容でサラッと読んで終わりだったけれど、勝手にモデルにされていた寿子には特別な小説だったんだろう。寿子は恍惚としながらアイスピックを握ったままの手を胸に当てた。
「こんな人生、捨ててしまいたい。そうしたら私はキャロルになってウォルターに溺愛されるんじゃないか、初めは現実逃避で思い描いたことだけど、こんなに強く思っているんだから本当に神様は願いを叶えてくれるかもなんて考えるようにすらなった。そんな時だったわ。姑をショートステイに預けて手が空いたから久し振りに横浜をブラブラしたくなったの。お買い物をして一人でランチして、折角だから映画でも見ようかしらってシネコンに寄って何を見ようか選んでいたら、聞き覚えのある声が聞こえたのよ」
「…………」
ヤダなぁ。こういうのって大抵は……
「職場に居るはずの夫が出てきたの」
そうなんですね。やっぱりそうなんですねぇ。
「しかもね、一緒にいたのは近所の奥さん。うちの長男が末っ子と同い年だったっていう、私よりもちょっと歳上のね」
うわぁ。若い女ですらないだなんてそれってどうなの?アラフィフの自分よりも年上だとなると、若い女相手よりもずっとショックなんじゃないのかな?なんて考えていたら、寿子の膝に涙がぽたんと落ちた。寿子は慌てて目元を拭い……
バフッ!!
微笑みながらアイスピックを座っている箱に突き立てた。
こーわーいーっ!寿子さん、超怖いです。
「姑の認知症が進んで施設に入れようって話が出たときに、義姉夫婦やら叔父やらが可哀想だって口を挟んで来たのよ。そのせいで私は子育てしながら必死に続けてきた仕事を辞めて、介護に専念させられたわ。息子たちの手が離れてようやく思いっ切り働けるって思っていたのに。仕事人間の夫は自分の母親なのに私に丸投げ、有給なんか取っていられるかって何一つしてくれなかった。それなのに、取れないはずの有給でダブル不倫なんて許せなかった。こんなクズと離婚するのは当然だけど相手だって不幸になるべきでしょう。だから二人を尾行しながら証拠写真を取り続けたの。そうしたら……とうとうアイツらホテルに入って行ったのよ」
寿子はその光景を思い出したのかニヤッと笑った。その笑いは掻き集めた寿子のプライドなのかも知れない。
「それで……どうしたんです?」
「電信柱の陰に隠れて二時間、出て来るまでひたすら待っていたわ。ホテルから出てきたところってこれ以上ない不倫の証拠になるって、まだ三十代だった頃に不倫された友人がそう言ってたから。アイツらは何も知らずに腕を組んで出てきて、そのままコインパーキングに停めてあった車に乗って……」
急に声を詰まらせた寿子は肩を小刻みに上下させはじめた。強がっていた態度もここまでか、そう思ったがそうではなくそのまま吹き出し、そして大爆笑を始めた。その笑いは中々収まらず涙まで流してヒイヒイ苦しそうに喘ぎ、ひとしきり笑って気が済んだのか涙を拭いはぁと大きく息を吐いた。
「あぁおかしい。あれを思い出すたびにおかしくておかしくて笑っちゃうのよね」
寿子はフフフともう一度笑みを溢し『キスまでしたのよ』と寂しそうに呟いた。何だか……肉体関係よりもよっぽどショックが大きいみたいに見える。そしてそれを裏付けるように寿子はスッと目元を擦った。
「撮ったんですか、写真?」
「もちろん!」
寿子はこくりと頷いた。
「車の前に立って何枚も何枚も写したわ。だってアイツら夢中で気が付かないんだもの。とうとう夫が気付いて逃げようとしたけど、私がいて思うように車を出せない。よっぽど気が動転したんでしょうねぇ。いきなり車が急発進したのよ。多分アクセルとブレーキを踏み間違えたんだわ」
『あの人、もうそういうお年頃なのよ』とキャロルは他人事みたいに言っている。だけど、その急発進は……
「それで、あなたははねられたんですね。旦那様が運転する車に……」
「そうよ。でも痛みなんか感じなかったわ。ドンってぶつかった感覚だけ。気が付いたらこの世界にいて……私、思わず生まれてはじめて夫に感謝したわよ。それなのに、何だか様子がおかしいじゃない?これは卒業パーティじゃないし私はフランツの隣に座らされている。自分の着ている真紅のドレスを見てやっと理解したわ」
バフッ、バフッ、バフッ!!
苛立った寿子、いや、キャロルが何度もアイスピックを箱に突き立てる。最後にズブっとめり込ませたアイスピックを更にぐりぐりと回してから、ふっと顔を上げて私を見つめた。
「私が転生したのは『婚約破棄された悪役令嬢は若き公爵に溺愛される』の冒頭よりも一年近く前なんだってね」




