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スズメガをご存知だろうか?
スズメガの名の通り雀みたいな色合いの結構大きな蛾である。花の蜜を吸う成虫を見て『地味な色の蜂鳥』だと思う人がいるくらい存在感の濃い奴らで、これはその幼虫なのだからとにかくデカい。というか成虫よりもデカいのだ。ここでもぞもぞしているのは人差し指大だけれども、実はまだまだ伸び代がある。
平然とコイツが何者かを判断し『なーんだ』と言わんばかりの顔で見ている私を、皆が救世主のように見つめている。私も別に好きな訳じゃなくて、どちらかというと苦手なんだけど致し方ない。黙ってロッカーから箒と塵取りを持ち出してスズメガに近寄った。
カブト・クワガタは素手でいけるが芋虫は嫌だ。だから箒と塵取りで幼虫を確保し開いている窓から外のお池に向かってポイっと投げ、使った箒と塵取りをロッカーに戻そうと振り向いたら、教室にいた教師と生徒全員が身動ぎもせず目を丸くして私を見つめている。
暫しの静寂、その静けさを打ち破るように誰かがゆっくりと手を叩く音が聞こえた。それは徐々に数を増しやがて割れるような拍手喝采へと変化していく。
いや、私ね。スズメガの幼虫にご退出して頂いただけなんですけれどね?場内スタンディングオーベーションで、箒と塵取りを手にレヴェランスでもしなきゃいけないかなくらいの熱狂ぶりだ。しないけど。
誉められるような事でもなく気まずくなってポリポリとこめかみを掻きながら席に戻ると、他の生徒達も各々の席に着き始めた。そして何事もなかったかのように授業が再開されたのだけれど、キャロルだけは何かを思い出すのか、時折ブルブルと身体を震わせている。その未だにくっついたままの枯れ葉を見ながら私ははっと息を呑んだ。
そう言えばスズメガって……クチナシに付くんだよね。
でもキャロルが自分でそんなことを?
やっぱり有り得ない、と私は浮かんだ疑惑を打ち切った。
そんなスズメガの一件を……違う違う、生け垣に張られたテグスの悪戯の一件をきっかけに、次々と私への嫌がらせが起きるようになった。席を離れている間に持ち物が失くなってゴミ箱に捨てられているとか、掲示板に『ステラの正体は卑しい平民だ』という怪文書が貼られるとか、外を歩いていたら上の階のベランダから水を掛けられるとか。この程度ならまだ良いのだけれどこれがエスカレートすると問題だ。ヒロインのステラへの嫌がらせは上から落ちてくるのが植木鉢に変わり階段を降りようとすれば後ろから押され、スズメガ同様にお池にはめられることもあった。いくらなんでも身の危険に晒されるのは真っ平ごめんだ。しかもそんな時タイミング良く現れるのが王太子で、植木鉢はすんでのところで手首を掴んだ王太子に引き寄せられて頭を逸れ階段ではガシッと抱き止められ、お池にハマってずぶ濡れになれば王太子に上着を掛けられるのみならず固く抱き締められる。
いかんいかん。そんなことになったら折角回避した離岸流に引き戻されてしまうかも知れないではないか!アイリーン・フランプトンのカリスマ性も決して万能ではないのだ。一ミリたりとも王太子との距離なんて詰めてはならない。
それにしても不思議なのはキャロル及び取り巻き令嬢達の雰囲気だ。
あのスズメガの一件以来、どうも私はこのクラスで一目置かれ崇めるような視線を送られるようになった。それはキャロルの取り巻き令嬢達も同様である。ヒロインのステラへの物理的嫌がらせの実行犯はこの令嬢達で、悪役令嬢キャロルが物申さねばと思った時には前線に出て、あれやこれやと言い掛かりを付ける役どころ。キャロルは言い方はキツイけれども正論しか言わないんだけど、取り巻きさん達の言うことったら虐めでしかない。それなのに何だかフレンドリーな挨拶を投げかけて来たりするのだ。
一方キャロルは妙に単独行動が多い。お疲れ気味なのかいつもぐったりしているし、何をやらかしたのやらスカートがビショビショになっていることもあった。そしていきなり一人で私の前に立ちはだかっては歌舞伎レベルの睨みをきかせ、口をモゴモゴした挙げ句何も言わずに去っていく。
あれ一体何なんだろう?
やっぱり王太子との中を破綻させた原因になったのを根に持っているのかな?だけどヒロインのステラとは違い私を恨むのはお門違いで完全な逆恨みだ。しかしながら不本意ではあっても原因になってしまったのは確かで、やっぱり私の胸には罪悪感が燻っている。逆恨みでほんの少しでも気持ちが紛れるのなら受け入れるのはアリだ。要は王太子さえ絡んでこなければ構わない。王太子絡みへの発展だけはお断りだけど。
やっぱりキャロルにはまだまだ王太子への未練が有るんだろう。婚約解消は保留なのだ。だったら素直になってまた元の鞘に戻れば良いのに。そうしたらキャロルの初恋は成就するし、王太子は足りないところを補ってくれるこの上なく有能な妃を娶ることができる。そしてこの国は安泰で皆が幸せになるではないか。
でも……ウォルターはどうかな?キャロルという光を手に入れられなかったウォルターは、いつか誰かと幸せになれるのだろうか?アンチだからキャロルはナイとしても、今のウォルターならば好きな人がいておかしくはない。キャロルが王太子と幸せになるならば、ウォルターだってその人との幸せな未来を手に入れるべきなのだ。
結局ウォルターとはあれきりだ。甘えグセが付いてしまったからこれからは一人で頑張ると手紙を書いて送った私に、ウォルターからは手紙ではなく赤い薔薇の花束だけが届いた。カードすらついていなかったのはちょっと、ううん、かなり悲しかった。
多分ウォルターは私に利用されていたのに気が付いて嫌いになったんだろう。それどころか自分の将来の為ならウォルターの幸せなんて踏みにじっても構わないとすら思っていたんだもの。そんな自分勝手な私が、いつまでもウォルターに癒やしを与えるカピバラでいられるはずがないのだ。
それでもこんな風に悩みで雁字搦めになった時、ウォルターに会いたくてたまらなくなるのはどうしてだろう。
私はフフッと乾いた笑い声を上げた。
そうなのだ。私だけじゃない。ウォルターも私の癒やしだった。私を見て和んでいるウォルターに私は癒やされていたんだ。
ウォルターは私の大切なカピバラだったのだ。




